生きる、ということ

 日が沈みかけ、小屋の中にも夕陽が綺麗なオレンジ色の線を足していく。

 一昨日の大雨は一時的なゲリラ豪雨。昨日と今日は打って変わって天候は良好、夏だから暑さは否めない。


 そろそろ亜希がコンビニ弁当ぶら下げて帰ってくる頃だ。


 家出生活にはそれぞれに簡単なルールを作った。

 彼女は自己所有の自転車がある為、コンビニへの買い出し係。彼女は構わないらしいが、僕はたとえ三日間でもあまり顔を見られる訳にはいかない。だから彼女にその任務を託した。彼女はお金もほとんど持っていなかった為、お金は僕がすべて出すことにした。

 家出の割に何も持ってない亜希の為に、彼女には持ってきた寝袋を渡した。僕は持ってきたブランケットを敷いて寝ることにした。

 あとは着替える時はお互い外に出るとか、少し静かにするとか、そんなところだ。シャワーは無いので近くの川を利用している、夏だから出来る技だ。


「ただいまー」


 彼女がコンビニの袋を両手にガサガサと音立てながら、器用にドアを開けて帰ってきた。


「おかえり、あんまり乱暴に扱うなよ。いつも中身が偏ってて食い気が失せる」

「自転車っていう時点でそれは難しい相談だねぇ、山道だし」

「だからといって帰ってきても適当で良いというわけじゃない」

「はいは~い、ごめんなさ~い」


 たった二日なのに、いつの間にか僕たちは自然にやり取りをするようになっていた。いや、亜希は常に自然体だから、多分僕が順応したのだろう。人間とは不思議なものだ。


 弁当を広げて、お互いに食事の準備をする。

 いただきまーすと元気そうに亜希は言う。今日で二日目の夜、こうして亜希と食事するのは最後かもしれない、と考えると意外にも少し寂しさを感じた。


 僕も亜希が買ってきてくれた弁当に箸をつけながら、ふとあることに気が付いた。亜希の家出の理由を、そう言えば僕は知らない。最初の時も彼女の勢いに押されて聞きそびれたからだ。


「亜希、お前はどうして家出をしたんだ?」


 おもむろに僕が聞いた。彼女は箸を止め、どこを見る訳でもなく僕に返答する。


「……そういうソーイチくんはどうして?」

「僕か、僕は……」


 僕は家出についての経緯を彼女に話した。彼女の表情はいつになく真面目で、何より静かに聞いていた。どこか哀しい、それはあのとき、家出だからと言ったあのときの目に見えた。


「そっかぁ。ソーイチくんみたいな人でも家出を考えちゃうんだね」

「みたいな、とはどういうことだよ」

「分からない?  自分がどれだけ贅沢なことを言ってるか。何もかもを産まれながらに持っていて、何の不自由もなく与えられて、常に行き先を明示されて、そこを歩いて行けば確かに安心だと分かっていて……親の愛情だって、余すことなく注いでもらっているのに」


 いつになく淡々と言葉を並べる亜希。

 言っていることは分かる、分かっている。ただそれは与えられない他者からの視点、隣の芝生に近いようなもので、実際は当事者になってみないと分かるものじゃない。分かってたまるか、お前は僕じゃないんだ。


「一方通行の愛情なんて、そんなのは愛情じゃない。ペットと一緒だよ。他人に自慢するだけの作品に仕上げられ、どこかが欠けたら直せと叱責される。今まではそれに従うことが生きる意味だったけど、違和感に気付いてしまったとき、それは僕自身の人生ではないんだ、両親の人生を――僕は生きているんだって気付いたんだ」

「それでも――」


 彼女が咄嗟に言葉を挟む。彼女はまた青いビー玉を手に取り覗き込んでいた。


「ソーイチくんは幸せだよ、生きているって実感しているから、そう考えるの」

「それはどういう――」


 言いかけて、彼女はおもむろに立ち上がり干してあったバスタオルを手に取る。


「水、浴びてくる」


 散らかしたまま、彼女は小屋の外へと出て行った。外の陽は完全に山の端に隠れ、辺りは闇に落ち行くのを待つだけだった。


 しばらく彼女の言葉の意味を考えながら呆然とし、僕は後片付けをした。



✿✿✿



 亜希が水浴びから戻ってきた後に、僕も水浴びに行った。

 辺りはすっかり暗くなり、足下も怪しいので予備のランタンを持って来ていたのは正解だった。水浴びを終え、足下を照らしながら僕は小屋へと向かっていた。


 小屋が見えて来ると、窓から光が全く漏れていないことに気が付く。おかしいな、大きめのランタンがあるからいつもは灯りが見えるのに。


 小屋に辿り着き、ドアを開けると「おかえり」と亜希の声がした。


「なんだよ、起きてるならランタンくらい点け――」


 言い終える前に、急に目の前が眩しくなった。彼女がランタンを灯したのだ。何かのイタズラかと僕は彼女を叱りつけてやろうと思ったが、目の前の灯りに浮かび上がった彼女の姿を見て、僕は絶句した。


 彼女は、亜希は上半身に何も身に付けておらず、全てを露わにしていたのだ。ただ膨らみかけた両の胸の中心は、自身の腕で必死に隠されていた。


 しかし僕が絶句した理由はそこではない、彼女の体に無数にある紫色の痣や黄疸、右肩に集中した一センチほどの黒点の集合体。恥ずかしさもあるだろう、そして悔しさもあるのだろう。彼女の頬は赤らめてはいるが、同時に揺らめく玉水が、目尻に浮かんでいる。



 彼女の家出の理由は、口で語るには残酷なものだと悟った。



 彼女がどんな人生を歩み、何を感じ、世界を模索し、どこに辿り着いたのか。それらを理解するのに、コンマ一秒もいらなかった。彼女は家出など簡単なものではない。



 亜希はここに、死にに来たのだ。



「あたし……」


 彼女が口を開いた次の瞬間、僕は自分の持っていたタオルで彼女を包んで抱きしめた。無意識に、僕自身も気付かぬうちに。そうしなければ、彼女は消えてなくなってしまう、そんな気がして……


「何も、言わなくていい。亜希は確かにここにいる、いて良いんだ、この世界に」

「あ、あたし……こんななのに。誰のためにもならないのに――」


 亜希の身体が、内側の感情を抑えきれず、嗚咽と共に肩を大きく上下する。大粒の涙が僕のシャツに染み込んでいく。僕は彼女の頭を優しく撫で下ろす。


「誰が見てなくても、僕はここでお前と偶然にでも出逢った。お互いがお互いに、足りないものを埋め合わせるために、気付かせてくれるために、神様が用意してくれた舞台だったんだよ。この山小屋は」


 神様なんか信じてもいない。なのに何でそんなことを口にしたかは分からない。

おんおんと憚らず大声を上げて泣く亜希。僕は彼女の中に押し込められていた感情のすべてを受け止めるように、強く強く……彼女を抱きしめ続けた。


 性格も性別も、境遇も正反対の二人。これからを生きる為に来た少年と、これまでを終えるために来た少女の不思議な出逢い。



最後の夜、泣き疲れて眠った亜希を優しく包むように、抱きしめながら眠りに落ちた。

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