56 回顧
長尾は、署に向かって一人車を走らせながら、先ほどの現場に向かう途中でのやり取りを思い出す。
浅葉が長尾だけを同乗させた時点で、「これは何かあるな」と長尾は覚悟を決めて助手席に座っていた。
当初の予定では、あの柱の陰には長尾が待機し、田辺を宇田川に引き会わせるのは浅葉のはずだった。ところが、車が公道に出るなり浅葉が切り出したのだ。
「長尾、配置を代われ」
「あ?」
「いざとなった時に、一ミリでも外されると困る」
誰が外すか、と言い返したいところだったが、課長とのミーティングを終えた後、現場での指揮はあくまで浅葉の裁量に委ねられる。長尾もこの
「わかったよ」
「それから、もう一つ」
「ああ」
「宇田川が田辺を盾にして交渉を狙う可能性がある」
「そりゃあり得るな。まあ心配すんな。絶対取らせねえからよ」
「いや……」
長尾は胸騒ぎを覚え、浅葉の横顔を注視した。
「長尾、ここだけの話だ」
もはや嫌な予感しかしない。
「何だよ」
「宇田川に田辺を渡せ」
「何だって!? お前正気かよ? 宇田川がどう出るかなんて、何の保証もねえんだぞ」
「表向きはミスったふりをしろ」
「冗談じゃねえよ。宇田川はおとなしく応じるってお前が言ったんだろ。いい加減にしろ!」
長尾が
「長尾、お前の任務は何だ」
何を急に、と面食らいながらも、長尾は反射的に答える。
「取引の阻止、田辺の安全確保」
「そうだ。俺も同じだ」
長尾は何も言えなかった。確かに、この二つに関して浅葉が妥協することはあり得ない。むしろこの任務に
こいつ何か握ってやがるな……という、馴染みの感覚が湧き上がる。
浅葉はこれまでにも、独自に入手した情報に何らかの理由で確信を持ち、裏が取れぬまま見切りでそれを使って検挙に持ち込んだことが何度かある。課長にあらかじめそう宣言する時もあれば、今日のように土壇場でいきなり長尾に指示してくることもあった。
長尾は必ずしもそのやり方に賛成ではなかったが、結果的に失敗したことはない。むしろ、半信半疑でついていった結果、それが長尾の手柄として評価されたこともあったほどだ。そしてこういう時、浅葉は長尾にも、黙ってついてこいとしか言わない。
「わかったよ。コケたらただじゃおかねえぞ」
かくして、現場への到着後すぐに、長尾は配置変更の事実のみを他の面々に告げたのだった。
石山は会議室に一人
(あの時とあまりに似てたな……)
十五年前のとある薬物取引。バイヤーとして名乗りを上げた後、ちょっとした
これがちゃんとしたプロならまだよかったのだが、運悪くぽっと出の無茶苦茶な組織で、この世界の暗黙のルールなどおよそ通じない相手だった。
警察上層部は結果としての抗争の激化を予想していながら検挙を優先し、
その取引を間近に控えたある日、両団体がとあるホテルのロビーでもめ事を起こし、供給側の組員が一人射殺されたほか、たまたま現場に居合わせた四十代の一般女性が流れ
その翌日、報復としてバイヤー組織の事務所前で組長が狙撃されたのを皮切りに、大規模な銃撃戦が勃発。石山を含む薬銃のメンバーも、組織犯罪対策課の面々と共に現場に急行した。
当時警部補だった石山は、警察に向かって発砲した組員の腕を撃った。その直後……。
そいつが取り落とした拳銃を別の組員が拾い上げていた。石山は自分の眉間にぴたりと狙いを定めた漆黒の銃口を今でもはっきりとおぼえている。しかし、次の瞬間石山を襲ったのは、銃弾ではなく仲間の
浅葉
浅葉警部は当時課長の立場にあり、現場に出ることはほとんどなくなっていたが、この日に限っては自ら指揮を取ると言って聞かなかった。今思えば、部下の命が危ないと虫が知らせたのかもしれない。
その昔、石山がまだ巡査だった頃、誰よりも職務に情熱を燃やし出世も順調だった浅葉和秀巡査部長は、事件関係者との大恋愛に身をやつした。彼はある日突然、普通の生活がしたいと言って退職願を出し、既に身重になっていたその恋人と結婚した。
頼りにしていた先輩の退職を諦め切れなかった石山は、上司に頼み込んで彼の退職願の受理を延ばしてもらい、浅葉家に足しげく通って諸々の事件の相談を持ちかけた。
そんなことを繰り返すうちに、彼はとうとう退職願を撤回した。乳飲み子を一人抱えての再出発だった。
その時の赤ん坊は父親の殉職当時、高校生になっていた。大学受験を控えていたこの長男は、石山が告別式で顔を合わせた時には母親と共に
一方、もともと反抗的だった次男は、父親の死後いよいよグレて手が付けられなくなり、名門高校に通っていながら地元数校の不良集団とつるんでさんざん無茶をやった。いよいよ三年に進級できそうにないとなると、誰の顔も見たくないと言い残して単身海外に渡った。
ところが、六年後に帰国して突然実家に顔を出し、仏間に足を踏み入れたことすらなかった彼が、初めて仏壇に手を合わせたという。そして……。
一体何がそうさせたのか、母親の猛反対を押し切り、父がかつて無念のうちに閉じた道を歩み始めた。
命の恩人である上司の息子を、石山は手塩にかけて育て、警部補にまで成長させた。いや、石山自身は何もしていない。持って生まれた血というものだと思う。
対面した当初は特に似ているとも思わなかったが、自分の配下に
遺影になり、新聞報道にも使われた顔写真は殉職の前年のものだったが、最近の浅葉
「血は争えん、か……」
石山は、内ポケットから取り出した封書の表書きをもう一度眺めた。左に傾いたいつもの筆跡だが、ボールペンの走り書きの代わりに、万年筆でも使ったらしき改まった
いつぞやの昇進記念に警察庁から贈られた万年筆は、左利きには不自由だと言って開封すらせず後輩にあげてしまったくせに……。
田辺との一件は上にうまく話せんこともないし、とりあえずこの件が片付いてから話をしよう、と言ってはあるものの、浅葉の結論が
一年前、田辺千尋の体をまさぐっただけの、武器も持たない三流組織末端の男に無言で発砲した部下を思い、石山は深くため息をついた。あの時に恐れていた通りの展開だった。浅葉が痴情にほだされながらも「かする程度」に抑えたことを、奇跡とすら呼びたくなる。
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