15  甘党

 小さなカフェに辿たどり着いた二人は、窓際の席に案内された。


 千尋が白黒の格子柄こうしがらのジャケットを脱ごうとすると、浅葉が後ろから手伝い、それを腕に掛けたまま千尋の椅子を引いた。流れるようなその所作しょさは決して大仰おおぎょうでなく、千尋も何となくいつもそうされているような気分になって、礼を言いながら悠然ゆうぜんと席に着く。


 浅葉はそばにあったコート掛けにまず千尋のジャケットを、続いて自分が脱いだレザージャケットをその隣に掛けた。


 浅葉が向かいの席に座るのを、千尋は甘酸っぱい思いで見つめた。薄グレーの長袖のカットソーの中に、締まった肉体がうかがえる。Vネックの襟元えりもとからのぞく鎖骨に男を感じてしまい、千尋はそんな自分を恥じた。


 千尋の先ほどの「下調べ」通り、ここのケーキは程よく小さめで、種類が豊富。


「私、ベイクドチーズケーキと、紫芋むらさきいものミルフィーユと、紅茶のシフォン」


「お前そんな食うの?」


「そんなって……一個一個が小さいですから、これぐらい全然ですよ」


「じゃ俺、ガトーショコラと、モンブラン」


(自分だって二つも食べるんじゃない……)


 千尋は苦笑をそっと噛み殺す。


 飲み物は紅茶とコーヒーをそれぞれ注文した。そういえば、浅葉はメニューをろくに見ていなかった。


「よく来るんですか、ここ?」


「いや、俺もちょっと早く着いちゃったので、偵察を」


「まさか」


と千尋は笑った。


「いや、普通その二つはあるだろ、どこでも」


 自分がケーキを食べる間、退屈しきった浅葉がコーヒー片手にそれを眺めるという図を思い描いていた千尋は、オーダーを済ませただけですっかりご機嫌きげんだった。


 間もなく、可愛らしいケーキと、コーヒー、紅茶が運ばれてきた。浅葉の手元に注目していると、砂糖をスプーンに半分ほどと、ミルク一つを入れた。果たしてこれが正解なのか、特にこだわりがないのか。千尋は、どんなコーヒーを出しても全て飲み干した浅葉の後ろ姿を思い出し、ひそかに笑みを浮かべた。


 浅葉はコーヒーを一口飲み、ケーキに付いてきたフォークを手に取った。


「浅葉さんって、左利きなんですね」


 浅葉は一瞬手を止め、


「え? そうだっけ?」


ととぼけてフォークを右手に持ち替えると、それはそれで違和感なく、千尋の顔を見つめたままガトーショコラの角を口に運んだ。


(両利きか……)


 千尋も伊達だてに一週間見つめ続けていたわけではない。パソコンのマウスを右手で操作しながら、コーヒーやおにぎり、サンドイッチを左手でつまみ、たまにボールペンで手帳に何かを書き込むのと、携帯の画面にタッチするのは左手、という記憶は鮮明にある。ただし拳銃は右にげ、腕時計は左手だった。


 千尋がミルフィーユを味わいながら浅葉の手につい見とれていると、


「ちょっともらっていい? それ」


と言うなり、その手が千尋の皿から紫のクリームをすくっていく。


「いい? って、もう取ってるし」


 わざと恨みがましくにらみながらも、急に二人の距離が近付いたような気がして、千尋の心はときめいた。


「そっかあ、実は甘党なんですね」


「いや、そういうわけじゃ……」


「じゃあ、純粋にケーキが好きってことですか?」


「うーん、嫌いじゃない」


 首をかしげながら、今度は生クリームの乗ったシフォンをたっぷり持っていく。


「ちょっと……」


と怒ってはみせたものの、のっけから当然のように恋人モードの浅葉の振る舞いに、どうしてもほおゆるんでしまう。千尋も負けじと、浅葉がまだ手を付けていなかったモンブランをたっぷり削ってやった。すると、


「あー」


と口を開けてあごをしゃくる浅葉。千尋の脳内に花が咲く。栗色のかたまりを押し込んでやると、浅葉はフォークに噛み付き、千尋の動きを封じた。


 千尋は、そっちがその気なら、と、浅葉の右手にあったフォークを頂戴ちょうだいし、改めてモンブランを攻撃する。それが千尋の口の中に消えるのを、浅葉はいかにも幸福そうに見つめた。


 周りから見ればバカップルそのものだろうし、千尋は本来こういう浮かれ方はしないタチだが、今日ばかりは特別。過去にはあまり感じたことのなかった恋愛の威力を思い知る。


「これは?」


と千尋がチーズケーキをつつくと、


「チーズはチーズで食いたいじゃん。なんでケーキにするかな」


と言いつつも、大きめの一口分を切り取る。千尋は、


「文句言うなら食べないでくださいよ」


ふくれてみせながら、「チーズケーキはNG(?)」と頭の中でメモする。


「そうだ、あの怪我……撃たれたとこ、大丈夫ですか?」


「ああ、何だっけ? そんな昔のこと、おぼえてないな」


「すっごいれてましたけど」


「傷もしょっちゅう作っとくと、治りが早くなる」


「絶対そんなわけないし」


 あのバスルームで間近に見た浅葉の肌を思い出し、目の前の薄い生地におおわれた脇腹につい目をやってしまう。千尋は慌てて目をらした。しかし、もし浅葉とこのままうまくいけば、いずれは体の関係にもなるだろうという期待とも不安ともつかぬ思いが頭をもたげる。


 これほど美しく、愛嬌すら示し始めた男に抱かれたくないはずはない。だが、それに引き換え自分は、という思いもますます強くなる。


 千尋は自分の体型が決して気に入っているわけではないし、行為に関しても基本的に受け身だ。かつての交際相手には、「つまんねえ女」と鼻で笑われたこともある。浅葉にがっかりされたらどうしようと、早くも心配になってきた。


 浅葉はケーキを食べながらも飽きることなくずっと千尋を見つめ、無理に話題を作ろうとはしなかった。それでいて千尋と一緒にいることをじっくりと味わい、楽しんでいる風に見え、これぞ自然体という感じがした。


 千尋は必要以上にドキドキして目を合わせられなくなってしまったが、紅茶を飲んでごまかし、しばらくケーキに集中することにした。庭園にはいつの間にか、小さな黄色いライトがぽつりぽつりとともっている。


 五つのケーキを二人で跡形あとかたもなく平らげてしまい、水のお代わりをもらったところに携帯が鳴り出した。浅葉はジーパンのポケットに手を入れてその音を止めた。アラームだったらしい。柱の時計は五時五十分を指している。


「そっか、もう時間……」


「送ってくよ」


「え、でも、これから仕事に戻るんですよね? 六時前ってもう……」


「うん。それ、お前んち経由の場合ね」


(あ、さっきの時点でそこまで予定してくれてたんだ……)


「すみません、お忙しいのに」


 言いながら自分でも、なんて他人行儀な、と思う。つい先ほど恋人になったはずだが、手の届かない憧れの存在と思っていただけに、まだ実感が湧かなかった。


「といっても、今日は電車なんだけど」


 電車だろうと何だろうと、あの浅葉が直々じきじきに送ってくれるというだけで千尋は舞い上がっていた。


 浅葉は、財布を出そうとする千尋を制し、クレジットカードで支払いを済ませた。サインをする手の脇に置かれたカードには、SHUJI ASABAとあった。


(シュウジ……)


 知りたくてたまらないけれどこれまで聞けずにいた、浅葉のファーストネーム。よりによってなぜその名なのか、と千尋の心は一瞬くもった。しかし、今すぐ下の名前で呼ばなければならないわけでもないし、呼ぶ頃にはきっと気にならなくなっているだろう。


 千尋は気を取り直し、


「ごちそうさまです」


と笑顔を向けた。


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