第72話 おもいでがたり:ある夏、とある田舎で

 シャワシャワシャワシャワシャワ。

 瓦屋根にすり寄って、光る枝葉。何の樹かは知らないが、この大木には熊蝉がひっきりなしにやってくる。

 今から二十年程前の夏、山陰のとある山奥で、子供たちはこの自然をほしいままに遊び場にしていた。


「ほら、見てみろかずみ!おれ、もうこの枝に足、かけれるもんね!」

「ふっふー、甘いねいつきくん!ぼくがもうひとつ上まで、行ってみせるよっ!」

「にいちゃん、おれも!」

 頭上からは夥しいほどの鳴き声が、威嚇するように降り注ぐ。だが、わんぱく盛りの彼らにそんなものは効きっこない。むしろ握りつぶさんばかりの勢いで、捕まえてやろうとすら考えているはずだ。

「こーらー、杏平は危ないから止めといてねー」

 愛也子は縁側で、この暑さにノックアウトされていた。ただでさえ、やりたい放題の小学生の和実、そんな兄を見て興味津々の幼い杏平という、二人の息子が毎昼夜ひっきりなしに暴れまわるのだ。とてもじゃないが追い付かない。

 子供って、夏が増せば増すほどに、エネルギーが底無しになる。まだ午前の家事を終えたところだというのに、こちらは底を尽きかけていた。

「樹!杏平くんが真似するから降りなさい!」

 そこへ葉子が盆に麦茶を乗せてやって来た。息子に大きな声を投げると膝を付く。ここは彼女の義実家であった。

「今日も暑いですね」

「あっ、ありがとうございますー」

 天を仰いでいた愛也子は人懐こい笑みを浮かべ、そのひとつを手に取る。美味しそうに喉を鳴らす彼女の生家はお隣だ。

 夏休みということで、互いの家族は帰省中だった。両親には孫の顔を見せてやれるし、子供たちにはやれ遊園地だ、やれおもちゃだなどとせがまれることなく――ではなくて、田舎でのびのびと遊ばせてやれる。葉子も夏の間くらいなら、こういうのんびりした所で過ごすのも悪くはないと思っていた。

「和実くんすごいですね、もうあんなに登れるように」

「あっはは、どうもね、樹くんに鍛えてもらったみたいです」

 そして床板の鳴る音が近づく。少し辿々しいそれは、葉子の娘のさや果のものだ。硝子製の皿に山盛り、胡瓜の糠漬けを乗せている。彼女の祖母のヨネに励まされながら、なんとかひとつも落とさず持って来られた。

「はい、どぉぞ!」

「さや果ちゃんがねぇ、ようお手伝いしてくれちゃったそよ」

 祖母と顔を見合わせて、さや果は嬉しそうに破顔する。その舟形の皿の中には、均等に斜めに切られた綺麗なものと、不揃いなものとが両極端。ヨネがお手本として並べた上から、彼女が調理鋏で切ったものを豪快に振りかけたに違いない。

「そうなの、すごいじゃない。上手に切れてる」

「わあ、ありがとう。偉いねぇ、さや果ちゃん」

「…うんっ」

 誉められて、さや果ははにかみ声を漏らす。だがすぐに母の影に隠れて座り、足を揺らし始めた。その度に、二つ結びにした髪の、飾りゴムもシャカシャカシャカ。

「さや果はお兄ちゃんたちと遊ばなくていいの?」

 母が渡してくれた麦茶に唇を埋め、グラスの上から覗かせた両目を木のほうへ遣ってから、彼女はちょっぴり顔を曇らせた。

「…せみ、いるもん…」

「あー、おっきなのいるよねぇ。おばちゃんもちょっと苦手!」

 さや果に微笑みかけながら、愛也子は肩を寄せ、顔を左右に振るなどして、少し大袈裟に怖がってみせた。さや果はそれを、母を挟んでじっと見ている。

「熊蝉かね。昔は、はー聴こえりゃせんっちゅうくらいにな、ようけおったそやけどな」

「あら、そんなにですか」

 都会生まれ都会育ちの葉子には、熊蝉と言われてもあまりピンと来ないようだ。義母の話に相槌を打ちつつも、蝉は蝉、ただの虫、程度にしか思っていない。

「思い出すだけで嫌ぁー」

「あっちゃんも、こんなこんまい折には、よう虫取りしよったやろうがね」

 そこで庭の真ん中に、立ち止まる老いた姿があった。一本の木にこぞってぶら下がる孫たちを、にこやかに眺めている。ヨネから「よお、ねえさま」と呼ばれて頷きながら、その人はゆっくり歩いてくる。愛也子の母、みつえだ。

「もぉ、いつの話ですか、おばさんー」

 幼い頃の話をされるのは、歳を重ねるごとに恥ずかしい。愛也子が手を何度か払いながら苦笑いするのを、みつえのもっと大きな笑い声が飲み込んだ。

「あっはっは!愛也子はな、いつやったか、砂羽子に蝉持って追いかけられてな!そっから虫はとんとだめになったそ!」

「母さん!」

「おお、それそれ。よう憶えちょる、大泣きしよったそ。さっちゃんが小学校行きはなえた頃やったか」

 さや果は祖母を見上げ、そのたゆんだ袖をちょいちょいと引く。

「さやか、まだようちえんだよ」

「おお、うんうん、そうやね。さや果ちゃんは、幼稚園」

 不思議そうに見つめ合うさや果とヨネを見て、葉子はくすりとする。

「この子、幼稚園ではさっちゃんって呼ばれてるみたいで」

「まっ、それかね」

 「まぁまぁまぁ」と笑うヨネは合点がいったようだが、膝をぽんぽんとされながら、さや果はまだ謎が解けない。

「あはは、ごーめんごめん!混乱させちゃったね。さっちゃんはねー、さわこって言って、おばちゃんのお姉ちゃん!」

 母の向こうからぴょいっと身を乗り出して、愛也子がまた賑やかな声で教えてくれるが、さや果はまんまるの目をしばたたかせ、彼女の方へそろっと首を回すだけ。

「ふぅん…?」

 数日経ったが、まだ少しぎこちない。

「樹!もういい加減降りなさいよ!」

「ほーら!和実!杏平も!そろそろお茶、飲んどいたらー!」

 先程よりかはヒートアップしてきた母たちの声は、幹にへばりついていた彼らの耳にやっと少しは届いたようだ。樹と和実は顔を見合わせて、撤退の相談でもしているのだろうか。

「胡瓜食べんかね」

 だめ押しにはヨネの声。タンッと小気味良い音を鳴らして地面に降り立った樹は、駆け寄りながら顔一杯に口を開ける。

「ええ!もしかしておやつ、またつけ物!?」

 みつえがさや果から手渡された胡瓜をポリッと齧っているのを見遣りながら、それは葉子には抗議に聞こえたらしい。

「何言ってんのよ、朝ごはんの後にもうアイス食べちゃった癖に」

 わいわいと群がってくる子供たちを嬉しそうに一人一人見てから、ヨネは通りがかった夫の靖治を呼び止めた。

「ああ、じいさま、みんな集まったけぇカメラ、撮っちゃりさんな」

「よ?」

「写真」

「おお、写真か」

 靖治は部屋の奥へ消えていく。


「あら。杏平、すごい勢いで食べてる」

 こういう素朴な食べ物には飽き飽きしていた愛也子は、さや果に手渡されたひとつ以外は口にしていなかった。だがそのすぐ横で、彼女の下の息子は夢中で頬を膨らませている。

「杏平くんはお漬物、好きかね!じいちゃんに似たそやな!」

 「愛也子とは大違い」とまた、みつえは男らしさをも感じる大笑いだ。

 その声の下を潜りながら、さや果はむしゃむしゃ食べ続ける杏平をじっと見る。幼稚園で「小さい子の面倒を見て上げてね」と先生に教わったことを思い出した。

「これね、さやかがきったの。おいしい?」

 返事はすぐにかえってきた。

「うん!おいしい!」

 満面の笑みでそう答える彼を見て、むずむずと、唇はひとりでに弧を描く。なんだか、嬉しいよりももっと嬉しい。さや果は今までに感じたことのない種類の喜びを得ていた。

 小さい子に笑いかけられると、こんな気持ちになるものなのか。いつも兄にちょっかいを掛けられる側だから、尚更そう思うのかもしれない。染み込むような感情は、まだまだ広がりを見せていく。

「ほんとう。よかった!」

 さや果と杏平は、皿を囲んでふふふと笑う。みつえと、それから愛也子も珍しく口を挟まずに、微笑ましい二人を見守る。だが、「どしーん、どしーん」と口で言いながら、その間を容赦なく割る影は、どんどんと近づいて来た。

「あっ」

 杏平が歪なそのひとつを摘まみ上げようとした瞬間、それより長い腕に、皿ごと横からかっ拐われる。

「へへっ、このきゅうりは、おれがもらったぁ!」

 樹が庭から、素早い動きで手を伸ばしてきたのだ。そのまま炎天下へと持ち去っていく。

「やめてよ、おにいちゃん!」

 唖然とする杏平の横で、さや果が眉を吊り上げる。

「なんでだよ、みんなのだろ?ってことはおれのでもある!」

 頭上に皿を掲げながら、樹はおどけた調子で庭を縦横無尽に駆けずり回る。そんな兄を追いかけようと、さや果は縁側を舐めそうな勢いで下を覗き込み、自分のサンダルを探している。

「さやかがきったの、きょうへいくんにあげるの!」

「やらん」

「もぉ、かえしてー!」

「さや果ちゃん、帽子かずいて行きさんや!」

 しかしそれどころではない。みつえが言うのも聞かずに、やっとサンダルの面ファスナーを留めて、さや果も庭へと飛び出した。入れ違いに、和実は後ろ手に何かを隠しながら、弟の元へ這い寄る。

「きょうへいくん!」

「ふ!」

 体を真上に跳ねさせながら驚く杏平が、和実は心底面白い。両手にまだ胡瓜の水分を滴らせている彼に、大きな声で耳打ちした。

「そんなにきゅうりばっか食べてると、顔が緑色になっちゃうんだよっ!」

「ええっ!?ほんと?にいちゃん!」

 だからみつえや愛也子にも丸聞こえだ。すぐに突っ込まれてしまう。

「まっ、はは!和実くんはまーた面白いこと言っちょる!」

「そんなわけないでしょー。和実、どこで習ったのそんなこと?」

「この!けんきゅうノートに書いてあるのだよ!」

「…それあんたの自由研究じゃない。ていうかそんな内容なの!?」

 さすがに驚愕した愛也子は、息子の夏休みの宿題を検める。そのパラララと捲られるノートからの風に、柔らかな髪をそよがせながら、杏平はしかし、みつえや愛也子の声など右から左だ。

「どうしよう、みどりになる…みどり…」

 青ざめながら呟く弟は置いて、和実はすでに逃げ出した後。


「じゃーこれ、おれが全部食うからな!」

 庭で繰り広げられる兄妹喧嘩を、さすがに葉子も見咎めて、五段階中の四くらいのレベルで怒声を放つ。

「こら!樹!独り占めするんじゃありません!」

 だがまだその程度なら、眉間に皺の寄った母の顔すら、彼のイタズラ心の着火材だ。ぴょんぴょんと全身で縋ってくるさや果へニヤリ顔を向けると、その後ろから距離を詰める和実に目配せした。

「ねー、かえしてったら!」

「そんなに言うなら…」

 さや果は、忍び寄る和実に気付かない。「だーれだ?」の要領で、声もなくその手はもうすぐさや果の目の前に、

「ほれ!」

「ひゃうっ!!」

 蠢く物体。それと分かるには近すぎた。だがさや果の大嫌いな「ジジジジジッ!」という忌々しい翅音が、嫌というほど教えてくる。私は蝉だと主張する。

 飛び退いて、こけそうになりながら逃げ惑うさや果を、樹と和実はけらけら笑いながら追いかける。

「い!つ!きッ!」

「和実も!何してんの!」

 ついに葉子のボルテージも最大に達したがもう遅い。愛也子も叱ったつもりだろうが、それを持ったままこちらへ来られてはかなわないので、どちらかと言うと悲鳴に近い。

 その隙にもう、樹は胡瓜をたいらげていた。

「へへっ!」

「だいせいこーう!」

 和実とのハイタッチは、痺れるくらいの乾いた快音を響かせた。そして鹵獲の済んだ硝子の皿は、あまりに軽い音とともに帰港する。

「さやかのきった、きゅうり…」

 大いなる力に敗けたさや果は、葉子の傍らでとてつもない喪失感を味わっていた。背中を日に焼かれながら、縁側にかじりつき、略奪の悔しさと、未だ引きずる蝉の恐怖とに苛まれている。


「えっ、きゅうりは?もうないの?」

 やっと「みどり」の呪縛から解放された杏平は、きょろきょろと見回しては母を見上げる。

「うん、無くなっちゃったぁ。売り切れ」

「ええ、ぼくまだたべたい!」

「うんー、でもね、もう無いの」

 困り顔の愛也子に、助け船を出すのはヨネだった。

「杏平くん、ばあちゃんの切ったそが、まだあるよ」

 言いながら、自分の膝元からその陶器の皿を指の腹で押してやる。それをしばらく見つめていたが、整然と並べられた胡瓜は、どうも杏平のお気に召さなかったらしい。

「やだ!これじゃない!」

「おんなしそよ?うちかたで漬けたそやから」

「ちがうもん!これじゃない!これじゃないー!」

 首をぶんぶん振りながら、とうとう母にしがみついて泣き出してしまった。

「あららら…」


「あ!なあなあじいちゃん、それカメラ!?とって、とって!」

「おお、おお。ちょっと待ちさん」

 周りをちょこまか飛び回る樹に微笑みを返しながら、靖治は使い捨てカメラのダイヤルを右へ回していく。ジーコ、ジーコと突き当たったら、庭の中央でそれを構えた。

「えーカメラ!?ぼくも!」

「ほらいっしょに写んぞー!」

 手招きに吸い寄せられ、和実は樹の占領する、中央のその場所へ突進していく。二人は互いの生還を喜び合うかのように肩を抱く。

「ほら、さや果も写るよ」

「…」

 葉子に、身体をくりんと庭のほうへ向かされて、背中をぽんと叩かれる。笑いなさいと言われたのは解ったし、言われなくてもファインダーを覗く靖治の姿に応えたい気持ちもあったけど、やはりまだ、そこでふざけ合う二人にされたことが尾を引いていて、なかなか上手くは笑えない。

「まぁま。みんなニコニコやったそにから」

 ヨネはどうしたことかと、そんなさや果の頭を撫でている。

「わーん、わあぁぁ…」

「あっはっは!杏平くんも、元気に泣いちょる!まぁええこと!」

 みつえはそれでも満足らしく、景気よく笑っていた。

「ええかね、」

 靖治が声を張るが、ポーズに間に合ったのは樹と和実だけだ。

「はい、チーズ」

 言い終えぬうちに、シャッター音は庭に落ちた。




 そこから暫く、集落は快晴続きだった。この日はお昼を済ませ、蝉の合唱もまだまだ盛り。さや果と杏平は、兄たちに追い立てられるようにして、上のほうへと走って来た。杏平はまた泣いていた。樹か和実か、結局白状はしなかったが、と言うか共犯に決まっているが、昼のそうめんに山葵を入れられたからだった。

「はやくいこ。またおにいちゃんたち、きちゃうよ」

「うぅーえぇ、えぇーん…」

 こんな調子でさや果の後ろを追いかけている。ここのところ、これがお決まりのパターンだった。

 泣き止む様子のない杏平は、それでも必死についてくるので、樹たちが追わなくなったのを確認したら、さや果もゆっくり、ゆっくり歩くことにしていた。

「ほら、もうすぐだからね」

 割と綺麗に舗装されたアスファルトを、励ましながら進む。すると突如として現れる、躍動するたくさんの白い線。チョーク石で描かれたそれらは、連日にわたるさや果の超大作である。もっとも、そのような目印がなくともここらに家はこの一軒しかない。

 見上げれば鬱蒼と生い茂る山道が手をこまねく、そのすぐ前の小川沿いの古いお宅。「川上」と表札のある玄関は素通りだ。最近買い換えたばかりらしい白い軽トラックの脇をすり抜けて、さや果は時折足を止め振り返りながら、開け放してある戸口へ向かう。土間から、大きな声を送り込んだ。

「おばーちゃーん!こんにちはー!」

 さかさかと床を擦る音の中に「はーい」と三度ほど甲高い声が混じる。待ちかねていたように、川上夫人はすぐに二人を出迎えた。

「よう来たね。お上がり。あんたー!杏平くんとさや果ちゃん、来ちゃったよー!」

 奥のほうへ呼び掛けるが反応はない。まあそのうち来るだろうと、夫人は小さなお客を居間へ通す。

「今日は、カステラが買うちゃるよ」

「やったぁ!よかったね、きょうへいくん」

「…っ、…うん…」

 すでに涙でびしょ濡れの手の甲で、杏平はまた目元を拭った。


 カステラだと確かに夫人は言っていたが、出されたものはシフォンケーキだった。さや果にとっては好物に変わりないので、どちらでも構わない。笑顔でぺろりと頂いたら、さっそく小川へと繰り出していった。そこで石を拾い集めるのが、最近の彼女の日課となっていたのだ。


 一方、杏平は食べ終えてもまだぐずぐずと鼻を啜っていた。兄たちにいじめられたのが悲しいからなのか、山葵がまだ口に残っているからなのか、理由は自分でもよく分からなくなっていた。

「男は泣くもんやないそ」

 白い折り紙を折っていく合間に、この家の主人は杏平の顔を拭いてやる。タオルで目も鼻も口もぐりぐりぐりっと掻き回されて、杏平は鼻の頭どころか全体的に顔が真っ赤だ。夫人は台所で後片付けをしながら、時折振り返り笑っている。

「こうやって、ぐぐっと堪えてみいさん」

 その表情を真似て、杏平は口を引き結んでみた。しばしぷるぷると震えた後、ぱはっと急いで息を吸い込む。鼻が詰まっていたので呼吸ごと止めてしまう格好になったのだ。うまくできないやと脱力し、彼はちゃぶ台に頭を預けた。

「それで、守っちゃげんにゃあ」

 そうして見上げた隣では、主人が鶴を完成させた。羽の先も尾も顔も、ピンと尖って素晴らしい出来だ。

 杏平は目を輝かせ身体を起こす。自分も、という気持ちで、だあっと折り紙の束をひっくり返した。その中に一枚ずつしかない金色と銀色の紙を抜き出して、杏平は目の前にぴたんと貼り付けるように置く。

「…なにをまもるの?」

 ふっと、主人は鶴の下に息を吹き入れた。羽を丸めて整えて「それは」と言い掛け引っ込める。

「…杏平くんは、さや果ちゃんのこと、好きかね?」

 杏平の手元に、白い折り鶴を座らせた。扇風機がこちらを向くと、じきにそれはカクン、と羽をつくように傾く。

 それが何を見ているのか気になって、杏平はくちばしを真っ直ぐ自分の方へ向かせてみた。

「さーちゃん?うん」

 鶴と目線を合わせるように顎を台の上に乗せ、杏平は、喋る度にかくかくするのが今度はちょっと面白い。

「やったら、強くならんにゃいけんよ」

「つよくなって、どうするの?」

「守るそ。さや果ちゃんを」

 ぐいんっと杏平は背筋を伸ばす。

「ぼくが?」

 瞳は大きく、口も一杯に広げて。しっかり主人を見据え、嬉しさが顔全体で弓を引く。

「まもるの!?」

 常に守られる側だった杏平には、自分が誰かを守るなんていうことを考える機会もなかったし、それができると思える材料もなかった。

「そう。ずうっと大事に大事にな。それが結婚っちゅうそよ」

 今初めて、与えられたのだ。守られるのではなく、追いかけるだけでもない、自分が、誰かのために何かをできるという可能性。

「けっこんする!つよくなったら、けっこんできる?」

 さや果のために「したい」、「なりたい」という気持ち。

「んん、あとはプロポーズせんにゃあ」

「なに?それ!」

「指輪こさえてな、お願いするそ」

「こさえ…?」

「作るそ、指輪を」

「ゆびわ、つくるの?」

 そわそわと、杏平は上に下に弾みながら、眼下の金と銀とを見比べる。

「じいちゃんと作ってみるかね」

「うんっ!」


 採掘を終えたさや果画伯は、そのキャンバスをさらに広げていた。もう明日には父が迎えにやってくる。自分の家へ帰らなくてはならない、その前に、たくさん描いて残しておきたかったのだ。

 最初は特に目的もなく、ただ楽しいから石を走らせていた。だけど今は、明日から一人でここへ来るであろう彼のために。また下を向いて泣きながら、この道を歩くだろうから。

 幼稚園の先生の教えは、今は気にかけなかった。

 笑ってくれるかな。もっと一緒に笑いたかったな――さや果の中にあるのは、そんな思いだけだった。

「…!」

 すっと、背筋に悪寒が走った気がして、さや果は振り返る。ずり落ちたキャミソールの紐を捕らえながら、石橋の向こうから、破と滅がやってくるのが見えた。大急ぎでクレヨン代わりの石たちをクッキーの缶にしまって、蓋は、と路面を見回しながら、夫人に開けてもらったまま居間へ置いてきたことを思い出す。と同時に、素早く撤収。

 どうせまた、悪意以外の何物でもない策を持って、試しに来たに違いない。蝉とか、蝉とか、蝉とか。恐ろしい想像を打ち消すように頭を振る。意地でも籠城するつもりで、さや果は川上家に逃げ込んだ。


「おぉい、さやかー!」

「きょうへいくーん!」

 そして樹と和実はしばらく庭先をうろちょろしていた。ここにいるのは確かなのだ。自分たちがおやつと称して糠漬けを食べさせられている間、妹や弟はここで甘くて美味しいお菓子を貰っていたのかと思うと、

「出てこないなー」

「そうだねー」

 羨ましくて、やっぱりいじめてみたくなる。


「土間は閉めて来たけぇね、さや果ちゃん」

「うん…」

 仏間の大きな窓を背にしながら、さや果はちょっぴり悶々としていた。なんだかこれではまるで、自分が兄たちに意地悪しているみたいなのだ。

 間に満ちる線香の匂いが、そぞろにそれを肯定する。

「お兄ちゃん、さや果ちゃんたちのこと、呼びに来たそやないかねぇ?」

 夫人まで横で正座してそんな風に言うものだから、罪悪感は膨らむばかりだ。

「うん…」

 さや果は立ち上がり、レースのカーテンをそっとよける。それを見て、夫人が窓のクレセント錠を弾くと、さや果もとうとう窓を少しだけ開けてみた。

「…」

 この時点でもう、罪悪感と警戒心は半々だった。悪い気はしているが油断もできない。居間のほうを見ている彼らをじっと窺う。

「あ」

「…!」

 和実に気付かれた。さや果はぴゅんっと首を引っ込める。が、最早何の意味もない。突破口を見つけた彼らは一目散にここを目指してくる。

「あ、わ…!」

 まさに破滅の足音。砂を蹴るのが近く激しくなるにつれ、さや果の脚の震えはひどくなる。今あるのは罪悪感でも警戒心でもない。ただの恐怖。来る。やっぱり彼らは鬼か悪魔だ。

「よう来たね」

「!」

 小さな三人分の驚きが重なる。いつの間にか夫人の手には、先程さや果が食べさせてもらったシフォンケーキがある。

「お兄ちゃんらにもあげよう」

 お行儀悪く窓から入り込もうとしたわんぱく坊主を諫めるでもなく、彼女は柔らかい笑顔で、それを二つに割って差し出す。

「え!いいの?」

「ありがとう!おばあちゃんっ!」

「ええよ、どういたしまして。その代わり、」

 もひもひ動く頬をそれぞれ見てから、夫人は一層笑みを深める。

「妹や弟は可愛がっちゃらんにゃ、いけんよ」

 ごっくん。二人の嚥下は同時だった。それが、この場合は頷いたのと同義となる。

「…」

「…」

 もうお菓子は飲み込んでしまった。ということは、夫人の言ったことは守らなければならない。

 約束破りと食い逃げは、男が最もしてはならないことなのだ。

「…うん」

「わかった…!」

 二人はポケットや帽子や、ありとあらゆるところに隠し持っていた蝉たちを、次々空に放していった。それだけでもうさや果の目には阿鼻叫喚の図に映ったが、彼らがこれだけ大人しく従うのだから、そろそろ天岩戸ごっこもおしまいだ。

「帰るぞさやか!」

「きょうへいくんも、いっしょにね!」

 夫人はさや果の肩に手を置いて、にこやかに一度、頷いた。

「…うん!」




 夕飯は、みつえの家に皆で呼ばれた。食事はあらかた終わっているが、靖治はまだ晩酌の途中だ。愛也子が先んじて流しに立ち皿を洗い、葉子は卓の上の食器を片していた。私もと立ち上がろうとするみつえとヨネを制しながら、ここと台所とを、すでに何度か行き来している。

 母二人が忙しく動く傍ら、子供たちは気ままに過ごしていた。樹は、靖治のつまみの竹輪をくすねて、望遠鏡のように覗いている。ターゲットロックオンされたらしく、和実は笑いながら逃げ回り始めた。卓の下を潜ったり、座椅子の背面を踏み倒しながら、葉子の短い悲鳴もお構いなしに。

「まぁま。元気のええこと見ぃね」

「あっはっは!今夜は賑やかで、じいちゃんも喜んじょるやろうよ!」

 そのため、テレビの音などろくに聞こえないとは思うのだが、靖治はすごい集中力で演歌に耳を傾けている。同じ卓の隅で、ヨネとみつえは葉子の淹れた緑茶を啜っていた。

 さや果は庭からの夜風に耳元の髪を遊ばせ、宝箱の整理に集中していた。今日の戦利品もなかなかだ。中でも川底から引っこ抜いた、面白い形の石なんて、抹茶ミルクの飴みたいな色をして、ため息が出るほどに素敵な一品。

「さーちゃん、それなーに?」

 杏平は、居間と縁側の間の敷居を平均台のようにしてやって来て、そんな彼女の姿と、缶の中とを上から覗く。底がなるべく見えないよう敷き詰めたいさや果は、そこから目を離さずに答えた。

「さやかがみつけたの。これでね、ほうせきやさんをするのよ」

 声は気持ち弾んでいた。それからちょっとお姉さんぶった口調だ。缶と石のぶつかる音がいくつか、小気味良く響く。

「あのね、きれいないし、おれももってるよ」

「ええ、どんなの?」

 そうは言っても自分のコレクション程のものはそうないだろうと、さや果はどこか高を括っている。

「んとね、しろくて、」

「うん」

「きらきらしてるの」

「えっ、きらきら!?」

 がばっと、その単語を聞くや否や、さや果は顔を振り上げる。期待と興奮の入り交じる、とびっきりの笑顔だ。腰を屈ませていた杏平は、頭と頭がぶつかりそうになって、とっとっと、とうとう敷居から落ちてしまった。

「あ…うん」

「ほんとうー!そんなのみたことない!」

「おじーちゃんのおにわに、あったよ」

「うえの?わぁ、さやかもみたい!みせて!」

「うん、」

 どきどきする胸の辺りを押さえながら、杏平が「いいよ」と言おうとしたところで、彼らの間に猛スピードで突っ込んでくる和実。

「おわっ」

「え?」

「ひゃっ!」

 スコーン。その足は、綺麗に缶にミートした。さや果の宝箱は、石を撒き散らしながら縁側をも飛び越え、庭へとあえなく沈んでいく。

 缶の跳ねる音がこだまする。

「ああーっ!!」

「何、どうしたの!?」

 滅多に聞かないさや果の叫び声に、葉子もさすがに焦ってスリッパをかき鳴らす。居間のへりで、尻餅をつく杏平と、シュート直後の体勢のままの和実と、そして項垂れ震える娘を見る。ちょっと離れたところで、樹は知らん顔を装いつつ、じりじりと後退り、靖治の背中に隠れていった。

「えっ、何?何があったんです?」

「なんや、追っかけっこしよったが」

「おおーきな音がな!」

「え?」

 あまり要領を得ないヨネたちの説明に首を傾げつつ、葉子は子供たちの元へ近づく。すると、声を掛ける前にさや果が畳に伏せて泣き出した。

「ああーんッ!わあああーんッ!!」

 なんと、想定を超えたかなりの声量だ。真横にいた和実など、吹き飛びそうなくらいの激しさがあった。

「…」

 なす術なく、兄弟は呆然とへたりこむ。

「何、どうしたのさや果。泣いてちゃ分かんないよ」

「あああーん!」

 葉子がその背中をごしごしやっていると、じっと見つめる杏平の視線に気が付いた。「うん?」と目の高さを合わせてやると、彼はおずおずと口を開く。

「…さーちゃんね、ほうせきやさんするって。いし、いっぱいもってたの」

「石?」

「うん」

 周囲に視線を配ったら、ひとつ、ふたつ、確かに石が散らかっている。

「あ、ぼく…」

「うん?」

 さや果のあまりの泣きっぷりに胸を痛めたのか、和実もどこかしゅんとした様子で、葉子に話し始める。

「その、缶、けっちゃって…」

「蹴っちゃった?」

 和実の頭にぽんと手のひらを乗せたら、葉子は縁側から庭を眺めてみた。居間から流れ出た照明以外に明かりはなく、かろうじてそれと思しき影を捉える。

「ああ…」

 赤い、クッキーの空き缶だ。

「さや果。缶、お母さんが取ってきてあげるから」

「さやかのっ、いしもっ…!」

「石は、また明日朝になってから探そう?今は暗…」

「やだああー!いしー!さやかのいしー!」

 耳をつんざく泣き声に、くらり、葉子ももうお手上げだ。「ごめんね」と和実と杏平に微笑いかけてから、泣きじゃくるさや果の背中や頭をさすり始めた。

 そこへ、みつえが奥の間から戻ってくる。何か四つほど、裸のまま携えて、よっこいしょとさや果の真ん前に膝をつく。

「ばあちゃんが、ええそあげよう、さや果ちゃん」

「うぅー…、っ」

 そのしわしわの手の上に乗っていたのは、赤いペンケースだった。腕の隙間から可愛い桜柄を垣間見て、まだ泣き足りないとは思いつつも渋々、さや果は畳の跡のついた腕を起こす。

「一年生になったら使いいね」

「まあ、えかったねぇ、さや果ちゃん」

「本当。可愛いの、良かったじゃないさや果。ほら、何て言うの?」

「……ありがとう」

「はい。ええですよ。和実くんと、杏平くんと…樹くんもおいでなさい」

「!」

 おそるおそる、樹は靖治の背中から皆のほうを窺う。すぐに、みつえの快活な笑顔と目が合った。

「みんなにひとつった、こさえたけぇね」

 はい、はい、と一人ずつ、みつえはペンケースを配っていく。こちらは三つとも、赤ではなくミントグリーンだ。

「ありがとう!」

「ありがと、ばあちゃん!」

 樹もとぼとぼ、そこへ加わる。

「ありがとう…」

 それに人一倍敏感だったのはさや果だ。先程の涙も乾かないうちから、みるみるまた瞳を歪めていく。

「さやかも…」

「うん?」

「さやかもみんなとおんなじがいい…」

「えっ」

「おんなじの…」

 やっと曲げたへそを戻してくれそうだったのに、また泣かれては堪らない。葉子はすぐに手を打たなければと、樹にくっと向き直る。

「樹、換えてやりなさい」

「えっ、おれ?」

「そうよ、お兄ちゃんでしょ」

「やだよ!だって赤だろ?女の色じゃん!」

「何言ってんのよ、幼稚園のとき散々おもちゃ買ってやったゴーゴーレンジャーだって、赤いのが好きだった癖に!」

「いつの話してんだよ!しかもそれ、花がら…!」

 泣き声を回避しようとしてそこに待っていたのは、飛び交う親子の口喧嘩だった。どちらにしてもこの世の終わり感の漂う居間に、颯爽と立ち上がったのは、ここで一番小さな救世主かれ

「おれとかえっこしよ!」

 ピタリ、瞬時に喧騒はおさまった。杏平は言い終わる前に、さや果の膝に置かれた赤いペンケースをむんずと掴み、自分のミントグリーンのそれを代わりに優しく差し出した。

 そしてにっこり笑って、また言うのだ。

「ね!かえっこ!」

 その神々しさに、樹も和実も退散する他ない。葉子も無垢な杏平に助けてもらったことを感謝しながら、台所へと戻っていく。

「…」

 さや果は、それをそうっと手に取り、ふんわりと大事そうに握りしめる。まだ少し潤んだ瞳でしばらく見つめると、彼に誘われるように微笑んだ。

「うん…ありがとう…!」




 明けて朝、さや果の目覚めは早かった。寝る前に枕元に準備してあった、赤いクッキーの缶を手に取り、パジャマのまま静かに、薄暗い廊下を走っていく。何度触って確めても、やはりあちこち凹んでしまって、ざらざらと、塗装の剥がれているのが分かった。

 お気に入りの缶だったのにな、と悲しくなるが、今は泣いている場合ではない。目を擦りながらサンダルに足をかけ、外に出た。

 まだちゃんと顔を出していない太陽は、山の向こうからぼんやりとした光だけを空に流す。坂道を、祖父と祖母が並んで下っていくのが微かに見えた。

 ぼうっとそちらを見つめて、朝焼けに横顔を照らされながら、さや果はやがて立ち止まる。

「…あれ?」

 しゃがみこんで地面に目を凝らす、小さな彼の姿が庭にあった。

「…なにしてるの?」

「あっ、さーちゃん!みて!」

 杏平は、さや果に気付くと嬉しそうに、パジャマの裾で砂を擦りながら走り寄る。そして笑って手を広げた。ぽとぽと溢れるくらいに、そこにはたくさんの石が握られていた。

「あ…!」

「ほうせきやさん、できるよ!」

 ガラガラ、カララ。彼はさや果の持っていた缶に、それをおさめてまた別の方向へ走っていく。中を覗くと、さや果の集めたものではない、彼女から見たら何の変哲もない普通の石も混じっている。このねずみ色の丸いのなんて、庭のどこにでもあるような石だ。

「…」

 これでは宝石屋さんにはならない。だけどさや果はもう、そんなことはどうでもいいやと思っていた。

 彼は、自分のために探してくれた。

「…きょうへいくん」

「あっ」

「…?」

「ちょっとまってて!」

 何かを思い出した杏平は、靴を蹴るようにして脱ぎながら、縁側から家へと入っていく。静かな早朝に、しばらくそうして、危なっかしい足音だけが響いていた。

 やがて息を弾ませながら戻ってきた彼は、両手で背中に何かを隠しているようで、脱ぎ散らかした靴に足が届かない。さや果は彼の側まで近づいていき、缶をその場に置くと、靴を揃えて差し出してやる。

「はい」

「ありがとう!」

 先に言われてしまった。さや果は自分も、と唇を波打たせるが、それより早く杏平は、後ろ手に持っていたそれを重ねた手のひらに乗せ、彼女の目の前に持ち上げた。

「!」

「これあげる!」

 白くて、キラキラ。

「これ…!」

 銀に白の入り交じる、少し歪な輪っかの先に、さや果の見たことのないその綺麗な結晶が、ちょこんとくっつけられていた。

「ゆびわだよ」

「ゆびわ?」

「うん。…えっと、なんだっけ?」

 その単語が思い出せなくて、下を向いて考え込んでいたが、杏平は次第に尖らせた上唇をにっと笑みに変える。

 一番大切なことはちゃんと覚えていた。

「あのね、さーちゃんとけっこんするの」

「えっ…」

 さや果は、大きな瞳をくるりと揺らした。

 おどろき、とまどい、ときめき、よろこび。

 短い息の中に、色々な気持ちを見つけていた。

「それでね、だいじにする」

 朝日がさあっと下りてくる。ふたりの世界に色が降る。山は翡翠、空は菫青。鮮やかな煌めきを生みながら、それはここに到達して。綿で優しく乗せるように、最後に浮かび上がらせた色彩は、頬ににじむ、紅水晶。

「おれがつよくなったら、けっこんしよ!」

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