序章

「――またか」

 真っ暗な、ワンルームのアパート。

 眠りから不意に醒め、身体を起こして、そう呟いた。

……頭から……離れろよ。

 目に焼付いた。

 脳裏に刷り込まれた。

 消すことの出来ない記憶。

 一ヶ月前の……。

「……顔が……駄目だ」

 動悸が激しくなってきていることに気付き、汗が滲む頭を抱え、身体を前後に揺らし始める。

……消えろ……消えろ……消えろ……消えろ……消えろ……消えろ……。

 ただ一つの単語を心の中で呪文のように唱える。

「……なんなんだよ」

 両手で顔を覆い、呻く様に呟いた。

……大丈夫だ……忘れろ……忘れろ……。

 脳裏にチラつく〈あの顔〉を振り払うように、覆った両手で顔を擦ると、枕元に置いた携帯電話を手に取り、ディスプレイに映し出された時間を確認する。

……二時……三分……。

 丑三つ時。

 起床時間としては、ちょうどよかったのかもしれない。

 時間的にあと少しだけ微睡みを堪能できるのだが、目が冴え、それも叶わない。

 真夏の夜にある、気怠い暑さのせいではない。

 間違いなく、夢に出てきた〈あの顔〉のせいだ。

……もう準備しよう。

 一年以上続いている早朝のバイト。

 新聞配達。

 そのための支度。

 一ヶ月前、あんな思いをしたのだが……辞めることに躊躇いを抱き続けて、今に至る。

……学費のためだ。

 苦学生の辛いところ。

 バイトを掛け持ちして食い繋いでいるのが現状。

 夏休み中は稼ぎ時、敢えて稼ぎぶちを減らすわけにもいかない。

「……満月……」

 徐に布団から出ると、カーテンが開かれたままの窓に、くっきりと映し出されたそれを見上げた。

……あの時も……満月、だった。

 再び、脳裏に蘇る……。

 〈あの顔〉

 一ヶ月前の……。

 新聞配達での……。

 自分の担当区域であるマンションでの……。

……十三階……。

 〈あの顔〉を目撃することになった。

 忌まわしい場所。

 俺は……。

 ほぼ毎日のように、そこに向わなければならなかった。

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