夜を駆ける(1)

「……い、葵?」


 名前を呼ばれ、剣崎はゆっくり目を開ける。すると、目の前にはベッドに腰掛け、心配そうに顔を覗かせている美紀が居た。薄く化粧をした顔、灰色のスーツ。仕事終わり。それらの情報を一つ一つ、脳内に表示させ、一言。


「あ……おかえり……」

「大丈夫なの?」

「うん」


 剣崎は起き上がると、母親に対して頷く。


「もう大丈夫」

「そっか」


 母親は胸を撫で下ろした後、剣崎の頭を撫でる。


「あ、仕事場の人と御飯行くんじゃなかったの? 私は大丈夫だから行って来たら?」

「んん……あんたがそう言うなら……行ってこようかしらね。うん」


 そう言ってベッドから腰を浮かし、ドアへと歩いていく。そして、ドアを開けると、こちらを振り向いて口の端を上げる。


「御飯はリビングね。お父さん、今日は帰ってこないから」


「……また通り魔の?」


 剣崎がそう言うと、彼女は困った様子で頷く。


「そそ。危ないから無茶はしないようには言ってあるんだけどね……。ま、行ってきまぁす」

「うん、行ってらっしゃい」


 美紀が出ていくと、倒れて枕に頭を埋める。

 通り魔。自分を異常な体へと変えた人物。

剣崎は怒りが込み上げ、顔を顰めさせる。

かつてない感情を剥き出しにし、掛布団を握り締め、深く息を吐く。良く聴き取れる聴力を得た剣崎の耳が、母親の外出していく音を鮮明に聴いた。彼女の履いたヒールの規則正しい音が段々と遠のいていく。


耳に届かなくなると、体を起こし、ベッドから降りる。そして、私服が収納されているクローゼットまで歩くと、それを開ける。

サイズの大きな服がハンガーに掛けられており、その下にあるスペースには箪笥が置かれていた。


剣崎は置かれていた箪笥を引き、衣服を漁る。その中で、ある服を取り出した。

ジャージだ。それも黒い。右胸にはスポーツメーカーの大き目な刺繍が施されており、それを軽くなぞる。このメーカーは父親が気に入っている物で、こういう類の衣服を買うとなれば、決まってこの刺繍が施されている物を買ってくるのだ。サイズは、L。元は父親の物である。


「自分の買おうかな……」


 買ったとしても、結局は同じサイズのジャージを買う羽目になってしまう為、金の無駄遣いに終わるのが目に見えている。剣崎は諦めて制服を脱ぎ、そのジャージを着る。


 その後、一度部屋から出、一階へと降りて玄関へと向かう。学校用に履いていくローファとは別の、外出用のスニーカーを下駄箱から取り出して、再び自室へと戻った。


 自室に戻った剣崎は、立て掛けている姿鏡の前に立って自分の姿を見る。只のジャージを着た自分が映るだけで、特別なものは何もない。そこで、自身の目に力をいれ、目を吊り上げさせる。すると、先程までの垂れ目の自分とは打って変わって、目付きの悪い自分が誕生した。だが、これだけでは目付きが変わった剣崎葵というだけだ。これ以上特徴を変える事も出来ない。


 どうしようかと考え、ふと勉強机に置かれている数枚セットで入れられているマスクの袋に目を向ける。花粉症が酷かった時に、常備していたマスクの余りだ。彼女はそれに手を持ち、マスクを装着する。顎まで隠れるタイプの為、顔のパーツは目しか確認する事が出来ない。目付きを変えているので、誰かに剣崎だと認識される事は恐らくないだろう。


 次はベッドに目をやる。ベッドの下にはあの白い日本刀がある。それを手に取るのにベッドの下に手を入れるのだが、日本刀に届く気配すらない。無理矢理押し込んでみるものの、やはり届かない。業を煮やし、ベッドの下側を上に押しやる様に持ち上げる。大きなベッドの重みを感じない事に驚きを隠せずにいたが、奥に追いやられていた日本刀を足で掻き出した後、ベッドを、音を立てないようにゆっくり下ろす。


「よし」


 そう言うと、窓へと移動する。窓を開け、その縁側に足を掛けた。そして、一つ深呼吸をするなり外へと飛び出した。蹴った時に、『メキッ』という音が耳に届き、少し不安になったが、自分の置かれた状況によってそれは打ち消された。


「ひぃいいいいいぃぃぃぃっ!!」


 一度の跳躍で地上三〇メートル程の高さにまで及んでいたのだ。薄暗くなった道の為、帰宅している社会人などは誰も剣崎が跳んでいる上空を見上げたりしないのが、唯一の救いだ。


 上昇続けていた跳躍が落下へと変わった。徐々に近づいてくる地上に、再び悲鳴を上げたのだが、悲鳴を上げるだけでは何も解決にもならず、剣崎は一戸建ての屋根に着地する事となった。しかし、着地するタイミングが分からず、足が屋根に着いた瞬間に体勢が崩れ、そのまま屋根を転がり、取り付けられていたコンクリートの屋根がいくつか音を立てて割ってしまった。転がった音が聞こえてきたのか、家の中から居た女性と男性の驚いた声が上がった。


 剣崎はすぐに立ち上がり、次の着地点へと跳躍を開始する。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」


 涙目で何度も謝り、その家から飛び去る。次に着地するとなった場所は、先程と似たような構造の一軒家だった。その事で、剣崎はげんなりとした。次は着地のタイミングを間違えないように着地する。着地する瞬間、足にクッションを作る事で勢いを完全に殺す。これを行わなければ、先程の様に屋根を粉砕しかねない。


「ふぅ……」


 成功した事で安堵の息を吐くと、屋根の上を走る。そして、勢いをつけて跳躍をした。次から次へと跳んでいくにつれ、跳躍に対する恐怖感も自身の身体能力の向上によって薄れていった。恐怖心が無くなれば、後は心地良さが剣崎の中に自然と流れ込んでくる。マスクの下で笑みがこぼれ、この体になってから、絶望しか無いと思ったのだが、少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。しかし、今回外に出たのはこの感覚を得る為ではない。


 自分をこの体にした犯人を見つけ出す事だ。


 先程、心地良いと思ったのは事実。しかし、それとこれとは別だ。


 跳び続けて十数分。剣崎が住む県の都心部へと辿り着いた。都心部に着いた途端、大きなビルが立ち並ぶ。それらのビルの一つの屋上に降り立った剣崎は人工的な灯りで囲まれた街並みを見下ろしながら、ジャージのポケットにしまっていた携帯電話を取り出した。ディスプレイのトップ画面に表示されているメールアプリに数件のメールが届いているのに気付いた。それを展開すると、日向と緑原からのメールが届いていた。どちらも身を案じたメールであり、日向の方はまるで母親の様な風邪を治す為の過程をびっしり書かれていた。それに、少し声を上げて笑うと彼女達に返信をした。他のメールは、他のクラスメイトの女子からのものだった。自分を物珍しそうに見るが、決して悪い子達ではない為、邪険出来ない。冷たくあしらう相手は、男子だ。最近は無くなったが、自身の身長を聴こえるように、『デカッ!』等とからかいにきていた。進学校となれば、常識を持った子が居るものだと思っていたのだが、とんだ見当違いだった。


 過去について考えるのはやめ、目に意識を向ける。その瞬間、視界が一気に拓け、下に居る人達の顔が鮮明に確認出来るようになった。そして、次に耳へ意識を向ける。視力同様、常人では有り得ない聴力が発揮された。


『はぁ!? 有り得ないんだけど!?』『もうすぐ帰るから! 御飯置いといて!』『ねぇねぇ、どこから来たの?』『は? うざ』『ですから、今日では無理ですって!』『ねぇ、今日どこいくぅ?』『ホテルでも行く?』


 幾人もの声が剣崎の耳に届き、思わず両耳を覆った。痛みが頭にまで響き、顔を顰めさせると、耳に対する意識を少しでも削ろうとした。

 その時だ。


『おら、さっきも言っただろ? 金』

『いいいいい、嫌です……っ』

『あ?』

『ひっ……』


 弱々しい声色の男性の声と威圧的な男性の声が二つ。どうやら、カツアゲに会っているようだ。カツアゲなど、テレビドラマだけの出来事だと思っていたのだが、現実にあるのか。


 そう思った剣崎だったが、すぐに頭を切り替え、声がした方角に目を向け、立っていたビルから飛び降りた。落下していく中、壁に足をつけて勢いを殺していく。そして、出来る限りの力で壁を蹴った。壁が僅かに砕ける音と共に今までに無い速度で空を駆けた。

 だが、


「きゃああああああああああああああああああああああああっ!!」


 悲鳴が暗い街中に響き渡った。

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