空鋏

江東せとら

不条理短編: 空鋏



「あ……————」

それはたったいま、

なにか切れ落ちたような声だった。


「どうした?」


「———」


声をかけても依然少女の目は中空を見つめるようで

その時は少しだけ不気味に思った。

ほんの少しだけ。


そもそも、

中原は出会った頃から些し不思議なやつだった。

なんとなく。

判然とした理屈も漠然とした理由さえなく人の輪から浮き上がっている、そんなやつ。

彼女に言わせれば一挙一動自分の内で完結しているのだから理解されようがされなかろうが、そこは論点にはならない、らしい。

だから、その時も特に気に止めることはしなかった。




ややあって中原は徐にこちらに振り向き、


「え、なにがですか?」


と何事もなかったかのように微笑みながらそう言った。


「なにって、急にぼーっとしだしたから、呼んだだけだ」


キョトンとする、中原。

もう忘れたのかこいつは。

まだその場から三歩も歩いていないというのに……


「ぼーっと?やだなぁ先輩が急に話遮ったんじゃないですかぁ、そんなにわたしの話つまらなかったですか?」


「いや、お前が急に話さなくなったんだぞ」


「うそだぁ、あいかわらず意地悪だなぁ〜つまんないならつまんないってちゃんと言ってくれればいいのに。

はっきりしないのは嫌われますよ?」


一歩近づいて、

中原はまた人懐っこい笑顔で微笑んだ。


こうやって放課後の空き教室でたわいもないことを喋る。

それが日課だった。

そういうことにしていた。

人気がない橙色の空間は居場所がない俺たちにとってはとても心地よかったのだ。


いつからだろう、

こんな風に話すようになったのは。俺がこの少女のようになってしまってからだろうか?

わからない。

いや————

高校生活は思い描いていたものとは違った、

そう気付いた時にはすでに俺は完全に教室から浮き上がっていた。

別に孤立していたわけじゃあない、傍目から見れば友人と呼べる奴も何人かいた。

でもどこか、

しかし、たしかな浮遊感があった。


「なにいってる、色恋に無縁なのはお互い様だろ」


「いーえっ!わたし、先輩だけにはモテてますから!」


「じゃあ俺もお前からだけはモテてるってことになるぞ」


「相互扶助ですね」


「響きが悪いぞ」


「というか、わたし別に先輩のことなんか全然興味ないんですけど……気持ちわる〜」


「いや、それはいまお前が………」


「えへへ〜ほんきにしないでくださいよぉーからかっただけですってば!」


———漂うような日々が続いた。

いっそ登校拒否でも画策してやろうかとおもった。

だが、いくら執念深く探ったところで他人を納得させられる理由は見つからない。

なにか問題があるわけではなかったのだ。

もしそんな便利なものがあったのならすがりたいくらいだった。

なにもないから浮いている。

なにもないから憂いている。

そうして、思考さえもゆらゆらと漂い始めた頃。

彼女—— 中原が入学してきた。

小さな頃からこいつをよく知っていた、ような気がした。

仲もそこそこ良かったような気がした。

きっとそうだったのだろう。

揺蕩う頭ではもうよくわからなかったが、

結果論ではあれ

彼女との距離は以前よりもたしかに近づいていた。

現にこうして二人で漂っているのだから。


「ねぇ先輩」


「ん?」


「今日は、一緒に帰ってくれますか?」


「お前は懲りないな」


「えーーまたダメなんですかぁ……?」


控えめな眉をよせて抗議してくる。

こいつはここ最近はずっとこれをせびってばかりだった。

事あるごとに口をつく。

動機はまったく不明だが……

どうしても、

一緒に下校したいのだという。


「ダメだ」


「えーーー」


不貞腐れた様子で

机に座り細い足をぶらぶら揺らした。

二つに結われた黒髪もつられて振れて、夕陽のせいで愁然とした彼女の表情がはっきりと見えてしまう。

こまやかな、ややもすれば消えてしまいそうな顔。

無意識に、

視線をそらしていた。

まぁ、

別にそっけなくする理由があったわけではない。

どうしてこうも強情に彼女が要求するかもわからなかったし、どうして自分が頑なに断っているのかも考えなかった。

つまり、

なんとなく気恥ずかしかったのだとおもう。

西日はゆっくりと傾き。

不満げな声と机の軋む音が夕景に溶けだしていた。


「えーーー……一緒に帰るだけじゃないですか!ひどいひどい大人気ない!」


「大人気ないって……一つしか違わんだろうが」


「ひどいよぉ……うーー……」


大抵この話題になるとそのまま放課後はお開きになる。

まぁ、帰路を共にしたい、という話なのだから当然といえば当然だが。

中原がむやみ動いたせいで漂っていた細かな塵が彼女を護るように包んだ。

それがなんだか少しおかしかった。


「いくらぐずっても一緒には帰らない。それに方向が微妙に違う」


「わたしが先輩のルートに合わせます!」


「それは譲歩じゃなくて迷惑だ」


「 うーーー……ケチケチ!ばかあほ!あおびょうたん!こけおどし!」


「最後のは違うだろ」


「うるさい!………こんなにたくさん頼んでるのに……」


「立場が逆だったら、お縄にかかりそうだな」


「あーあーひどいなひどいな。泣いちゃおっかなぁ」


「かまわんよ、女を見たら蛇と思えって習ったんでね」


「ばか」


「はいはい」


「べーーっ」


不器用に舌をだして、そっぽを向く。

そして黙る。

暫く、埃の流動が止んだ。


感情を持て余したら口を閉ざす。

地に足がつかないのに、人にぶつけるなんて無理です、と前に言っていた。

反作用でその人から離れてしまうから、とも。

だからいつも

本当のところは宙ぶらりん。

曰く、

それが賢い浮遊人。


当人がいじけて話さなくなってしまったのだ。

今日はもうお開きかな、と戸口に俺の意識がいったところで


「……じゃあ先輩、もう少しお話をしましょうよ」


不機嫌な横顔が言った。

橙が深くなった空間を小さな埃がまたゆっくり漂いだした。

まぁ、いいだろう、たまには。


眉根を緩めた彼女は

危なっかしい座り直して

これこれ、と手をチョキの形にしてみせた。


「じゃあこれの話からしましょう?」


「これは?」


「ハサミですよ」


「はぁ……」


「私、ハサミが怖いんです。じゃんけんの時チョキ出すのも怖いくらい」


「急になんだよそれ」


「だって刃物ですよ?きれちゃったら怖いもん」


「違う、なんでそんな話を始めた?」


「したいから」


「理由になってないぞ」


「だって…………やっぱりよくないですよ、吊り上げたまんまじゃ」


「は?」


「とにかく、怖いんです」


「はぁ………切れたら痛いからか?」


「まぁ、そうです」


「石だって投げられたら痛いぞ」


「石は音がでないじゃないですか」


「音?」


そう訊くと、中原は人差し指と中指をくっつけたり離したりした。


「こうした時シャッシャッって鳴る音」


「それが?」


「それが怖い」


「怖いもんか」


「怖いんです」


そういう中原の表情は心なしか影がさした。

落日の色が深くなったせいかもしれない。


「どうして鋏なんだ?包丁ならもっと……」


「わかってないなぁ先輩は」


「なんだよそれ、トラウマでもあるのか?」


「別に、ないです」


「そういう宗教とか?」


「別に」


「夢で見たとか?」


「別に」


「またなんとなくか?」


「別に」


「じゃあなんだよ」


なんでもないです!と中原はガタッと机から跳ね降りて、おぼつかない動きで窓際に近づいた。

手すりをぎゅっと掴む。

落陽。

橙色の少女。

浮いている。

中原。


どこか変だ。

はっきりとはいえないが、

俺たちが浮いている理由。それと同じ類の霞をつかむような違和感が充満していた。

不自然なことはない、はずだ。

ただ、どこか変だ。



気づけば、

息遣いが聞こえるほど、不自然なくらい外は静かで

鴉の鳴き声が遠くうっすらときこえる。それもすぐに消えた。

少女は急に体を揺すってすぅと息を吸って、はっと吐いた。

夕景の色がまた深くなった。


「ねぇ先輩」


また唐突に

外をを向いたまま言う。


「一緒に帰ってくれないのは、わたしのことがいやだからですか?」


唐突にそんなことを言う。


「どういうことだ?」


「そのままの意味ですよ」


「はぁ……」


「いや?」


「………………」


「わたしのこといやですか?」


「いや……嫌になんかなってない」


「嫌いになっちゃいました?」


「違うって、ただ————」


「ただ、面倒くさいから?」


「………そうだ」




「うそ」




中原はふわりと振り返ってみせた。

浮遊しているように。

思考は未だ揺れていた。

まるで手応えがない。

目の前の少女はなぜこんなことを話しだしたのだろう。

わからない。


やはり、

どこかいつもと違った。

夕陽の色も、

この教室も、

彼女も、

俺も。


暮れ泥んだ橙は逆光で表情を隠した。

象った輪郭だけが浮いて見える。


「先輩、言ってましたよね、お前は救いようがないくらい浮いてるって」


「言ったかな」


「わたしは覚えてます」


「そうか」


「でもおかしいんです」


「おかしい?」


少女が動くと

その輪郭が一層ぼやけてみえた。


「ちっちゃい頃、絡まった風船を解こうとしてハサミで切ったことがあったんですよ」


蕩々と浮揚する泡のような言葉だった。


「遊園地でもらったんです。いろんな色のをたくさん。わたし、浮いてるのなんて初めて見たからその時も大事に持ってたんです。

そしたらね、一個だけ真っ赤な風船が、するって抜けて飛んでっちゃったんです」


「それが?」


「その風船、わたし頑張ってジャンプしたんですよ?赤色が見えなくなるまでずっと。でも、ダメだった。とれなかったんです。ずーっと遠くに行っちゃって」


どこか憂うような声。

どこか浮くような声

夜に呑まれかけた苦しげな朱色が

空気に滲んで少女と重なる。


「だから、一回浮かんだら、風船みたいにずっと遠くに届かないところにいっちゃうはずなんです。救いようがないくらい」


「……………」


「それでずうっと遠くの水面でやっと息継ぎをする。でもそしたら割れちゃうかな、だって風船だもん」

———薄っぺらで空っぽ


パチン。


少女は手を叩いた。


「だから、わたしは救いようがないほどなんて浮いてなかったんです。

少なくともここに来てからは先輩が握っててくれた」


表情は未だ見えない。

ただ少女らしき影を見る。


「でもね、先輩。

やっぱり、だめ。

いくら大切に掴んでても

とっくに浮いちゃってるの

だから、

糸を切られちゃったらもうおしまいなんです」


——シャッってね



よくわからない。

少女が言っている言葉の意味が。

なんとなく

だが、

目の前の緋色に染まった少女が、

どこかに浮かんでいってしまいそうで。

怖かった。

遠く。

救いようがないほど遠く。

また、鴉の声が夕陽の向こうに消えた。



「……………あはは、ごめんなさい先輩。でもきこえちゃったんです。気づいちゃったんです。だから最後ぐらいって思ったんです。」


「…………」


「ごめんなさい。

つきあってくれてありがとうございました。………気をつけて帰ってくださいね」


「……………」


そう言って、

中原は薄暗くなった教室をでていった。

何か声をかけようとしたのだ、

しかし何もいえなかった。

中身のない空っぽ呟きが口の隙間から漏れ出るだけ。

ただ呆然として、

手が宙を掻いた。

やっと足を動かし彼女を探った時には廊下は深海のように暗くなっていた。

冷たく。

当然、中原はいない。

もう、いない。

どこにも。

そうだ。

中原と一緒だった、

あの暖かかった夕暮れの景色はどこにいったんだろう。

中原の言葉が不意によみがえった。




そして、

廊下の奥。

暗闇の底。

いや、もっと。

もっと遠く。

救いようがないほど遠くから。








空鋏の音がした。












あの後、

中原とは会っていない。

中原の姿も見ない。

日が暮れるのが少し早くなり

橙色の空き教室は

ただの薄暗い物置に変わった。

とりあえずここに来て見たものの

今はもう

行き場を失った埃たちが頼りなく漂っているだけだ。


あの日彼女は一体なにをきいて

なにに気がついたのだろう 。

あの質問の意味は。

なぜ俺なんかと一緒に帰りたかったのだろう。

わからない。

また、わからない。

こんなことばかりだ、変わらない。


だが、あの日から、俺は地に足をつけるように少しだけ努力し始めた。

それも、なんとなくの努力だが、

なんとなく前よりうまくやっている気がする。


———いくら大切に掴んでいても

もうとっくに浮いてしまっている。


「俺もすこし怖くなったよ、中原」


漂う埃を掴むようにして、そう言ってみた。


だから、糸を切られないように。

あの時のように。

あの時の中原のように 。

忌々しい空鋏の、

あの冷たい音がきこえないように。


今日も漂うことにした。





















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