第73話 わがままなくらい、正直に
「…まさか…」
そうだったらいいな、なんて都合の良い妄想だと思っていた。そんな偶然、あるわけないって。
それでもあの一枚の写真から必死に手繰り寄せた思い出たちは、望んだ通りに収束して。
「本当に…?」
「…本当です」
この赤いペンケースが、何よりの証。
「こんなこと…」
それを胸に抱き締めたら、さや果はもう、泣きたいのか笑いたいのか分からなくなった。顔が熱くて、涙が嬉しくて、震える唇は頬にきゅんと引っ張られて。吐息にかえたのは、溢れかえるときめきと、それでも追い付かなくて苦しいくらいのよろこびと。
「俺も驚いてます…でもそれよりも、良かった、って」
杏平は、空気を肺いっぱいに吸い込んだ。そうして見た空はキラキラしていて、てっぺんに来ようかという陽がぽかぽか、降り注いで。
まとわりついていた緊張が、大切な記憶たちにほぐされて、とかされて、今、身体の中にはこの気持ちだけが輝いている。
「なんでもっと早く思い出さなかったんだって、勿体なく思うくらい、」
早く言いたい。直ぐ伝えたい。鼓動は高鳴る一方で、想いはひとりでに咲き乱れ。
「本当に、嬉しかったです」
「杏平くん…私、」
それはもちろんさや果も同じだった。信じられないくらいの符合、願ったままの真実。何もかもが眩しすぎて、なおのこと。
「私…」
この願いや望みは、はじめから予感に近かったのかもしれない。でなければ、幼い記憶に拘ることもなかっただろうし、わざわざ抱き締めてまで持ち帰ったりしなかった。
思い出の品たちを。遠き日の約束を。
「言葉に、ならな…っ」
ぎゅっと瞑ったところから、大きなきらめきがひとつ、ふたつと降っていく。足元の白にまっすぐ落ちて陽がたまる。そこからぽうっと空気が変わり、呼ばれた気がしたのはそのすぐ後。
さや果はゆっくりと顔を上げる。光る睫毛と、広く薄紅を乗せた目元。
ふたり、瞳を揺らしながら。
「俺は」
その奥はもう確めなくていい。ただ見つめるだけでいい。
「言葉にしておきたいことがあります」
真昼の太陽が折り返していく。夜を迎えに下っていく。時は待ってはくれないから。
満月は、今夜そこに浮かぶから。
「…月が出る前に」
もう力は借りないと決めたんだ。
「…」
さや果は抱いたペンケースを今一度、ぎゅっと強く握り直した。
彼の真剣な表情は、照りつける光を纏っていく。川も風も何もかもが耳をすまして息を潜め、唇の開く音すら鮮明に。
「長いことずっと…思ってきました」
杏平は、胸ポケットに手を当てた。そうすると、仕舞ってある菜穂のメッセージが深いところから浮かび上がってくる。
「…俺じゃだめだろうなって」
遠慮や躊躇いばかりの感情は、李一郎の直情に晒されるほどに出口に迷った。想いは育っていくのに、さや果が彼のほうを見ていると感じるたび、やっぱり無理かもしれない、と自信を無くした。そんな自分が弱くてつまらなくて、格好悪くて恥ずかしかった。
「…たぶん、」
だけどもう囚われない。そうであれ、と願った今は。
「嫉妬とか、劣等感とかだと思います」
さや果が短く息を飲む。
「そのせいで、俺はさや果さんに、辛いことをさせてしまいました。本当に…すみません」
静かに杏平は頭を下ろし、そして上げた。さや果はゆるく首を振りながら、じっとその姿を見つめる。
「でも、皆に言われて、考えて、やっと気付けました。俺とさや果さんが過ごしてきた時間…短いかもしれないし、ささやか過ぎるものかもしれないけど…」
杏平の瞳を捲る光。決意の分だけ輝いて、そこに映る彼女ごと。
「その全部を、さや果さんが大切に思ってくれていること」
そして握りかけた拳をゆるめる。
「…千早さんのことだって」
「…!」
その揺らぎすら抱きしめられるように。
「あの夜…泣き疲れて眠るさや果さんを見て、どんなに真っ直ぐで真面目で、思い出を大事にできる人かってことを、改めて知りました」
杏平は自分でもおかしな程、心も体も軽く感じていた。一切の逆風や枷の無い、素直な気持ちとして言葉にできた。
「きっとこの先、彼がさや果さんの中から消えることはないんだと思います」
それで良い、そうあるべきだと心から思えた。
「…思い出はずっと、残るから」
その人を作るから。
「だから、これからも大事にしてください」
あなたをあなたにしているものを。
「…っ」
さや果はもう、堪えきれない。
杏平の腕は、手のひらは、吸い込まれるようにそこへ向かっていた。
勝ち負けじゃなかったんだ、最初から。
出て行けとか、追い出そうなんてこと、する必要は無かった。
「それで、悲しいとか、寂しいとか、本当に…、好きだったこと、とか、そういうものを…俺にも大事にさせてください」
彼女のことを想うなら。
「俺は、取り立てて何かできるわけじゃないし、頼りないと思います。それでも精一杯頑張ります」
幾つもの、涙と涙が出会って合わさる。
「さや果さんの隣に立っていたいから」
泣かせたくなんかない。それだって本心だ。
「…ずっと、いつも隣にいて、」
でも彼女はこんなにも今、泣いてくれている。
「こんな風に、向かい合って…」
だから、あなたのために涙を拭おう。
「…笑っていたいから」
杏平は、親指の先に座る涙をぎゅっと包み込みながら、彼女の肌に触れてみた。少しの熱とたくさんの情をこもらせて、鮮やかに透き通る頬の紅色。
杏平が先に、笑ってみせた。
「…杏平くん…」
その名を呼べばまた、さや果の言葉は雫となって、彼の手に次々と伝い落ち、止まらない。
あたたかい。
優しい。
思うほどに涙の理由が増えていく。限りなく湧き出しては溢れていく。
「私…っ」
正直になってもいいのかな。伝えてしまってもいいのかな。
さや果はそこに重ねたい手を、まだ胸に震わせて。彼に触れたいのに、逆らって、押しとどめて。
「私、今…っ」
わがままなくらい、あなたを心から求めている。
「…っ」
さや果が何を言おうとしても、落ちる涙が先を越す。
ぽろ、ぽろり、と生まれてくる、その一粒一粒に、積み重ねてきた景色と想いをぎゅっとうつして。微かな熱に運ばれて、かけがえのない輝きを、止めどなく二人の間に解き、放つ。
――暖簾の向こう、長い睫毛と少し気の弱そうな瞳。
――寒い日も無理して笑った、月夜語り。
――そうして過ごしてきた日々を、大事に詰めたレモンの瓶。
――慌てたそばと、初めて重ねた後ろ向きの手。
――触られたところからとけていった、少し強引なミトンと体温。
――焼けるほどに熱かった、月明かりの下の甘く優しいホットチョコレート。
――花びらと間違えたなんて、嘘をついて捕まえた帰り道。
――ぬくもりを移したカーディガン、その手をつい、引き留めたこと。
――弱くなんかないと言ってくれた、瞳の奥を見つめた戸惑い。
――いつも一番のと呟いた、背中合わせの不規則な呼吸。
――あの時のように挟んだ暖簾、あの時とは逆の「おかえり」と「ただいま」。
その全てが大切で、この上なく大切で――もう、杏平は突き動かされていた。
一個一個、よく思い返して、
「…うん」
素直に満足してみたら。
――そしたらきっと言いたくてたまらなくなる。
桃矢の言う通りだ。
「さや果さん」
全部の気持ちが集まって、
「…っ」
大きな大きな想いになる。
「俺はあなたを、愛しています」
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