漂流者のガニュメート

古の魔法により十代も半ばを過ぎた今もなお幼い容姿を持つ。カロンは自宅の屋敷に一人で住んでいた。否、彼の心にはロールがいたので、一人というのはやや不適切であったかもしれない。しかし、彼がひとりで暮らしていたのは事実だ。そこにあるときからガニュメートという男が加わることになる。


ガニュメートは『大人』だった。大人は協会式の魔法を使う。ガニュメートも専用の道具を持っていた。大人らしく高い背に、発達した手足。緩やかな弧を描く金の髪を肩の上まで垂らして柔和な笑みを崩さない。底の見えない表情や優男風の恰好はいかにも怪しげで、ともすれば胡散臭いと言えなくもなかった。


素性の知れない男を招き入れ、あまつさえ一緒に暮らし始めたのには理由がある。学園近くの喫茶で最初に話しかけられた時、カロンは同様にしてくる他の有象無象と対応を同じくするつもりで、つまり、邪険にして追い払う心づもりでいた。いつだってそうしてきた。カロンは美しい。魔法にかけられた柔い肌と月色の髪は人を狂わせ、偽りとごまかしを見抜く目は惑わされた人間を正しく見分ける。だからカロンは突っぱねる。ただの一つの間違いもないように。だから、今回もそうなるはずだった。しかしカロンは自分の名を呼ぶ男の持つ月色の髪に覚えがあった。次いで、ロールを知っているか、という声に奇妙さを覚えた。何より男が下げていた『鎖付きの時計』に覚えがあった。知らない仲ではないのだと、少なくともこの男には自分となにがしかの縁があるのだと、聡明な頭脳はすぐに結論付けた。だからカロンはガニュメートと名乗った男を家に連れてきたし、彼の話の詳しいところを聞く気になった。


ガニュメートはカロンの持つ時計と自分の持つ時計を突き合わせて、自分は他次元からやってきた君だ、と言った。差し出された時計をカロンはまじまじと見た。手になじむ螺子巻きの時計は間違いなくこの世に一つしかないはずのもので、それは男の荒唐無稽な一言を信じる根拠足りえた。運命の持つ数奇というものには際限がない。カロンは見慣れた時計を開き、そう思った。


懐中時計の盤からは針が飛び出している。見慣れた造形の時計は傍目に見ても壊れきっていて、実際のところ使い物にならないようだった。男は針を押し戻そうとするように親指で盤を抑えた。陥没させるつもりかと問いたくなるような手つきで押し込められたガラスのカバーからはギチギチと耳障りな音が鳴った。時計の蓋を閉めた男がふと気が付いたように、ロールは元気にしているか、と言ったので、カロンは顎をしゃくって『自分の手で殺したんだろう』と返した。男は意外にも、少し傷ついたような表情をした。カロンは面倒そうにクロゼットの中を見せた。俺は『他次元からやってきた君』を迎え入れる俺だ、と言って、死んだロールを見せた。古いうさぎのぬいぐるみがロールの亡骸だと知っているのはカロンだけだ。だからカロンはそうした。誰にも見せたことのなかったそれを、初めて自分以外の目に晒した。カロンは男が目を見開くのを見た。男はより強いショックを受けたようだった。カロンはクロゼットの扉を閉め、男の話を聞くことにした。


ガニュメートは何かを探しに来たのだという。そしてそれは長い次元移動の中で忘れてしまったのだとも。代わりに彼はロールの葬式の話をした。ポプリを敷き詰めた藤の篭に入れられて、幼い友人は荼毘に付されたのだと男は言った。カロンは男の姿形に合点がいった。手続きを経て、ガニュメートは『お別れ』を済ませてしまったのだろう。別れの先にあるのは忘却だ。彼の体にはもう魔法は残っていないに違いない。だから時計は壊れている。だから、この男はこんなにも背が高い。そして、だから、死んだロールを見て傷ついたような顔をする。


カロンは滞在を許した。ガニュメートに行くあてはないようであったし、『時計が壊れる前に発った』という言葉を信じるのであれば、帰る場所というのも恐らくないのだと思われた。カロンは滞在を許した。葬儀をするほど愛しかったロールの姿形まで忘れてしまった男が哀れに思えたからというのもある。それを他になんとしよう。彼は自分だ。他になんとしよう。自分は彼の一側面だ。聡明な頭脳に張り巡らされた神経たちは、きっと何か大変なことが起こる、と予感した。少し前、ガニュメートは『先生』の話をしていた。先生はガニュメートの魔法のお師匠様だという話だった。先生と出会うまで紫の髪を見たことがなかったといったガニュメートに、カロンは何とも言えない感慨を抱いた。覚えているのだろうとも忘れているのだろうとも言えず、ただ口を閉ざした。なんと言おう。何を言っても間違いのような気がした。ロールの髪は薄紫だった。カロンの懊悩をよそに彼は王宮の相談役に師事していたのだといった。ガニュメートの口調は嬉しそうだったが、カロンにはどうだっていいことのように感じられた。王宮に興味がなかったからだ。そういえば同じ学年に女王になると公言している男がいたな、とカロンは思った。


(続く)

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