創作短編集「四季折々」完結
朶稲 晴
第一話「春待つ人」
【春待つ人】
今年も庭の桜は咲かなかった。
春史は裸足の肢体を縁側から庭に放り投げ、紙巻き煙草に火をつけた。そのまま足をぶらぶらさせながら大きく煙を吸い、そして吐いた。春とはいえまだ寒いからっ風が吹く庭だ。煙の残滓を跡形もなく花曇りの空へとおしやってしまった。
彼の庭には、桜の木がある。幹は細いが背丈がそこそこあって、枝々は空へとかぎりなく腕を伸ばしている。
春史が問う。
「おい、桜。」
「はい。なんでございやしょ。」
桜の声は確かにどこかで聞いた声だなと春史は感じたが、どうだろうなぜだろう、その声の主をすっかり思い出すことができなかった。
「今年も花を咲かさないつもりかね?」
「……。」
「だんまりときた。ずいぶん偉い桜もあったものだな。」
春史は裸足のまま庭におり、ぺたしぺたしと乾いた土を踏んだ。
「えぇ?おい。」
紙巻き煙草の赤い先端が桜の脇腹に押し当てられる。桜のかすかな悲鳴と、蜉蝣の羽のような煙を生んで、炎は消える。
「桜を灰皿がわりにするなんて贅沢者。」
「おや?嫌だったかい?存外その胸のうちでは昂るなにかがあるんじゃねえのかい?」
「ひどい。あなたって存分なサディストだったのね。」
「ああ何とでも言え。そうさわたしはサディストさ。しかし馬鹿ではない。世には桜切る馬鹿なんてものもいるみたいだがね。わたしはむやみに切ったりはしないさ。質問にさえ答えてくれればね。ね?桜。今年は咲くのかい?」
「……。」
「よほど俺を馬鹿者にしたいみたいだな。どれ待ってなさい。今納屋に行って鋸をとってこよう。」
桜はわぁっと泣き出し、つきはじめた葉を精一杯に揺らした。
「よして、よしてください。あんまりです。」
「馬鹿にしたいのはお前だろう。」
「わたしの妻の死体をくれてやったのに咲かないなんて、とんだ屍喰いの桜だ。」
そう、三年前まで春史は妻とこの家にすんでいた。妻のつくる花たくあんとこの桜のはなを肴に一献やるのが毎年でした。その頃はまだ春史も穏やかで、桜の木を灰皿にするなどという愚かなことは考えもしなかったでしょう。
「あのときの旦那様はどこへ行ったのです。わたくしを娘のように愛してくださった旦那様はどこへ。」
「どこへ、なんて馬鹿な。愚かしいのはお前だよ。わたしの愛は、そら。」
春史は桜のもとへひざまずき、妻のかわりの家事で荒れた手で、いとおしげに根本を撫でるのでした。
まなざしは劣情に歪んではおりましたが、発せられる声は悲痛なほどにはっきりとしていました。
「花をつけるのが百年先でも構わんさ。千年でも万年でも待つさ。」
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