35  逢瀬

 千尋は予定通り一時間で自宅の最寄駅に着いたが、ふと考えた。


 浅葉の寝付きの良さは天下一品だが、それでもまだほとんど眠れていないはずだ。三時間あると言っていた。早く会いたいのはやまやまだったが、もう少し寝させよう、と決意し、千尋は駅前のコンビニで時間をつぶすことにした。


 しかし、雑誌など眺めるふりをしてみるものの、写真も文字もまるで頭に届いてこない。そろそろ一時間は眠れたかな、と当たりを付け、いざ自宅へ向かう。


 ドアを開けると、浅葉は千尋のベッドで気持ち良さそうに伸びをしていた。


「お帰り」


「ただいま」


「授業サボって、悪い子だ」


と、浅葉は腕を組み、険しい顔を作ってみせる。


「悪い刑事さんにそそのかされちゃって」


 千尋は靴を脱いで上がり、いつもはとりあえずベッドに置くバッグを今日は床に置いた。椅子には浅葉のスーツが掛かっている。


「ちゃんと眠れた?」


「お前の作戦通り、たっぷりね」


(なんだ、バレてたか……)


 既に「パジャマ的なものもないのでやむを得ず」全裸の浅葉は、千尋を抱き寄せると、そのままベッドの中へと連れ込む。愛に満ちたキスでじっくりと千尋をうるおしたかと思うと、突然チュっと音を立てて千尋の舌の先を吸った。二人の間に笑みがこぼれる。


 浅葉は千尋の髪を後ろからかき上げ、探るように顔を覗き込んだ。千尋は曖昧に微笑ほほえむ。


「あのね、終わり切れてないというか、まあ多少名残があるかも、っていう……」


「真っ最中でも俺は別にかまわないけどね」


「いや、そういうわけには……」


と言いながらも、愛しい浅葉に抱かれたくない日などもはやなかった。


「ね、シャワー浴びてきていい?」


「後にしなよ、そんなの」


 浅葉は千尋の首筋に手を這わせる。


「さっぱりしちゃって、もういいやってなるだろ、お前は」


 確かに、せっかくのムードがシャワーで冷めてしまった経験が千尋には何度かあった。


(でも、浅葉さんがなぜそれを……)


「もしかして、俺にも洗ってこいとか思ってる?」


「ううん、そんなこと……あ、でも何日も前に浴びたっきりとか言わないでよね」


「失敬だな。今朝浴びたっつーの。お仕置きするぞ、こら」


と千尋の耳を舐め回す。千尋は降参して抱き付くと、改めてその舌をせがみ、ただひたすらその甘美な儀式を味わった。


 そうこうしているうちに、ボーダーのカットソーが浅葉の手でめくり上げられた。


 その手が千尋の肌に触れ、ゆっくりと上半身の全てを巡ってゆく。それに対して、まだ触れられてもいない陰部が反応するのを感じ、千尋は既にその声を発してしまっていた。


 千尋の上半分がき出しになると、浅葉は下を脱がせる前に、もう一度千尋に断るチャンスを与えた。


「いいの。もうどうでもいい」


と千尋は意思を明確にし、露骨に興奮した体を浅葉に擦り付けて急かした。


 相変わらずたっぷり寄り道しながらスカートを脱がせる浅葉特有のペースに翻弄される。ようやくそれが足元に辿り着くと、千尋は靴下を蹴り捨て、念のためのナプキンが付いた下着を布団ふとんの中でこっそり脱ぎ、丸めてベッドの下に押しやった。


 浅葉が物干しの方を指差して尋ねる。


「あれ、いい?」


 千尋は頬を赤らめながら身を乗り出してそのバスタオルを取り、位置を見計らって広げた。


 ふと見ると、浅葉の太腿ふとももには例の傷がざっくりと残っている。これでも当初よりは薄くなった方なのだろう。


「まだ痛い?」


「うーん、どうかな? 触ってみ」


 千尋はその直線の両サイドに恐る恐る指を滑らせ、いたわるように掌で全体をそっと覆った。そのかたわらで操り人形のようにぴょこんぴょこんとお辞儀じぎをし、千尋の気を引こうとしている者がいる。


「ちょっと、何やってんの」


とたしなめつつも、千尋はあっさりそちらへと乗り換え、優しく指をからめた。


「とりあえず、元気そうね」


 顔を見合わせて微笑むと、どちらからともなく再び唇が触れ合った。


 時間が経つのも忘れ、あまりに懐かしい互いの体をいつまでもいつくしみ合っていると、不意にアラームが鳴った。浅葉がうめきとも叫びともつかぬ声を漏らす。千尋の中に入ったまま枕元の携帯に手を伸ばし、その非情な音を止めた。


 一瞬のキスと共に、未練を振り切るかのように後退しかけたその腰を、千尋は両のかかとでぎゅっと引き留める。


「時間でしょ? ね、早く」


 名残なごり惜しい気持ちはどうにもできないが、せめて浅葉には最後まで終えてほしかった。


「お前はほんっとにいい女だな」


と耳元で囁くと、浅葉はやや遠慮がちに腰を揺すった。


 間もなく、精悍せいかんな喉仏が微かに上下したかと思うと、獅子ししのごとく盛り上がった肩がねじれ、全体がスローダウンした。汗ばんだ筋肉の重みが千尋の胸に預けられ、湿った荒い息が耳元をくすぐる。


 浅葉は甘えるようなキスと共にそそくさと退場し、素早くシャワーを浴びた。


 三割方濡れたままの体に服を着てたちまちスーツ姿になる。見送ろうと立ち上がりかけた千尋は、優しく押し留められた。


「ここでいいよ」


 ベッドの端に座ると、浅葉は何か言いたげな瞳でしばらく千尋を見つめ、ぎゅっと抱き締めた。千尋は目を閉じてそれを受け止める。言葉にならなかった浅葉の思いが染み込んでくるような気がした。


 浅葉は千尋の頭を抱き寄せ、ぽんぽん、と手で挨拶すると、さっと立ち上がり、そのまま振り返ることなく部屋を出ていった。外から鍵が掛かる。


 遠ざかる足音は、既に業務用の響きを帯びていた。それを千尋は心だけで追いかけた。何だろう、まるで禁断の逢瀬おうせのようなこのはかなさは……。


 浅葉を責めたくなってしまう気持ちをねじ伏せ、あなたのせいじゃない、と何度も繰り返した。しかし、浅葉の温かい言葉や優しい眼差しを思い出そうとすればするほど、やり過ごそうとした胸の痛みは増すばかりだった。

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