臨界のガルディアン

千年寝太郎

序章

1話 異邦人と精霊(1)

 気づいたら、水の中だった。異常なほどに透き通った水の中で、もがくことが、この世界に来て初めての行動だった。

 一体、何が起こっている?

 状況を把握するためにも、まずは上から差し込んでくる光に向かって泳ぐ。

 体が異様に重い。魔力で編んだ黒いコートは、水を吸わない仕様である。ならばこの体の重さは、魔力不足による身体能力の低下が原因だ。

 分析しつつも水面に上がる。


 大気には酸素が存在していたので、まず、大きく息を吸って世界に自分の体を、『この世界』に適合させた。

「ごほっ……」

 息を吸い込む際に、器官に水が入り込んでしまった。咳込みながら、辺りを見渡した。


 そこは、明らかな廃墟だった。どのくらい昔に捨てられた場所なのだろう。コンクリートの壁には蔦が無数に這っている。素材が脆くなったからか、一部には穴が空いている。天井は既に崩れ去って、強い光を発する球体―――いわゆる太陽が燦々と輝いている。その眩しさに目を細めながら、岸まで泳いで、水から上がった。


 どうやら、自分は屋内プールに落ちたらしい。

 壊れたガラス戸から外に出る。ショーウィンドウが立ち並ぶ立体的な造りの建物から察するに、商業施設だと思われる。ならば太い柱に描かれた「3」という文字は、この朽ちた建物の階層を示しているのだろう。


「……厄介なところに来たかな」

 小さくため息を吐く。

 ふと見れば、曇った姿見に自分の姿が映る。

 水に濡れた肩辺りまで伸びた黒い髪。男とも女ともつかない、中性的な顔つき。年齢は二十歳前後だ。黒い艶やかなコートを羽織った全身黒づくめの人物は、姿見から視線を逸らす。

 紫色の瞳をすっと細め、辺りの気配を探る。

 大気中に魔力が感じ取れないことを、怪訝に思ったからだ。


「……お?」

 それどころか、体内の魔力すらみるみるうちに減っている。体内の魔力の精製量と抜けていく量が釣り合わない。

 このままだと、魔力が全て抜き取られる。

 やばい、取り込まれる。

「くそ……」

 掌に魔力を込めて、更にそこに術式を乗せる。そして、創り上げた術式を自らの心臓部に押し当てた。鈍い衝撃―――心臓が一瞬制止した時、強い振動が全身を駆け巡る。

 力が一瞬抜け、膝を着く。両手を地面について、倒れることを防ぐ。それから細く息を吸い、心臓を再起動させた時には、肉体は既に若返り、十代半ばの子供となっていた。服装も、黒いコートは消え去って、パーカーとジーンズに変化している。


(危なかった……)

 彼は息を吐いた。

(あのまま魔力を吸われていたら、世界の一部に強制回帰されていたかもしれない)

 詰まる所の世界の養分にされていた、という可能性。さすがにぞっとしない話だった。

 彼は改めて、周辺の気配を探る。

 やはり、魔力の気配がない。そして、地脈の気配もない。

 つまり、超常の力も自然エネルギーもない。


 この世界は―――結論から言えば異常である。

 どんな世界にも、魔力か地脈、或いはどちらもが存在する。どちらかが無いと生命は栄えず、世界は死滅する命運にある。

 しかしこの世界は確かに生きている。その証拠が、人間が作り上げた物質に絡みつく蔦であり、溜まった水であり、床に生えた苔だ。


「さて、どうするか……」

 困った様子で彼は頭を掻いた。

 その背後に、気配。

 振り返れば、薄暗く崩れかけた通路から、顔を出してこちらを見ている化け物が居た。

 体長は三メートルほどか。白色の死人の肉のような質感の体を持っている。明らかに重量のありそうな体を支えるのは、八本の丸太のような脚だ。そして、太い首の先に付いている顔は、能面のようにのっぺりとした人間のもの。開いた真っ黒な瞳が、一人の子供を映している。


「……あ?そういう感じ?この世界」

 緊張感のない彼の呟きに答えるように、化け物が吠えた。甲高い悲鳴のような咆哮だった。開いた口はのっぺりとして何もなかったのに、突如として何十本もの牙が生える。

 サメのような生態を持っているのだろうか、などと考える時間はない。

 首を伸ばして少年に噛みつこうと襲ってきた。


「うぉっ……!」

 驚いて足に魔力を込め、後ろに跳んだ―――つもりだったのだが、そういえば魔力を、今しがた自身で封印したことを思い出した。背後への跳躍は虚しいほど飛距離が無く、化け物の攻撃の射程距離からはどう考えても逃れられない。

(仕方がない、右腕だけくれてやる……)

 諦めて腕を生贄に捧げようとした彼は、直後、猛烈な勢いで向かってくる濃密なアニマ―――自然エネルギーの塊の気配を感知した。


「伏せて」


 静かな女の子の声に従って、少年はしゃがみこんだ。その頭上を、巨大な昆が通り過ぎていく。

 その昆が、化け物の顔に直撃した。

 重苦しい打撃音と共に、化け物の体が吹き飛んだ。脆くなっていたコンクリートの壁を突き破り、化け物はそのまま下へと落下していく。

 遠くで地面に打ちつけられたのだろう、振動が大地と朽ちた建物を震わせた。


 化け物を吹き飛ばしたのは、細身で小柄な少女だった。赤いリボンで黒髪をサイドテールにしている。

 少女からは、強力で濃密な自然エネルギーの気配を纏っている

「お前……何?」

 見た目と魂の気配は人間だ。けれど、中身は自然エネルギーの気配がする。このちぐはぐな組み合わせに混乱して、思わず尋ねる。

「何、とは失礼な人間ね」

 澄ました声で返された。大人びているが、子供特有の高い声だった。

「助けてやったのに、礼の一つも言えないの?」

「あ、ああ……。どうも」

 彼の気の抜けたような声に、不服そうに少女が鼻を鳴らした。

「まあ、いいわ。それで?あなた、精霊術士ではないみたいだけれど、どうして古跡に一人でいるのかしら」


 古跡、とはこの場所を示す単語だろう。

 では、精霊術士、というのは、書いて字のごとく、精霊術を行使する人間のことか。少女の口ぶりから、この場所は精霊術士ではない一般人は、あまり立ち入らない場所なのだろう。

「えーと、それは……」

 言いかけて、彼はまた向かってくるアニマの強い気配に振り向いた。


 今度は魂の気配も人間ではないのだが―――怒気がやばい。

 見れば鬼のような形相で、男が走ってくる。がっしりとした筋肉質の体形の成人男性。彼の髪の色は濃い金だ。翡翠色の瞳には殺気に似た敵意が孕んでいる。しかも、その敵意はどう考えても彼に向けられていた。

「なんか逃げたほうがいい?」

 そっと彼はそばにいる少女に問いかける。

「逃げたところで地の果てまで追いかけられるから、観念なさい」

 逃げるな、というアドバイスをいただいた。


 やり取りをしている間に男は雪路の目の前に立つ。

 彼は小柄な少年の胸倉を掴んで、片手でひょいと持ち上げる。

「おい」

 低いドスの利いた声がかかる。

「あ、はい」

 少し緊張した声色で少年が返す。

「助けてやったのだから、貴様が今しがたここで見たことは、他言無用だ。もちろん、妹が精霊であることを含めて、だ」

 驚いた。

「精霊?ん、え?お前たち、二人とも精霊なの?アニマがないのに?」


 少年にとっての精霊とは、“世界”から発せられるアニマ―――自然エネルギーを管理、或いは自在に使いこなせる生物の種類の名前だ。

 アニマが自然界に存在しない時点で、精霊は世界に必要のない生命体の筈だ。

「アニマ?なんだ?アニマって」

 不思議そうに兄の精霊が疑問を口にした。どうやら本気で知らない単語らしい。

「……まあ、分からないならいいけど」

 深入りはせず、一度、彼は話を区切る。


「あのさ、アンタたちが精霊だと誰かに知られるのは、まずいことなの?」

 気になった事を尋ねると、兄の精霊は、忌々し気に顔を歪めた。

「白々しい。貴様ら人間は、俺たちを道具として使い捨てる技術を持っているだろう」

 つまり。

 精霊と名乗る生命体と人間は、この世界では対立関係にあるらしい。若しくは、人間が勝手に自身の優位性を誇示し、精霊を奴隷のような存在だと認識しているか。

 思わず、苦笑する。

「……どこの世界も、人間ってのは傲慢だな」

 今まで様々な世界で見てきた、人間の残酷な所業を思い出す。

 ともかくも。少年はへらりと笑ってみせる。


「ま、そういう意味じゃ、安心していいよ。僕、人間じゃないし、そもそもこの世界の生き物でもないから」

 少年の言葉に、兄妹は互いの顔を見合わせてから、少年をまじまじと見なおした。

「……何を言っているの?」

「どう見ても人間だろう」

 ははは、と少年は軽く笑いながら、腰から拳銃を引き抜いた。

 兄精霊が警戒するように目を細める。一応、銃口は上に向けたまま、少年は説明をする。

「聞きたいのだけれど、この世界の人間ってのは、こめかみを撃ち抜けば死ぬような造りをしているかな?」

「そりゃ、死ぬわよ。人間の体って基本的に弱弱しいもの」

 当然のように妹の精霊が答えた。

 ならば、と少年はこめかみに銃口を当てる。二人が息を呑む気配がした。

気にせずに、少年は何の躊躇いもなく、引き金を引いた。


 軽い発砲音が廃墟に響き渡る。

 突然の出来事に、兄妹は驚愕に目を見開いて、硬直した。

 少年の、銃口を当てた個所とは反対側にあるこめかみから、血は吹き出ていない。体は相変わらず温かく、銃も握られたままだ。

 そうして、少年はけろりと口を動かす。

「ま。こういう事」

 兄妹はまだ動かない。視線は彼のこめかみから顔色へと移動して、確かに生きていることを確認している。


「……不死者?」

 何とか声を絞り出したのは、兄の精霊の方だった。

「ああ、そんなトコロかな……」

 明確には、死の『定義』自体が少年の中には存在していないから死なないのだが、その説明がこの世界で通るとは限らない。詳細を口にして「頭のおかしい奴」と認識されても困るので、少年は言葉尻を濁した。

「……仮に、貴方が異世界からやって来たとして……」

 真剣な表情で、妹である精霊が尋ねてくる。言葉を一つ一つ慎重に選び、噛みしめながら声を発していることがうかがえた。


「どうして、この世界に?」

 その質問に、彼は肩を竦めた。

「さあ……。突然引きずり込まれた、と言えばいいかな。……変な世界だね、ここ」

「……」

 妹精霊が黙りこくった。口を引き結び、視線が一点に集中して動かなくなる。考えて込んでいるようだ。

 何か心当たりがあるのだろうか。


「僕としてはこの世界には用がないから、今すぐに出て行きたいのだけれどさ。困ったことに、世界を越えるために使っていた力がこの世界では使えなくなっちゃって。そういう、異界を渡る技術、知らないかな?」

 嘘は言っていない。

 彼が使っていた、異界を渡る力とは魔力、またの名をマナのことだ。

なので、異界を渡るためには、先ほど封印した体内の魔力を解放しなければならない。その途端、魔力はこの世界に再び魔力を吸われ始めるだろう。

 これでは、異界への航行が不可能だ。

 ならば、魔力を使わない方法―――この世界にある技術を使って別の世界に渡る。それが最善策だろうと考えた。


 だが。

「聞いたことがないな」

 兄精霊の発言に、少年は肩を落とした。彼が嘘を言っていないのは、気配で分かる。

(けど、こいつらが知らないだけで、方法はある可能性は十分にある)

 そう考える少年は、頭を掻いた。

「じゃあさ、人間の集落まで連れて行って。そこから先は何とかするから」

「助けられた上に、随分と図々しいわね、異世界人」

 率直な感想が妹精霊の口からすぐに弾き出された。こいつ、中々口が悪いぞ。

「ま、私たちも向かう途中だったから、ついてくるなら好きにしなさい」

 それでも案内をしてくれるあたり、中々の善人でもあるらしい。


 妹精霊は踵を返し、一歩歩き出してから、はたと振り返る。

「そういえば、まだ名前を教えていなかったわ。私はコハク。貴方の命の恩人よ。しっかりと覚えておきなさい」

 そうして数秒待って。

「……お兄ちゃん」

 コハクと名乗った妹精霊に促されて、兄は渋々と続ける。

「アデルだ」

「ふぅん。あー、じゃあ、よろしく頼むよ」

 無愛想に挨拶した瞬間、太い腕で彼の体は吊り上げられた。

「てめぇ、礼儀を知らねぇのか。名乗られたら名乗り返せ」

「桜江雪路、デス。苦しい」

 息が詰まったので、僅かに声が細くなった。地面に降ろされて、雪路と名乗った異界の少年は、急いで酸素を取り込んだ。

 馬鹿力め。


「不死なのに呼吸できないと苦しいのか?」

「死なないっていうだけで、体の造りは一般の人間の子供と一緒なんだよ!」

 不思議そうにアデルが首を傾げるので、苛立ちながら雪路は返した。

 魔力で肉体を強化すれば、それなりに体も強くなるが、魔力が使えない今、完全に人間の子供と同列の身体能力と体の強靭さしか持ち合わせていないのは、悩ましい。

(くそ。しかも体が子供に戻ったせいで、性格も引きずられ始めたし……)

 心の中で、雪路は何度も悪態ついた。


 一方、コハクはどこか不思議そうに雪路を見つめる。

「サクラエ・ユキジ……。それ、本名?」

 雪路は薄く笑って答える。

「渾名だよ。本名は本当に信頼したヤツにしか名乗らないと決めているから」

「そうなの」

 く、とコハクは喉を鳴らし、踵を返す。

 そうしてまた、何か考え始めたのか、黙りこくる。元々、口数が少ない方なのかもしれない。

 あと。

「おい。道中、妹に手を出してみろ。ガキだろうと容赦しねぇぞ」

 びりびりと肌を痺れさせるほどの殺気をアデルは放って来る。

 成程。彼はどうやら、重度のシスターコンプレックスであるらしい。

 雪路はしっかりと理解した。

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