不義の子 鬼の啼き声外伝
白鷺雨月
第1話不義の子
その日、母さんは朝からそわそわしていた。
お気に入りの蝙蝠がらの着物を箪笥からだし、着付けていた。
鼻歌なんかをうたったりしている。
それから、鏡台の前に座り、念入りに化粧をする。
それは、合図のようなものだった。
あの人がくる。
一ヶ月にだいたい、一度のわりあいであの人は僕の家にやってくる。
母さんはニゴウさんとか、オメカケさんと呼ばれていた。
だいたいではあるが、言葉の意味は知っていた。
知りたくもなかったが、おせっかいにも言葉の意味を教える人がいたからだ。
息子の目から見ても、母さんは美人だった。
大正のこの時代の女性たちのなかでも、背はかなり高いほうだろう。すらりと高く柳の木のようにしなかやだった。
大きな瞳がシャム猫を連想させた。
くっきりとした顔立ちはきっと銀幕の女優としても通用するだろう。
その人よりも飛び抜けた容姿を才能として、利用すればこのような生活を送らなくてすんだかもしれない。
だが、それは選択しなかった。
母さんは誰かの庇護下にいることを望んだ。
そして、さらにその下にいる僕にはどうすることもできなかったし、 母さんを非難することもできなかった。
ガラガラと玄関の横開きの戸が開く音がした。
もう一度、乱れてもいない髪を鏡の前で整えると、母さんは玄関のほうに行った。
はーいという嬉しげな甲高い声をあげ、小走りであの男を出迎える。
不本意ながら、僕はとことことその後に続いた。
中折れ帽をかぶった背広の男の人が立っていた。仕立て生地の良い背広を着て、手には革かばんとちいさな紙袋を持っていた。
その紙袋をそっと僕の目の前に差し出す。
「いい子にしてたかい、坊」
低い、響くような声で男は言った。
それをていねいに受けとる。
袋からは甘い、いい匂いがした。
ケーキかなにかだろう。
「ありがとう」
そう言い、ていねいに頭をさげた。
もらった洋菓子を台所の戸棚にいれると僕は家を出た。
あの人がくると僕は家をでなくてはいけない。
それは、けっして口にはださないか、母さんとの約束だった。暗黙のである。
あの男の人は一言も僕のことを邪魔とは言わない。
だが、僕は肌で感じていた。
あの家に居場所はない。
あの男の人が帰るまでは。
だから、僕は外であそんで時間を潰すことにしている。
おおよそ、夕暮れ時まで遊んでいればいい。
その日もいつものように路地裏などを歩き、どうにか時間を潰そうと思った。
母と二人だけで暮らしている僕には友達何てものはいない。
ただひとりで街中を歩き、うろうろと景色を見て回るだけだ。
何気なしに薄暗い道に入るとガラクタに紛れて、ひとりの人間が横たわっているのが見えた。
恐る恐る、興味本位で近づいてみると、その人物は母に負けず劣らずの美人であった。
その女のひとは足をおさえ、なにか痛みに耐えているようで、ウンウンとつらそうにうなり声をあげていた。
「苦しいの……」
僕はきいた。
「あの鬼め……力いっぱい足をつかみやがって。痛くて仕方ない。これじゃあ、しばらくまともに歩けんよ」
涙ながらに女のひとは言った。
僕はさらに近づき、女の顔を見る。
「あ、あんたは誰ですか」
切れ長の女の瞳が僕の顔を見ている。赤い薄い唇が印象的だった。全身真っ黒な衣装に身を包んでいる。
「坊や……あたしの名前を知りたいのかい。そうだね、助けてくれるのなら教えてあげるよ」
潤んだ瞳で女のひとはじっと僕の顔をみる。
それはきっと好奇心と、もて余した時間をどうやって消化するか迷っていた気持ちがそうさせたのかもしれない。
こくりと僕は頷いた。
「あたしは怪人二十面相が人格のひとり、怪盗黒蜥蜴だよ」
ニヤリと淫魔めいた笑みを浮かべ、その黒ずくめの女は言った。
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