ナナカの花嫁修行②
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「ナナカ、タオジロウ。其処にお座りなさい」
普段から微笑みを絶やさない、優しい
姿勢を正し、まるで喪服の様に真っ黒の着物に身を包み、眉間に浅く皺が寄る程度に険しい表情で、僕の母––––––亜王院・シズカは座している。
「あ、あの……母様?」
「聞こえませんでしたかタオジロウ。母は座れと申しました」
僕の疑問の声に何一つ答えを返さず、母様は右手の人差し指を自分の正面の畳の上へと勢いよく指差した。
「は、はい。失礼します」
「か、かしこまりました。お義母様」
二人並んで母様の眼前に正座し、そのお顔を見る。
お、怒ってるってわけじゃ……なさそう。
(た、タオ様……私、何か粗相をしてしまったのでしょうか)
(そうじゃないと思いますけど……)
朝稽古を終えて朝餉を食し、部屋で二人で談笑していると、母様から呼び出しを受けた。
何が珍しいかって、この時間帯に母様が部屋にいる事だ。
本来ならば戦場の如く慌ただしい食堂で、里の女の人達の陣頭指揮を執って昼飯の用意をしている筈。
僕らムラクモの民は、昼飯を皆で食べる。
朝と夕はそれぞれの家で個別で用意するのだけれど、昼だけは大人も子供も刀衆も乱破衆も大工衆も鍛治衆も関係なく、食堂に集まるのだ。
その為里の女の人は朝飯が終わってすぐに昼飯の仕込みに入り、大量の食材と戦っている。
母様は通称––––––『お台所様』と呼ばれる、里の食の番人だ。
献立から食材の在庫、盛り付けなどに一切妥協を許さないその厳格さは、あの甘えん坊のキララが食堂に居る間は一切近寄らないほど。
手を洗わずに台所になんか入ってみたら、まず間違いなく川に投げ捨てられる。
不用意に包丁に触ろうものなら、説教どころか心を抉るお仕置きの雨あられ。
大事な大事な食材を粗末に扱ってみようものなら––––––いや、やめよう。考えたくもない。
つまり里の食に関する全てに厳しい母様が、こんな時間にここに居るのはおかしいのだ。
「––––––ナナカ」
「はっ、はいっ」
険しい視線を注ぐ母様に呼ばれて、ナナカさんは身体を強張らせる。
膝の上の手をギュッと握り、背筋はこれでもかとまっすぐだ。
「貴女にはこの二週間、舞の稽古と肉体の鍛錬を指示しましたね?」
「はい。トモエお義母様のご指導で、なんとか……」
一月半後、里では僕らの祝言が執り行われる。
僕とナナカさんは来たるその日のために、やれ作法のいろはだの、やれ奉納舞の稽古だの、やれ受ける祝詞の暗記だのと、毎日を忙しく過ごしている。
そんな中訪れたひと時の安らぎが、朝飯後のあの時間。
つまるところ僕とナナカさんは、新婚ホヤホヤなのに寝る前と朝しか顔を合わせていないのだ。
「最近は普通に走ることもできるようになったと聞いております」
「も、もともとあまり運動が得意ではないので……」
「いえ、充分。身体が里の空気に順応を始めた証拠です––––––なれば」
母様は目を瞑り、なにやら考え出した。
そしてゆっくり目を開けて、ナナカさんをまっすぐに見る。
「亜王院の嫁としての––––––修行を始める頃です」
そして、なんかヤケに物々しく––––––ていうか若干芝居くさいぐらい大袈裟に告げた。
ん?
あれ?
よく見ると母様のお耳……めちゃくちゃ赤くない?
もしかしてこれ、照れてるの?
「しゅ、修行ですか? 」
ナナカさんが不安そうに返事を返す。
ナナカさんが昨日まで受けていた鍛錬は、キララやテンジロウ達みたいな小さな子供達と同じ、ただの体力作りだ。
走り込みや柔軟など、本当に運動程度の稽古しかしていない。
言ってしまえば遊びの延長。
たしかに辛いし大変だけど、剣も持たない安全な物だ。
「はい。もちろん、鍛錬はこれからも続けて貰います。健康の為でもありますし、一日も早く鬼の嫁となるには必要な事です」
僕ら亜王院一座は、男も女も皆平等に身体を鍛える。
刀衆や乱破衆などの戦さ場に立つ人達は、そこから一歩も十歩も踏み込んだ辛い稽古をするけども、他の人達もそれなりに作り込んだ身体を持っている。
僕らは純粋な同族同士で子供を成せない一族だ。
そういう呪いがかけられている。
だから伴侶は必ず里の外から迎え入れ、その身に鬼の子を宿せるようにしなければならない。
ただの『人』であるその身を『鬼』に変える一番わかりやすい手段は––––––長い時間をかけて里の空気に馴染ませること。
この里に施された結界は、飛翔要塞『|天衝叢雲《テンショウムラクモ』の動力炉を核とした強力な術だ。
炉に蓄えられた魔力は、元はと言えば歴代亜王院の頭領の鬼気である。
それが動力炉を支点に要塞各部へパイプを通じて循環し、一つの術式として成り立っている。
つまり一族の歴史の中で最も強い力の集まりだ。
根源は違えど同じ鬼の種族である邪鬼と僕らアオオニ一族に共通するのは、『存在しているだけで他者に影響を与える』と言うこと。
邪鬼は周囲の生物の精神を蝕み眷属を生み出す。
僕らは周囲の人間の肉体を『鬼』に変えてしまう。
そのため、僕らは一箇所に長く留まる事が出来ない。
僕らの意思とは関係なく、良くも悪くも周囲に迷惑がかかるからだ。
それは人だけじゃなく、動植物にまで及ぶ。
ご先祖様もそれを鑑みて、この飛翔要塞の上に里を作ったのではないか、とはタツノ先生の談だ。
「でも母様。ナナカさんはとてもじゃないですが––––––剣は似合わないかなーって」
ちょっと表現を抑えたけれどこの二週間を共に過ごしてわかった事の一つに『ナナカさんは壊滅的に運動ができない』って事がある。
起伏の無いただの道で転ぶ。
避けたはずの木の枝に引っかかる。
下界に降りて少し走らせてみたら、ものの五分で息も絶え絶えになる。
もしかしたらナナカさんぐらいの歳の普通の『人間の女の子』よりも、僕のお嫁さんは貧弱なのかもしれない。
まあ、仕方ないとは思う。
だって彼女は、その人生のほとんどを屋内で過ごしてきた。
アルバウス領の外れにある貴族家の別宅で、母親であるムツミ様の謂れのない不義・不貞の罪によって幽閉されていたからだ。
雪深い北方の僻地の、更に奥の奥にある屋敷で数名の使用人に監視され、同年代の友人と外で遊ぶなんてしたことがない。
出来ることといえば、屋敷にあった書物を読み更けたり、たまの晴れ間に庭で日光浴をするぐらい。
とてもじゃないけれど、軽い運動すらしていい環境では無かった。
そんな運動不足なナナカさんが、この里で普通に生活を送ると言うことは、とても大変なことだ。
ムラクモの里は地上での生活に使う体力の五倍ほどを必要とする。
空気も薄いし、体は常に重い。
外気温だって結界に守られてはいるものの、それでも下界より寒かったり、逆に暑かったりと、僕らですら辟易する時があるぐらいだ。
それでも弱音一つ吐かないナナカさんは、本当に頑張っていると思う。
同じ境遇でまだ幼いヤチカちゃんなんて、初日に熱を出して倒れて以来、ずっとトモエ様の術によって守られている。
キララもそれを理解しているのか、ヤチカちゃんを外に連れ出そうなんてせずにずっと屋内で一緒に遊んでいるほどだ。
今でもギリギリの所で耐えているこの頑張り屋さんな二人に、更に重い修行なんてさせて大丈夫だろうか。
「安心しなさいタオジロウ。修行と言ったって、なにもそんな物騒な物ではありません」
「へ?」
僕の疑問に、母様は静かに微笑んで応えた。
「ナナカが今日より行うのは、この里、ひいてはタオジロウ、貴方の嫁となるための––––––」
自分の背中に手を回して、母様はゆっくりと告げる。
「––––––花嫁修行です」
そう言って差し出したのは、ボロボロに草臥れた––––––五冊の書物だった。
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