第7夜 嫦娥:記憶のない少年

「記憶が……ないのです」


 その者はそう言った。

 名前も出自も何も覚えていない、と。

 それでも身分が良いことは話し方や所作を見れば分かる。

 だが、俊敏な動きは尋常ではなかった。

 水のように流れるような動きに無駄はなく、風の如く素早く、それでいて音がしない。

 武術を嗜んでいるという程度ではなく、明らかに特殊な訓練を受けた動きだ。


 それなのに身分は奴隷だと言う。


 記憶がなく倒れているところを運悪くその手の者に拾われたのだろう。

 ボロを着て薄汚れた姿で肉体労働を強いられていた。

 そんな姿でもその者は私の目を惹いた。

 汚れを落とし、それなりの着物を着せてやれば一国の王にも見えるだろう。


 これは私にとって好機だと思った。

 天が私にこの者を遣わされたのだとも思った。

 この時期に目の前に現れたのだからそう思っても仕方ない。

 運命だと悟り、頭のどこかで警鐘が鳴っているのを無視した。


「私と共に来い。お前に相応しい身分をやろう」


 運命と言えば運命だった。

 この時の選択が私にとってもその者にとっても『はじまり』となった。



 あれから幾月か流れた。

 拾った記憶のない奴隷は『ユエ』と名を与え、私の世話係として側に置いた。

 風呂に入れた女官が悲鳴を上げて知ったのだが、月は男ではなく女だった。

 若く美しい少女に私は興味を抱いた。

 月にはあえてそのまま男の恰好をさせた。

 彼が女だと知る者は私の他に側近の『サン』と彼の妹の『スウ』のみに限定した。

 月にも女であることを隠すようにと躾けた。


 月は寡黙ではあったが、的確な助言をすることもあれば、こちらが口にせずとも意図を汲み、そのように動いた。

 その聡明さは知識だけでなく、常に周囲を観察しているからだとも知った。


 月の出自が知りたい。

 そう思うのは当然で、密かにスウに探らせたが良い報せはまだない。


 どうして記憶がないのか。

 それともそういうフリをしているだけなのか。

 月を見ていると後者のような気がしてきて、時折眠れぬ夜を過ごすことも増えた。


 主君が若い男を連れ帰り、いきなり自分の世話係として側に置くとなれば、周囲にはあらぬ疑念を抱かせた。

 主君の世話係と奴隷の中では上位の地位を与え、特定の側近と部屋に籠ることもあった為、長く仕えてくれている他の者からの反感も買った。

 私のあずかり知らぬところで嫌がらせもあったようだ。

 けれど月は言葉で相手を言い負かし、卑劣な手を使う者にも毅然と立ち向かった。

 月は世話係としては合格だった。

 が、私はただの世話係として月を連れ帰った訳ではない。

 真の目的は別にあった。


「若様、月を拾ってから随分経ちますが『アレ』についてはいつ……?」

 サンが文を届けに来たついでを装って問う。

 そろそろ問われる頃だと思っていた。

「私もまだ判じかねているところだ。あれには素質はある。だが、素性が分からぬ以上、下手に使えん。男と偽っているが、あれの顔を知っている者には何の意味もない」

「ですが、若様の予想が正しければ素性などそう簡単に分かろうはずもありません。いずれ私と同じように護衛にするとのことですが、これから先もずっと護衛として側に置くおつもりですか?」

「いや、ただ慎重に進めたいだけだ。あれの忠義心を確かめねば事を進める訳にはいかぬ」

「どうやって確かめるおつもりですか?」

「隙を作る」

「隙、とおっしゃいますと?」

「記憶が本当にないならば良い。その方が使いやすい。だが、それがフリならば理由はただ一つ。この首を狙いに来ているのか否か。それをはっきりさせる」

「……具体的なお考えがおありで?」

「あるにはある。サン、お前にはスウ以外にも兄弟がいたな。アルとリュウを借りたい。月のことは話していいが誓いを立てさせろ」

「承知しました」


 策がある、とはサンに言ったものの、大したものではない。

 聡明な月には簡単に見透かされるやもしれぬとも思ったが、それでも月の心がどこにあるのか試したかった。

 陳腐な策に気づいた月がどう反応するのか。

 それを考えると少し怖くもあった。


 数日というほど短くもなく、年を経るほど長くもないが、僅かばかりの情が湧くには充分な時が経っていた。

 月は長く私に仕えるサンやスウよりも阿吽の呼吸で私を理解している。

 まだあどけなさの残る子供だというのに、だ。


 私の策にはサンとスウだけで充分ではあったが、他に二人も呼び寄せたのは私がそんな子供を恐れているからだ。

 月に私への忠義がなければ、月は私に刃を向ける。

 その時、サンとスウだけでは頼りなく思った。

 私は自分の臣下よりも月を恐れている。

 思わず笑いが零れる。


 サンもスウも腕が立つ。

 私自身も武術に自信を持っていた。

 月の動きを見るまでは。


 あれは人の動きではない。

 戦場でもあんな動きをする者を見たことがない。

 それ故、月を欲しいと思った。

 味方として使う立場ならば良い。

 だが、敵であるならばすぐに殺しておきたい。


 月はそういう少女だ。


 新月の夜に準備を整え、月を罠に嵌めた。

 適当な口実を作り、いつも側で私を警護するサンとスウを遠くへやった、と思わせた。

 部屋には私一人。

 そして剣を飾っておいた。


 露骨すぎた気もする。

 サンもスウもそう言って反対した。

 分かりやすくしたのは月の本心を知りたくないという私の心がさせたことかもしれない。

 多分、月も気づいた。


 私も阿呆だ。

 月がその気なら食事に毒を盛る機会など幾らでもあった。

 音を立てず俊敏に動けるのだから寝所に忍び込み、寝首をかくことも容易かったはずだ。


 月はいつも通りだった。

 月は罠に嵌らなかった。

 が、思いがけず実の弟が釣れた。


 そういえば疎まれていた。

 いつかこうなるとは思っていた。


 水のように流れるような動きに無駄はなく、風の如く素早く、それでいて音がしない。

 月は飾っていた剣で弟から私を守った。


 月の前には弟と弟の臣下数名の骸が転がった。

 私は驚いて瞬きを忘れた。

 それ故、全てを見ていた。

 一瞬の出来事ではあったが、その一瞬を見逃すことなく、全てを見ていたのに何が起こったのかすぐには理解できなかった。


「若様っ」

 サンが叫んで駆けて来る。

「若様、ご無事ですかっ」

 スウの声もする。

「若様」

 アルとリュウの声もした。


 弟と目が合う。

 最期まで理解し合えなかったが、それでも私はこうなることを望んではいなかった。

 こうなることを避けるべく話し合いをしたかったが、それを避けて来たのも事実だ。


 人生は選択の連続だ。

 何かを選択すれば、選ばなかった道が存在する。

 いつだって選ばなかった方の行先を気にしてきた。

 これで良かったのかと自問自答しながら次の選択をする。

 立ち止まることはできない。

 ある程度進んでから過去の選択の結果を知る。

 すぐに結果を知ることができたとしてもそれが真の結果とは限らない。


 だが、私はこの先常に自問自答するだろう。


「月を拾ったことは正しかったのか」


 その答えはまだ見つかっていない。

 まだ『結末』を私は知らない。



嫦娥こうが……月の女神。中秋節の日に水をはった器に針を入れ、針の沈み具合で嫦娥に自分の運命を占ってもらうという習俗がある。

※ 『Asylum』に続く。

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