えんむすびで、今夜
美木 いち佳
第1話 えんむすびのある日常
夕焼け色が川面を染める。今の時間帯の空腹に、この匂いは辛いほど沁みる。
辿らずとも近所の人なら知っている、景に溶けた電灯の、オレンジが照らすほつれた暖簾。「えんむすび」と書かれたその隙間から、天へ昇る炭火の煙が薫りだかい。
ヨークシャーテリアも通り過ぎざま、鼻をフンフン、足をフラフラ。飼い主が思い切りリードを引けば、その腕に引っ掛けたスーパーの袋も揺れて、鳴いて、葱が飛び出す。
そろそろ夕飯時、この辺りにも中心部へ勤めている人が戻り始める頃だ。帰りの電車一番乗りの第一陣が、駅からこの川沿いの通りへと列をなしてやって来る。見慣れた橙の揺らめきには目もくれず、そのほとんどが家路を急いだ。夕日を受ける横顔はどれも、一日を終え程良い疲労をたたえ、晩酌への期待を膨らませて。
中でも、先陣を切ってピンヒールを掻き鳴らすこの人は、まだまだ元気を残している。これからが今日のはじまりだとでも言わんばかりに。
「おっつー!」
バシュッと勢い良く暖簾を払い上げると、必要最小限に背を落としてくぐる。起き上がらないうちからストールを引き、派手な色のコートから腕を抜くと、ウェーブがかった茶色の長い髪を、ふわり。ノンストップでレジ内側のクロークへ、慣れた手つきだ。
「お疲れ、暁奈ちゃん。ひとり?」
炭火を起こし終わり、客もいないのに鳥もも串を焼いていた店主は、笑みを見せつつ冷蔵庫からはつを三本取り出した。
「いや、電車が一緒になったみたいでさ…あれ?」
暁奈と呼ばれた彼女はきょとんとする。自分のすぐ後について来ていると思ったが、奥へと歩きながら暖簾のほうを振り返っても、誰もいない。
「おっかしーなー?」
と言いつつも一度も立ち止まることはなく、バックヤード手前の冷蔵庫から作り置きの小鉢を二つ、手に取る。甲高いピンヒールの音は、最奥の四人がけの席で止まった。
その様子を横顔で感じながら、店主ははつを網の上に乗せると、再び冷蔵庫へ向かう。
「ただいまっ…」
息を弾ませ、暖簾が短い髪を撫でまわすのも気にしない。今、店に足を踏み入れたこの彼女が、暁奈に置いてきぼりをくらったその人だ。
「おそーい!どっか寄るなら声かけてくれれば良かったのにー」
きんぴらごぼうを噛みしめながら、暁奈が分かりやすく不満の声を投げつける。
「寄ってませんよ!暁奈さんが歩くの早過ぎるんです!」
この季節には少し早めの厚手のコートを脱ぎながら、反論する彼女は眼鏡の左端を摘まんでぐいっと押しやった。やはりレジ内側のコートハンガーへ掛けていく。
「よくそんなヒールで、あれだけすたすたごぼう抜きできますね…」
感嘆と呆れと半々だ。
店主は網にねぎまを並べ終え、ドリンクカウンターへ入っていた。二つのジョッキを左手で握り、サーバーにあてがい傾けると、ビールを一度に注ぎ始める。そのまま一通りの頃合いを見て、やっと彼女へ声をかけた。
「お帰り美乃梨ちゃん。今日は学校から直で?」
「ただいま、兼行さん。はい、ゼミの調べものをしてて…」
答える美乃梨は、暁奈の向かいに腰を下ろそうとしたところで、彼女がひじきの小鉢に狙いをすましているのを見咎めた。
「静かだと思ったらっ、これは私のでしょっ」
サッと小鉢を奪還し、割り箸に手を伸ばす。
「いーじゃない、ちょっとくらい。この差が夏に響くのよ?」
もう少しのところだったのに。獲物をくすね損ねた暁奈は、箸の先をかつかつ、開いたり閉じたり。
「あいにく夏は過ぎました!ていうか大きなお世話です!」
その七分袖のきれいめのカットソーから出るすらりとした腕と、割り箸を持つ華奢な指先までをちらっと見やれば、美乃梨はなんとも言えない表情になる。
「ほい、まあ今日もお疲れさん」
そこへ仲裁に入ったのはキンキンに冷えたビールだった。片手で二つ、ジョッキをごとんとテーブルに置くと、兼行は半身翻す。カウンター席に準備しておいた枝豆もひょいと取って、おまけに添えた。
「暁奈ちゃんは食べても太らないんだもんなー、そりゃ美乃梨ちゃんも怒るよ」
そう言って彼はからっと笑うが、美乃梨は余計に納得がいかない。
「なんでよ、店長ー?私悪いことしてないじゃん」
暁奈は調理場に戻る背中に文句を放つと、そのジョッキのひとつを掴む。置かれたままの美乃梨の分に強めにガチンとぶつけてやった。手荒な乾杯のせいであぶれた泡を滴らせ、豪快に飲み下しながらもう一方の手は枝豆へと伸ばされる。
むすっとした顔をため息で流し、美乃梨も少し嵩の減ったジョッキを持ち上げた。ちびちびと、でも一息で半分まで行くと、ひじきを一口でしゃくしゃく。
「暁奈さんのような人には、私みたいに普通の女の子の気持ちなんて解んないんです」
「とりあえず、ビールは太るよ?」
「…」
無情な返しに声なき声が漏れてしまう。美乃梨はゆっくりこうべを垂れた後、残りを飲み干し、また同じようにため息をつくのだった。
「帰り、桃矢くんには会わなかったの?」
早くも数杯目のおかわりになる。冷やしたジョッキにビールを注ぎながら、兼行はちらっと彼女たちに目をやった。
「あー!寄ってきたよ!」
それに応えたのは暁奈だ。
「なんか暇そうに靴並べてたから、いつ帰ってくんのか聞いたら、六時半にはあがるって」
「いつの間に、バイト先寄ってたんですか…」
そう呟く美乃梨はどうやら、電車は一緒でも改札を通る頃にはすでに見失っていたらしい。
それを聞くと、兼行は時計を確認、少し慌てた様子で小鍋に水を入れ火にかけた。美乃梨はのろのろと立ち上がると、彼がカウンターに置きっぱなしたビールを持ち、再びちびちび飲みながら席へと帰る。
「そー言やさぁ、そこ、誰か入るの?」
暁奈は背中側の格子の向こうを親指で指しながら、調理場へ視線を投げた。
「開かずのドア、開けられるようになってんじゃん?」
小鉢を入れておく冷蔵庫の横にはバックヤードへと続くドアがあるが、実は奥にもうひとつドアがあり、その先は住居スペースになっている。昨日まで食器棚がそこを塞いでいたのだが、やけに広く感じると思ったら、棚は撤去され、ドアがきちんと出現していたのだ。
「えっ?…あ、本当だ!広くなってる」
ジョッキを手にしたまま、美乃梨は急に横へ身を乗り出す。焼き上がった串を持って来た兼行の腕に、軽く乾杯を食らわせた。
「ああ。入って…来たんだよ、もうね」
皿を卓に置くと、兼行も奥のそのドアに目を向けた。
「奥さんたちと、ここに住むの?」
「いや、さすがに年頃の娘に犬もいるしな、俺たちは今の家を出る気はないよ」
「じゃあ誰が…?」
三人でドアに注目していると、暖簾が勢い良く翻った。大きくひととび、敷居を跨ぐ人がまた一人。
「お疲れー!腹減ったー!」
急ブレーキをかけ、彼はスポーツバッグを頭から外してレジ裏へと放り込む。
「おう、お帰り桃矢くん、っといけね、卵…」
思い出したように兼行は調理場へ戻っていく。
「おつー」
「お疲れ」
桃矢と呼ばれた彼は、ジャンパーを背もたれに投げるように置くと、美乃梨の横にどっかと落ち着いた。その反動で落ちたジャンパーを掛け直しつつ、美乃梨はカウンターへと向かう。
「ねねねね、とーやくん!」
入れ違いに暁奈は小鉢片手に戻って来て、早速今晩のネタを彼に吹き込み始めた。
「店、なんか変わったところがあると思わない?」
小鉢を置く手ですぐさまジョッキを取りながら、腰かけた彼女は彼のことを下から挑戦的に覗き見る。
「何が?」
だが桃矢は割り箸をキレイに割るのに夢中で、さして興味は無さげだ。暁奈は分かっていたけどという反応を示しつつも、もう一押し。
「何がじゃなくて!考えてみなよ」
一方、カウンターから身を乗り出すようにしてビールを注いだ美乃梨は、そこに唇を寄せかけて、違う違うと首を振る。席で待つ彼へ、最初の一杯を手渡した。
「無駄ですよ、桃矢にそれを言っても」
完敗といった表情で歪な箸をそっと置くと、桃矢は受け取ったジョッキを目線の高さに持って行く。とりあえず三人は流れでコツンと儀式を終えた。
「で?何が変わったの?」
「すぐそうやって答えを求めるうー」
「はいはい、過程が大事なんでしょ?オレそれ聞き飽きたよー」
「勉強するのが面倒で私立一本にしたってくらいですからね、暁奈さんの世代とは分かり合えないと思います」
世代という妙ちくりんな壁を張られたところで、暁奈はやはり腑に落ちない。残りを一息に流し込むと、空のジョッキ越しにじとっと睨む。
「やればできる子なんでしょ?」
「今はやる時じゃ無いのー」
「はいはい、あたしもそれ、聞き飽きましたー」
そんな暁奈と桃矢たちとの間に、温玉サラダが割って入った。
「もうすぐ挨拶させるから、その辺で」
兼行は見事な営業スマイルで場をおさめると、提供を終えた帰りの手で憮然としたままの暁奈からジョッキを受け取り、引き返す。
「挨拶?誰が?誰に?」
「大人しく待ってましょうね。ほら、温玉崩すよ」
「だめ、オレの!」
素早く横に逃げるサラダボウル、空を切る箸。
「追加のご注文はー?」
少し火の通り過ぎたもも串を頬張りながら、焼き場からはやや大きめの暇アピール。すると店内には、口々にオーダーが飛び交うのだった。
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