ナナカの花嫁修行①
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起きた。
いや、どっちかと言うと起こされたって言い方の方が合ってるのかもしれない。
「……びっ、びっくりしたぁ」
耳たぶをさすりながら、僕は布団から上半身を起こす。
「噛むんだもんなぁ」
痛いって訳じゃないけど、それでも身体が大きく反応する程度には甘噛まれた。
噛んだのはもちろん、この
「––––––すぅ……すぅ」
穏やかな顔に綺麗な金色の髪を数束垂らし、一糸纏わぬ姿のナナカさんが布団の中で寝息を立てている。
規則正しい間隔で大きく布団を盛り上げているその胸には、うっすらと汗が張り付いている。
寒いとか言ってくっついて来た割には、彼女の身体はとても熱かった。
––––––まぁ、寝る前にあれだけ運動してれば……そりゃね?
僕の耳たぶを甘噛んだのは、寝ぼけて居たからだろうか。
ナナカさん、噛み癖あるからなぁ。
僕の首元や肩には、彼女が力強く噛んだ跡が今でもくっきり残っている。
前に一度、『なんで噛むの?』って聞いたら––––––。
『––––––私の物って、証です』
––––––と、笑ってんだか怒ってんだか分からない顔で首を可愛らしく傾げて答えた。
綺麗で可愛らしい、あどけない表情だったけれど、今思い出しても背筋に冷たいモノが走る。
少しだけヒリヒリする右肩と首をさすりながら、窓の外を眺める。
ここはテンショウムラクモ十三階層。
亜王院が本家、『鬼屋敷』の一部屋。
本来の僕の部屋の真上に当たる、僕とナナカさんの当座の新居だ。
「……まぁ、ちょうどいい時間帯かな?」
寝ぼけたナナカさんに耳を噛まれて起こされなくても、じきに目を覚ましていたはずだ。
窓の外から見えるのは、十三階層から地上までを打ち抜く居住区の空。
今テンショウムラクモは降雪地帯を飛んでいるから、居住区の天井は閉めっぱなしだ。
「よっし……と」
軽く腕を伸ばして骨の音を鳴らす。
小気味良いポキポキとした音と共に、背中と腕のコリが解けていくような錯覚。
「んぅーーっ」
最後に軽く背伸びをして、その勢いのまま布団を剥いで立ち上がった。
「…………うんっ……すぅ」
布団から出た腕と胸元が寒いのか、ナナカさんが体を丸めた。
おっとと、いけないいけない。
風邪ひいちゃうよね。
ゆっくり布団をかけ直して、その白い肌を隠す。
少しだけ名残惜しいのは僕が助平だからなのか、それとも単純に寒いからなのか。あの熱くて心地よい体温に触れ合っていた事を思うと、後者な様な気もする。
本当はもう少し惰眠を貪りたいという欲求もあるのだけれど、そうやってナナカさんに甘え出すと際限がなくなりそうで怖い。
なのでここはスッパリと布団から離れ、さっさと朝稽古に行ってしまおう。
布団の横に転がっていた着物と帯を取り、軽く体に纏って締める。
顔洗わないとなぁ。
外、寒そうなだなぁ。
水、冷たそうだなぁ。
そんな事を考えながら畳の上をそろりそろりと歩く。
ナナカさんは音に敏感だから、僕が部屋を出る足音だけでも目を覚ましてしまう。
里に戻ってきてもう二週間。
この部屋で二人暮し始めてもう一週間と五日だ。
なんとなくだけれど、僕らの生活も噛み合い始めて来たようにも思える。
最初の頃は中々落ち着きを見せなかった僕のお嫁さんも、最近はだいぶ余裕を持って過ごせるようになったと思う。
覚える事は多いし、やる事も多い。
毎日くたくたになるまで頑張っている頑張り屋さんなナナカさんはとても偉い。
––––––くたくたなはずなのに、夜のお誘いは毎晩欠かさないんだよねぇ……。
僕でも少し音を上げそうになってるのに、あの細くて華奢な身体のどこにそんな体力があるのだろうか。
本当不思議……。
襖に手を当てゆっくり開く。
薄暗い廊下に出ると、冷たい空気が僕の頬を撫でた。
廊下はやっぱり寒いなぁ。
余計に布団が恋しくなってきた。
音がしないようにそぅって襖を閉めて真っ暗な廊下を歩く。
かなり早いけれど結婚した事で、僕は里の『大人』の仲間入りを果たした。
だから今までずっと欠かさなかった
『結婚しちまったら否が応でももう一人前になんなきゃならねぇんだ。俺が面倒見なくても勝手にやるぐらいはしてくんなきゃな』
とは父様の談。
納得だし、実はとても嬉しかったりする。
父様との朝稽古は必ず僕が血塗れ反吐まみれ、切り傷打撲擦過傷だらけで終わるから、毎朝地獄のようだったんだ。
鬼の血による自然治癒が有るとは言え、よくアレを六年もやってたなぁと今では思うばかりだ。
でもまぁ、日課だったしなぁ。
今更稽古内容を変えても、なんかしっくり来ない。
なので自主練は同じ量、いやもしかしたら前より辛い内容になっているかも知れない。
変わったのは、傷だらけにはならない内容だって事。
傷つかないようにしたのは、一度ナナカさんに稽古終わりの姿を見られて本気で泣かれたから。
心配かけちゃったらダメだよね。
足の裏が凍りつくように冷たい廊下を歩き、屋敷の玄関口からつっかけを履いて外に出る。
目的地は屋敷と隣接した庭園。
母様とトモエ様が管理しているこの庭園は、色とりどりの草花で溢れかえっている。
敷石で形作られた道を歩いて、庭の奥を目指す。
辿り着いたのは、僕二人分の幅ぐらいしかない細い川だ。
庭に流れるこの一流の小さな川は、この屋敷を建てた時に霊峰ムラクモから引いてきた真水の川。
雪解け水を混じったその川の冷たさは魚が凍えるほどで寝不足で呆けた頭を覚ますにはちょうどいい。
川の側で着物を脱ぎ、綺麗に畳んで地面に置いた。
「––––––ふっ!」
そのまま勢いよく水へと飛び込む。
「……っいいいいいぃいいっ!」
心臓が止まるかと思うほど凍えながら、夜の内に流した汗を洗い流す。
「寒い寒いぃいいい」
顔をバシャバシャと擦り、続いて思いっきり潜った。
つま先から頭の天辺までを水に沈め、目を閉じて十秒数える。
この行水を始めたのも、もう六年前。
朝に湯を沸かす事をめんどくさがった父様の真似をしたのがきっかけだったけれど、今ではこれをしないと起きた気がしないのが不思議だ。
「––––––ぷはぁっ!」
水中から顔を出し、もう一度顔を拭う。
頭をぶんぶんと振って水気を取り、天井を見上げた。
同時に鳴り響く、大きな鐘の音。
六つ轟いたその音で大人はのそのそと動き出し、子供は眠いとぐずりながら、そうしてみんな目を覚ましていく。
今日も穏やかに、里の一日が始まろうとしていた。
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