TAKEit EASY
澤村 奈央哉
第1話
はあ、と思わず、退屈な日常にため息を付いてしまう。わざわざこんな池袋のど真ん中に交番なんか作るんじゃねえよ、と思わず神澤はボールペンを回しながら、窓の外に見える幸せそうに歩くカップルや学生達を見てしまう。もちろんこれから巡回もしなければいけないので、見えている景色がさらに倍になってしまうことは分かりきっていた。退屈だ。ひたすらに部屋の中でゴロゴロとしていたい。
あるいは、誰か合コンでも誘ってくれないか。
「おう、退屈そうじゃねえか警察の兄ちゃんよ」
ふっとそんな声をかけられ、改めて入口を見ると、みすぼらしい格好をしたおじいちゃんがそこに立っていた。よく来るホームレスだ。缶ビールを片手に来たところを見ると、こんな真昼間から飲んでいるらしい。
「別に、やることは多いんですよ。あなたこそ、こんな昼間からなんの用事ですか」
そう言いながらも何気なく白紙の紙を取り出して、書き込む振りをする。別にやることがないわけではないが、やらないだけなのだ。
書類に自分の名前、神澤 敏行と書き込んで日付をいれる。
本日も快晴なり、道を訪ねてきた老人を道案内する。
たった一言そう書き込んで再びホームレスを見る。返事をしない老人は勝手に交番内に入り、缶ビールをちびちびと飲みながら手配書などを見ている。
「こいつぶっさいくじゃねえか? なあ? にいちゃんよ」
知らねえよ、酒を飲むんじゃねえよオッサン。と言おうとしてその言葉を飲み込んだ。現職の警官が暴言を吐くと新聞の一面を飾りかねないし、なにより酔っ払いに対してはあまり大きく出れない。顔なじみのこの人には言っても良いのだろうが……と頭の中には一人の先輩が浮かぶ。
「とりあえず、その場所から離れてもらってもよろしいですか。外に行きましょう、外に」
ホームレスらしいおっさんは、チラリとこちらをみて、小さく舌打ちをしていた。外に出ると初夏らしい生暖かい風が頬を撫でた。もうそろそろ梅雨も終わりかもしれないと外を見上げると、雲がやけに多い。晴れていることは晴れているが、時折、太陽に雲が重なりそれが影になっているのだ。
「こりゃあ、雨降る前に帰らんとなあ」
片手の缶ビールを飲み干し、ホームレスは俺を見てくる。どうやら何かを期待しているらしいが残念ながら自転車しかないし、業務外にあまり外をうろつくこともできない。
「じゃあ、お気をつけておかえりください」
一言笑顔でその視線に声をかけると、ホームレスはいじけたように口をとがらせた。
「なんじゃ、ケチじゃのう、若いんだから少しは老人をいたわろうと言う気はないんか」
「残念ながら仕事中ですので。それにあまりここにいると、先輩が戻ってきますよ」
上司である羽佐間はこのホームレスの苦手とする人物だ。超正義感にあふれた人物であり、こうやって暇つぶしに来る老人などは自分自身が――つまりは羽佐間が納得するまで、満足するまで構おうとしてくる。ぎくりと顔をこわばらせた老人にただ笑顔で迎え撃つ。
相手を困らせようとして来ているはずなのにも関わらず、こうやって構われると逆に困ってしまうのだろう、羽佐間がでかい図体で机に座っていると、このホームレスは逃げていく。その羽佐間は今、迷子の子供を迎えに行っているところだ。どうやらその子供は外国人の老夫婦に拾われたらしく、英語ができない俺に変わって、羽佐間がかわりにその子供に事情を聞きに行った。先程電話を受けた時はあまり聞きなれない英語でずっとしゃべってくるものだから訳も分からずにオロオロするばかりだったが、その様子を見かねて羽佐間がかわりに受けてくれた。
「いじわるじゃのう。その内バチが当たるぞ」
いえいえ、それはこちらのセリフです。と言うと、老人は俺に背を向けて、歩きさって行った。……さて、俺も少し歩いて見るか。
挑みかけるように俺は交差点の群衆に向かって伸びをしてみせた。
「まったく、こんな暑いのによくもまああんなにベタベタできるよね」
彼女の視線の先を見れば、学生カップルがイチャイチャとしているところにでくわした。わざわざ向かい合う形ではなく横に並んで座っている。
「いいじゃねえか、別に。そういうものだし、楽しいことだらけなんだろう」
「俊はいいよね、そうやってのんびりできて。私なんてさー」
はあ、と恭子は目の前に置かれたコーヒーカップに目を落としている。俊の呼び名がその内パパだとかお父さんだとかになるのだろうかとそんなことを見当違いに考えていると、彼女が目を上げた。
「仕事で失敗ばっかりで……って近江 俊君? 聞いているのかしら」
「聞いているよ。恭子はいつも一生懸命仕事しているし、上司だってそれくらいはわかっていると思うぞ」
池袋駅の隣にある喫茶店である。昼休みに出先が近いということから二人で昼を一緒に取ることにした。先程まではイタリアンの店にいたが、脂っこい肉の乗ったパスタだったからか胃もたれを起こしそうな胃をなんとかなだめ、彼女の提案で駅の隣にあるこの店へと入った。
彼女、街田恭子とは……三年ほど付き合っている。年齢は俺の一個下である二十四歳だ。会社の愚痴が多いのも彼女の性格の所以からだろう。自分にも他人にも厳しい性格はそれなりに注目を集めている。
デザイナーとして色んなウェブのデザインを手がける彼女の会社は一応名の通った大手会社だ。俺はスーツを着て、色んな人間に頭を下げる毎日だが、彼女の会社に服装の規制のようなものはなく、デニムにボーダーラインの入ったTシャツを着ている。どうやら上着を着ることもなくそのまま出てきたらしい。
会社証はそのまま首から下げているところを見ると彼女の仕事姿がどうしても目に浮かんで大変そうだなと考えることしかできない。
「あー! そこにいるのは近江先輩じゃないすか!」
ん? と声のかけられた人物を見ると、警察官だ。なんだお前かと顔をしかめる俺と、誰? と疑問そうな表情を浮かべる恭子を尻目にその警察官は持ち帰り用のカップを手に俺の横にどさりと腰掛けた。
神澤 敏行……どうしてここに。まあ交番勤務に変わったと聞いたのは最近だったがそれにしても会うとは思わなかった。
込み上がるように頭痛が襲ってきて思わずこめかみを押さえる。
「あ、もしかしてお邪魔でした?」
席に座ったと同時に神澤がそう聞いてくる。席に座っといてそんなことを抜かす馬鹿はここにしかいない。
「あれ、もしかして知り合いなの?」
恭子がそういい、神澤は偉そうに座った状態の姿勢を正して敬礼をした。
「神澤 敏行です! 高校では近江先輩にお世話になっていました!」
「へえ、こんな後輩がいたんだ、俊」
驚きながらも神澤の敬礼に苦笑する恭子も名乗る。
「街田 恭子です。普段はウェブデザイナーをしているの。一応、近江君の彼女よ」
「一応は余計だ」
俺がそう憮然と返すと恭子はクスクスと笑った。
「そうなんですか! 近江さん、教えてくれればよかったのに……こんな美人と付き合ってるなんて知らなかったなあ」
「もう、お前帰れよ」
そう言って小突いてみせるが、彼は照れるように笑うだけで動こうとはしない。
神澤 敏行は高校時代の部活の後輩である。どうしようもないそのチャラチャラとした喋り方は周りの反発を買いやすいし、何より本人もそれを認めているからして、どうしようもないものだ。部活の顧問からも再三と注意されてもそれを治そうとはせず、実力はあるくせして、女癖も悪かった。どうしようもないと思い、何かとあれば先輩として気にかけてやってはいたが……
「まさかこうなるとはな」
二人は仕事の話で盛り上がっており、俺の独り言など聞いていないかのようだ。まさか、神澤が警察官になるなんて、顧問が聞いたら間違いなく、涙を流すだろう。
「お前、仕事じゃねえのかよ」
あえて乱暴口調でそう脅してみるが、本人は至って気にした風も見せずに首を傾げるだけだ。
「別に大丈夫っすよ。一応見回っているだけですし、まあ、こんな格好だし今日はこのくらいで」
その格好で喫茶店に来たら……それ見たことか。店員がこっちを凝視してんじゃねえか。
はあ、と思い、立ち上がると俺の気持ちを察してか恭子も一緒に席を立った。
神澤も立ち上がり、「先輩達も休憩終わりっすか?」なんて聞いてくる始末だ。
「オメエのせいだ! このバカ野郎!」
周りの目も気にせず大声を上げ、部活の時のような怒号を食らわせると
「うわあ、その言われ方懐かしいっすねえ!」
などと喜び始めた。クソ、高校時代なんて思い出したくもないのに、思い出しちまった。恭子が心配そうに周りを見ているが神澤はへらへらと笑っている。恰好を気にしていないのだから、俺だってこれくらいのことは気にしない。あいこだ。あいこ。
第一話 「彼はコーヒーを初めて飲んだ」
恭子と共に喫茶店を出て、腕時計で時間を確かめるとそろそろ会社に戻らなければならない時間であることに気がついた。
いつもであれば綺麗な思い出として終わるはずの今日が、久々に現れた後輩のせいで台無しとなった……ふう、と何気ない顔を作り、恭子を振り返る。
「わりい、もう仕事戻るわ」
「うん、わかった。気をつけて戻ってね。夜にまた連絡するわ」
彼女顔に笑顔を浮かべている。別に怒ってもなさそうだし、思わず胸の中に安堵が広がるのを感じる。
「おう、……で、お前は何してんだ」
恭子の肩ごしに後ろにいるやつにそう声をかける。神澤は以前としてコーヒーカップを片手に佇んでおり、手持ち無沙汰な様子で俺らのことをしれっと見ているのだ。
頭ひとつ分、恭子よりも背が高い。そして俺よりもほんの少しだけ背の高いこいつは、昔からこのルックスで女子からの人気を博していた。
「いや、こっちが交番方面なので」
そうやって嘯いてはいるが、こいつの魂胆は丸見えもいいところだ。
「どうせ、会社までついてくる気だろうが」
「いやあ、さすがっすね。バレました?」
たはは、と頭の後ろを掻く神澤。昔はゆきとか、としとか下の名前で呼んでいたが互いに大人となってしまっては別に気にならない。むしろ、こいつがいるとろくなことにはならないと自分の中の警鐘が鳴っている。
「早く仕事に戻れ。俺らだって邪魔されたくねえんだって」
小突きながらもう一度そう口にすると、神澤はわかりましたーと言いながらもおとなしく反対側の道へと足を向けている。
「あ、近江さん、そういや……連絡先変わってないっすよね」
思い出したようにそう振り返りながら、言ってくるので憮然と頷いて見せると、
「じゃあ、今度飲み行きましょ。よかったら恭子さんも一緒に」
ニヤリと笑って彼はそのまま人ごみに紛れるように歩き去っていった。
「いい後輩君じゃない。高校の頃って……野球部の時の話?」
一応今までの人生については二人共が共有しているので、わかってはいるのだろう。恭子が首をかしげてそう聞いてくる。
「まあな。といっても弱小高だったし、坊主にするーとかって規制はなかったからほとんどお遊び部活ってもんだったよ」
あの頃を思い出して、思わず首を回す。ここから仕事に戻るのかと思うと憂鬱ではあったが、夜はまた彼女とディナーと洒落込めるとだけあって少しはその憂鬱も晴らせるというものだ。信号を渡る列が動き出す。青信号になったのだ。
「じゃあ、もういくわ」
恭子にそう言って、近江もまた雑踏の中へと踏み込んで行った。
見回りをしようとは決めたが、結局気ままに歩き出し、カフェでコーヒーを買ったところで、高校時代の先輩にであった。お似合いの彼女がいるところを見ると、高校時代、あんなにも生真面目だった男が彼女を作っていたことにすら驚いてしまう。一体いつ「童貞」を卒業したことやら。
「あんなに女にはウブだったくせに、あんなにいちゃつきやがって」
思わず派出所に戻る道を歩きながらそうつぶやいてしまう。通り過ぎかかったサラリーマンのぎょっとした視線が自分に刺さるが知ったことか。
俺が女を作るたびに、ぐちゃぐちゃと文句を垂れていたくせに。部活の顧問が聞いたら涙を浮かべるに違いない。それくらい、近江は堅物であった。心の中は熱い男のくせして、話し合いではあまり発言しないことの方が多い。なぜだろうと何回かそのことについて聞いてみたが煙たがられるだけで、まともな答えを彼が返してくれたことがない。彼の言うことにもそれなりに新しい目線があり、お遊び部活の野球部と評されていた俺らの部活内で生粋の真面目な意見と練習姿を見せていた近江。一致団結して県大会くらいにはでようと近江が提案しても、そんな真面目な彼に他の部員はついてはいかなかった。もちろん俺自身も。
馬鹿らしいとその時は思ったものだが、一年、二年と過ごしていく内にだんだんと他の部員も俺も自然と練習していた。最初は……そう、暇つぶしに女を部室に呼び込んで、ことに及ぼうとしていたのだ。
壁にボールをぶつけてバットを必死に振り回している先輩を見るまではそう思っていた。
別に部活なんて……と正直思っていたし、何をそんなに必死に頑張ってるんだよダセエと――なんなら女でも紹介してやんよ、一緒に楽しもう。とその後ろ姿に声を掛けようとして、ダサいのはどちらだろうと思った。
自然と部室に置いてあったミットを持っていた気がする。携帯の連絡先一覧を消して、ポケットに携帯をしまい、手に合ったミットを持って再び外にでていた。
「なあ、先輩」
息切れをしながらバットを振り回す彼の背中にそんな声をかけたのは俺がこの部活に入部して半年も経った頃だろう。
「あ? なんだ。てかお前誰だよ、ここは一応野球部の……」
「キャッチボール」
「は?」
俺をみながら、先輩はポカンと口を開けている。当たり前だ――金髪でワイシャツのボタンも開けているし、チェーンはぶら下げているし足首にはミサンガもつけているし……こんなにチャラい人間がミットを持ちながら 変なことを言い出すのだから。
「キャッチボールしてみてえなって。あんたいつも一人でやってるだろ壁相手に。てか、邪魔なんだよ。そこ部室の近くだしよ、バンバンやられると女も萎えちゃうってか……いや、そういうことじゃなくて」
しどろもどろになりながらも俺はそう言ったのを覚えている。しかし、顔をあげると、飛んできたのは網目のついた硬球だった。ゆっくりとそれはグラブに収まる。
「うし、やるか」
顔をあげると、そこには笑顔だけれど、泣きそうな近江が立っていた。
「キャッチボール。やりたいんだろ?」
その言葉に、俺は何かを救ってもらった。
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