57  悲劇

 長尾は赤信号でブレーキを踏んだ。


「しかし当てるな、毎度」


 こちらが田辺に手を出させなければ、宇田川はしらを切り通しただろう。田辺を人質に取ろうとしても、それが失敗すれば公務執行妨害で逮捕できる程度で、取引の阻止には何の役にも立たない。


 長尾と小谷から拳銃を取り上げておいて、田辺を盾にした宇田川との勝負に出るという作戦は、無謀に思えたが見事に功を奏した。


 それだけではない。十一年前に宇田川が関与した全く無関係の事件を持ち出したのも浅葉の計算のうちだった。そのひと月前まで宇田川が住んでいたマンションに引っ越した一般人が、誤って殺されたのだ。十五年前に浅葉の親父を撃った人物は相撃ちで死んでいるし、その所属組織の幹部は余罪も加わって未だ塀の中。


 浅葉のこの手の小芝居に長尾は慣れっこだった。長尾が動くべき段階になれば必ず浅葉から合図がある。集中してそれを待つのみだった。普段あまり浅葉と組まない中川、小谷は面食らってはいたが、二人とも勘はいいからついてこられると浅葉は判断したのだろう。


 宇田川と間違われて死んだ人間の身内を装い、あたかも正義を捨て復讐に燃えるような素振りを見せる。こいつは人質もろとも撃つに違いないと宇田川に覚悟させるには持って来いの策だった。田辺は指示通りの演技などできるタイプではないから、宇田川を術中にはめるには彼女にもそう信じ込ませる必要があった。


 二人を狙うと見せかけて一瞬の隙をつき、宇田川の背後から今にも発砲しようとしていた中川の拳銃だけをはじくという離れ技も、長尾には到底無理な話だ。一ミリでも外されると困る、という浅葉の言葉に今さら納得する。


 長尾は、宇田川をかばおうとした田辺千尋と、浅葉の拳銃が火を噴く間際に彼女の前に飛び出した宇田川のことを思い出していた。そして気を失った田辺を抱きかかえて泣き崩れた宇田川の姿を。


 長尾に取り押さえられた宇田川は、その場から部下に取引中止を命じた後連行されたが、情状酌量の余地は十分あるだろう。この分ならいよいよ足を洗うと言い出すかもしれない。この父娘について調べ尽くし、知り尽くした浅葉でなければあり得ない見事な算段だった。




 田辺の無事を守りながら、宇田川に取引を中止させる。その困難な任務自体は成功した。しかし、長尾の心は晴れやかとは程遠い。現場で気を失った田辺が運ばれた病棟を、つい先ほど後にしたところだ。


「幸い怪我はなく、本人もだいぶ落ち着き、話せる状態だ」という病院からの連絡を受けて、すぐに浅葉を探した。しかし姿が見えなかったため、代わりに様子を見てきて知らせてやろうと、先に面会に行ってきたのだ。


 長尾は田辺と顔を合わせる前に、担当医から衝撃的な事実を告げられた。


 田辺には、選択的健忘けんぼうの疑いがあるという。極度のショックやストレスで特定の記憶だけを失うというものだ。


 実家から駆け付けた母親のことはすぐにわかり、友達や大学のこともひと通りおぼえている。ただ、この一年の記憶は曖昧で、父親については、十七年前に失踪した後のことは何も知らず、つい数時間前に再会したという記憶はなかった。


 母の離婚が成立するまでの中西という姓はよくおぼえているが、父が現在名乗っている宇田川という名前にはぴんとこない。医者の立ち会いのもとで面会した長尾の顔には何となく見覚えがあると言うが、警察の世話になったり、任務に協力したりしたという認識はなかった。そして……。


「何て伝えりゃいいんだろうな」


 田辺の脳からは、自分に恋人がいたという記憶がぽっかりと抜け落ちていた。浅葉のことは、写真を見せても誰だかわからない。名前も、そういう刑事の存在も、田辺の記憶から完全に消え去ってしまっていた。


 記憶喪失には一時的なものもあり、いずれ思い出すかもしれないという希望はある。だが、もしこのまま……。


 後ろからクラクションが鳴り響き、長尾ははっと我に返ってアクセルを踏んだ。




 長尾が署に戻ると、大部屋では若い巡査たちが冗談を言い合っていた。駐車場には浅葉の車があったから、署内のどこかにはいるはずだが……。


 まさかとは思いつつ地下に下りていくと、奥のトイレに珍しく明かりがあった。人が入るとセンサーで自動的に点灯する仕組みだが、別棟の霊安室に通じる扉のすぐ手前にあるこのトイレは、普段まず使われない。


 長尾は不審に思い、足音を忍ばせて廊下を進む。と、そこから異様なうめき声が漏れていた。長尾自身にも覚えのある、いよいよ吐くものを失った胃が絞り出す悲痛な叫び。声ともつかぬ声の主は明らかだった。扉に無造作に掛けられたストライプの上着を見るまでもない。


「あの野郎……ぎ付けちまったか」


 長尾は今来た道を静かに戻った。背後から、個室の壁にこぶしがめり込む鈍い音がした。

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