電子辞書

五丁目三番地

母が深夜のテレビショッピングで受験生の私に買い与えた深紅の電子辞書。私は母の望み通りに英単語や漢字など、分からないことを打ち込んでは覚えた。母が喜ぶ顔を見ると学ぶこともさして苦痛にはならなかった。私は、昔から母のアクセサリーとして生きてきた。下の妹は今の父親と母との子供で、私はいつも厳しくしつけられてきた。礼儀を重んじろ、大人相手には笑え、何事も表彰台へ。長女として、母の右腕として、生きてきた。

仕事の愚痴や父親の悪口も聞いた。おかげで従業員の名前を大体覚えてしまった。時には二人だけで出かけたりもした。デートの時の母はいつもより綺麗な気がした。

いつからか母は虫の居所が悪いと甲高い声でヒステリックに喚くようになった。不思議なことにいつも私だけを貶して、妹は褒められていた。どうか母の中の悪がどこかへ流れてほしいと願いながら決まって最後に決まって泣きながら謝る母の背中をさすりながら、許しを与える。これが日常だった。

私が高等学校へ入学して、二ヶ月ほど経ってから母は離婚して仕事を辞めた。どこからか手に入れたパイプで何かを吸っていた。まだ母性は残っているのかベランダに出て、虚ろな目で煙を吸い込んでいる。妹はそれでも明るく可愛らしい子に育ってくれている。それだけが私の救いだった。

母が人間性を失ってから、私は自分の体の売り方を学んだ。授業を終えて、唇に色をつけてから、メールを入れて、駅へと急ぐ。八時までに帰って妹の世話をする。母の癇癪をなだめ、学校の課題を終わらせる。青春だとか、恋愛だとか、所詮体を売る私には分からないと割り切って同性とだけ仲良くするように心がけた。死にたかった。

けれど、妹が成人するまでは、母が戻るまではそう言い聞かせてきた。またいつものように自分を汚してから家へ帰ると夜に似合う橙色がアパートの一室で暴れていた。ぱちぱちと火の粉が爆ぜて星みたいだと思った。

妹が待っているから。玄関のドアを開けようと野次馬の存在なんて目に入らずに警官に褒められてもなお、まっすぐに家を目指した。妹がいる、私の妹がいる。血の繋がりがなくても私の妹がまだいるのだ。声がした。担架に乗せられて救急車に入れられていく妹が見えた。自分の頬に水滴がついていることに気気付く。ようやくそこで自分にもまだ泣くという行動が出来たのだと驚いた。

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