私と貴女と… 2
菜央実
第1話 大暑 (1)
私が住んでいる所は、簡単に言うと、山の頂上だ。街から随分離れていて、一番近くのコンビニですら車で五分かかる。しかも辺りに人家はない。「こんな場所にどうして…」と言われる事も多かったが、私はこの暮らしを、結構気に入っていた。
夏の夕暮れは随分遅く、午後7時を過ぎてもまだ明るい。仕事を終えて、私は街まで買い出しに出掛けた。愛用のバイクに跨がり、キーを回す。町道を進み、ゆっくり加速して国道に出ると、なだらかな下り坂が続いている。未だに鳴いている蝉の声を聞きながら、バイクを走らせていくと、坂の手前で自転車に乗っている人がいた。今からこの長い上り坂に挑むらしい。
(がんばれ)
心の中でエールを送って、そのまま街に向かった。
買い物を済ませた帰り道、何となく先程見かけた人物を思い出す。あの人はもう上り坂を上がりきっただろうか?
あれから一時間以上経っていて、流石にその辺りにはいない筈だ。太陽も沈んで辺りも暗い。バイクのアクセルを回して、一気に加速し半分程登った時、ライトに照らされた右側に自転車が見えた。
「!?」
通り抜けたものの、私の視界には自転車の片隅に座り込む人物が見えた。スピードを緩めながら頭の中でしばらく考えを巡らす。
「はぁ」
どんなに考えても、やっぱり答えは一つしか思いつかなくて、私は再びスピードを上げて急いで家に帰った。荷物もそのままに携帯ライトだけを持って、車庫にある軽トラを動かす。
「誰か迎えが来ていれば良いけど…」
思わずこぼれた独り言は、自分のお節介が余計な事だと分かっているから。
国道の先程の場所に行くと、まだそこに自転車は待っていた。エンジンをつけたまま車を停めて、助手席の窓を開ける。
「自転車、動かないの?」
「!?」
「さっきから、そこにいたから。
誰か迎えは来るの?」
「いえ…あの、自転車で岬まで行くつもりだったんです。
夏休みだから…」
声を掛けられておどおどしていた人物は、私の声が若い女性だと分かると、少し警戒心を解いて、事情を説明した。その声から、どうやら随分年下だということが分かった。
彼女の言う'岬'はこの付近でも有名で、絶景を見るため一年を通してぽつぽつと観光客が訪れる場所だ。確かに、夏にはツーリングの目的地として、この道路を幾人もの人が登っていく。
「私で良ければ、自転車見ようか?」
「えっ、あの…はい」
車から降りて、ライトを照らす。慌てた様子のその子に構うことなく、ゆっくり近づく。スタンドを上げてタイヤを触ると、前輪がパンクしていた。修理出来なくもないが、部品がない。
私の近くで、落ち着かない様子のその子に声をかける。
「修理出来るけど、部品がないんだ。あなた、どうする?
自宅まで送っていっても良いけど。今日泊まる所はどうするつもりだったの?」
「あの、家は、遠くて帰れません。泊まるのは、…一応、海岸のキャンプ場だったんです」
「ああ、あそこね」
この近くの海岸にあるキャンプ場は、夏場になると利用客も多い。私はさりげなくその子を眺めた。小さなリュックを背負っただけで、服装もジーンズと長袖のシャツ一枚。一人旅にしては、随分と準備不足だ。彼女の矛盾を問いただすのは簡単だが、それが良いとは思えないときもある。
「家に来る?」
「えっ!?」
「もう暗いし、今からキャンプするのも大変でしょう?
私の家、このすぐ近くなんだ。明日なら自転車も直せるから、泊まっていきなよ」
「いえっ、さすがに、そこまでは…」
あたふたと断るその子を、引き留めようと明るい声で続ける。
今、別れてしまえば、きっと私は後悔する、そんな予感があった。
「大丈夫。あなた、女の子でしょう?
私、独り暮らしだし、それにこの先、人家も泊まる場所もしばらくないよ。
さすがに一人でキャンプよりは安全だと思うし、田舎のお節介だと思って、一晩おいで」
「…私、お金、あまりなくて」
「あはは。何言っているの?
子供にお金は貰わないよ。安心して」
私の言葉に、戸惑いながらもその子は頷いた。
「すいません。ありがとうございます」
「それじゃ、決まりね。私は、水瀬涼」
「私、早川桜です」
「桜ちゃん、ね。じゃあ、自転車を乗せようか」
「は、はい」
それから私は、軽トラの荷台に自転車を積み、助手席に桜ちゃんを乗せて、帰宅した。玄関の電気を点けてから、自転車を下ろし、車庫にしまう。桜ちゃんもおずおずといった様子で、車から降りて玄関に近づくと、足下に黒い物体がすり寄った。
「ひゃっ!?」
桜ちゃんの飛び上がりそうな様子に苦笑して、黒い物体を抱き上げる。
「暗いから見えなかったでしょう?ほら」
「猫、ですか?」
抱き上げられたまま、だらんとした体勢で緊張感のない猫を渡すと、大人しく桜ちゃんの腕に納まった。途端にごろごろと喉を鳴らす。
「この子の名前は、何ですか?」
「ねこ、かな?
名前はないの」
「ふふふ」
頭を優しく撫でる桜ちゃんに、笑いかけると彼女も微笑んだ。部屋に上がり彼女を招き入れると、猫は外に降りていった。
「あっ…」
「あの猫、家には入らないんだ」
「そうなんですね。あの、お邪魔します…」
「遠慮しないで、どうぞ」
こわごわと足を踏み入れた彼女を奥に案内する。居間に座らせると、冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。ついでに冷蔵庫の中を確認した所で、バイクに荷物を起きっぱなしだった事を思い出した。
「はい、これ麦茶。
私、外に荷物を置いたままだから持ってくるね。テレビ見てて良いよ」
「あっ、はい」
生鮮品は買っていなかったし、気温もそこまで高くないから大丈夫だろうと思いながら、荷物を下ろす。ヘルメットを玄関に置くと、目の前に桜ちゃんがいた。
「どうしたの?」
「いえ、あの、運ぶ物、他にありますか…?」
「これだけだよ、ありがとう」
「はい…」
恥ずかしそうな様子が、可愛らしい。台所に戻ると、一緒についてくる。今どきの子にしては、気の回る子だなと内心考えながら、夕飯の支度をすることにした。
「手伝いましょうか?」
手持ち無沙汰らしく、手伝いを申し出る桜ちゃんに、それならと野菜を切ってもらう。いつも一人の台所に、誰かと並ぶ事に不思議な感覚をおぼえる。隣の彼女は170に数センチ足りない私より、頭一つ程低い。肩に届くふわふわの髪、細い手足、そして慣れない手つきで野菜を切る姿が、彼女をぐっと幼く見せているようだ。
「桜ちゃん、年幾つ?」
「16です」
「高校一年生?」
「二年です。誕生日が遅くて…」
「そう、高校生か…」
私に笑いかけた顔がどこか寂しそうで、さりげなく話題を変える。
「岬まで、自転車で行こうなんて、良く思いついたね。
ここからでも結構遠いよ」
「…それは、急に行きたくなって…
とりあえず行けるところまで行こうと思ったんです」
何となく伏し目がちな彼女は、少し躊躇いながら呟いた。
「良いじゃん、それで」
「えっ!?」
「何事も経験だよ。自分で決めたんでしょう?
失敗しても心配ないよ。きっと後悔はしないと思うな」
「…」
ぽかんとした表情で、私を見ていた彼女は、ふいに、慌てて下を向いた。その途端、身体をびくりとさせる。
「どうしたの?」
「…あ」
野菜を押さえていた手を庇う様子を見て、指を切った事に気づく。
「手、貸して」
「だ、大丈夫です」
「ほら、早く」
遠慮する桜ちゃんに、しびれを切らして彼女の手を引き寄せて見ると、人差し指に赤い雫が滲んでいた。水道の蛇口を捻り、そのまま水で洗い流す。桜ちゃんの身体が強ばるのを見て、彼女を掴んでいた手の力を緩める。
「あ、ごめん。痛かった?」
「いえ…」
傷を見ると血は滲むものの、傷は深くないようだ。居間に連れていき、新しいタオルで彼女の手を拭いてから、絆創膏をそっと貼った。
「これで良いかな」
ふと隣を見ると、桜ちゃんが赤い顔をしていた。何か対応をマズっただろうかと、とりあえず謝る。
「あ、ごめん」
「あの、すいません」
ほぼ同時に言葉が重なり、思わず二人で笑ってしまった。少し笑顔の増えた彼女に安心して、私は立ち上がった。
「桜ちゃん、そこで待っていて。後は、炒めるだけだから」
「ごめんなさい」
「あなたはまだ子供だから、気にしなくて良いの」
「私、一応、高校生です」
私の言葉に、困った様に返す彼女は、自分が子供扱いされている事が面白くないのだろう。
「高校生でも子供だよ。まだたくさん甘えなさい。
大人になったら、幾らでも大変な事はあるんだから」
その言葉は彼女に向けてというより、私自身の感想だった。何か感じたのか何も言わない彼女に笑みを浮かべて、台所に戻った。
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