幕間 二千年来の皇都にて

暗雲の向かう先は〈前編〉


 西暦紀元前660年・皇紀元年。

 初代旭皇たる〈神武じんむ旭皇きょくこう〉が、大日本皇國を草創そうそうした年である。

 後に平桜京へいおうきょうとなる地の南西にそびえる〈崇旭山すうぎょくざん〉に天照大神の天孫たる瓊瓊杵尊ニニギノミコトが降臨した、通称〈天孫降臨てんそうこうりん〉から数十年後の出来事であった。


 ……それから2513年もの時が経ち。

 皇都と天鷹原幕府に分かたれてしまったとはいえ、日本はアジア初となる議会制民主主義・立憲君主制国家となり、あらゆる面での近代化に成功した。

 

 その首都たる皇京市(旧平桜京)も、皇國が建国されてから実に二千年来の伝統を持つ格式高き都である。


 けして大英帝国王都たる〈霧隠きりがくれの都〉ロンドンのように、世界に冠たる強大な工業力と経済規模を誇るわけではなく。

 けして教皇領きょうこうりょう首都たる〈永遠の都〉ローマのように、かつて世界帝国の帝都として君臨していたというような栄光ある歴史を歩んだわけではなく。

 けしてオーストリア帝国帝都たる〈音楽の都〉ウィーンのように、芸術を愛し、文化的に優れた人々を多く輩出したわけでもない。


 だが皇國の民、すなわち日本人の精神の依り代となり、けして何者にも操られることなく、姿を変えることなく保たれてきた〈旭皇〉という存在。

 その御姿が在らせられる〈皇都〉である皇京市はそれだけで、諸外国のどれだけ素晴らしい都であろうとも見劣りする程の風格を備えている。

 少なくとも此処に列席する者達は皆、同じ思いであろう……。



 西暦1853年 皇紀2513年 明応7年4月1日 午前10時頃

 大日本皇國 〈皇都〉皇京 皇京市 内閣総理大臣官邸


 皇國議会が開かれる〈皇國こうこく議会ぎかい議事ぎじどう〉にほど近い洋風の建造物。

 内閣総理大臣官邸。通称〈首相しゅしょう官邸かんてい〉のとある一室にて。


「それでは、これより〈御前会議ごぜんかいぎ〉を始めたいと思う」


『はっ』


 その部屋の最奥さいおうに座る男。彼の言葉に、一糸も乱れず返答するのは洋装の男達。

 

 内閣総理大臣・副総理大臣。内務大臣。外務大臣。大蔵大臣。陸軍大臣。海軍大臣。司法大臣。文部大臣。農林大臣。商工大臣。逓信ていしん大臣。枢密院すうみついん議長。枢密すうみつ顧問こもんかん25名。宮内くない大臣。陸軍参謀総長・次長。海軍軍令部総長・次長。


 こうして列挙した官職を兼任している者もおり、特に閣僚の殆どは枢密顧問官と兼任の為、実際にこの場にいるのは30名ほど。

 そのようなことはともかくとして、現在の皇國の政治・軍事的中枢を担う者達が一同この洋間に集い、列席しているのである。

 そして彼らはみな、最奥の男の方に顔を向け毅然きぜんとした表情を保っていた。


「早速ではあるが、本題に移る。

 外務大臣、〈大中華国だいちゅうかこく〉との外交状況について報告を求む」


 最奥の男……第121代旭皇〈明応めいおう旭皇きょくこう〉は、再びその口を開く。その声音は一聞する限りでは優しいが、奥深くには力強さが秘められていた。

 西暦1846年・皇紀2506年に15歳の若さで即位した彼は、現在も22歳。その若さから未だ青年のように初々しい風貌ではあるが、彼が持つ気品や風格は旭皇の名に恥じない立派なものとなっている。


「はっ。報告いたします。先月の御前会議以降、我々皇國外務省は大中華国との対話協調を念頭に外交努力を行ってまいりました。

 具体的に申し上げますと、先月の14日に〈冴島さえじま政光まさみつ〉を特命全権大使とする我が国の外交団がざい北京ペキン大使館にて、大中華国側の外交団との対談を行いました。しかし、の国の礼部れいぶ尚書しょうしょ宗棠そうとう〉は我が国との和平及び協調を拒絶。冴島全権大使は中国ちゅうごく大総統だいそうとうりゅう黄明おうめい〉からの書状を受け取ったとのことです。

 書状の内容を抜粋いたしますと、

 『貴国は古来より続いてきた東アジア地域における伝統的国際秩序を害する存在である。よって我が国に服属を行わない場合、貴国を〈夷狄いてき〉とみなし、大中華の名の下に〈征伐せいばつ〉を行う』……と」


「なっ……」

「何と無礼な……」

「中国は我々を敵としか認識していないのか……」

 

 皇國外務省の長・外務大臣〈南条なんじょう清春きよはる〉の報告に、御前会議に列席する全ての者の表情が強張り、少しずつ波紋の広がるが如くざわめきが支配していく。

 そして、さざ波のように絶え間なく続くどよめきを、憤怒を伴う大声を以て破ったのは陸軍大臣〈篠原しのはら龍太郎りゅうたろう〉であった。


支那シナ毛唐けとうどもめ! 我らが国際秩序を害しているだと!? 馬鹿を言え! 

 奴ら、清朝を倒してなお華夷かい秩序ちつじょの守護者を名乗るか! 奴らを近代国家と見ていた我らの眼が狂っていたとでも言うのか……ッ! 

 ……旭皇陛下、恐れながらも奏上そうじょういたします。今後の大中華国との外交関係改善の展望は絶望的であり、ただちに対中戦の防衛計画細案を策定すべきである、と」


 そう声高々に、血気盛んに叫ぶ篠原陸軍大臣であったが、進言の内容は極めて消極的なものであった。


 対中戦の計画細案の策定。


 現状として、八咫ヶ崎・北館・須南浦以外の都市で周辺海域と隣接しない皇國にとって、大中華国に対する、すなわち外洋遠征など言語道断であった。皇國海軍はあくまで、領海を侵犯した敵国艦隊を迎撃する為に在るわけだ。

 仮に、大中華国が近年急速的に配備を進めている〈北洋ほくよう艦隊かんたい〉を皇國海軍の艦隊が日本海にほんかいまたは黄海こうかい洋上で撃滅したとしても、次に打つ手は存在せず。

 大中華国の本領は、その卓越した陸軍力。選抜された精鋭とはいえ、絶対数の少ない皇國陸軍が中国大陸に上陸したとしても、徴募兵ちょうぼへいばかりではあるが数が多く、更に地の利を持つ中国陸軍に適うはずがない。

 何より魁魔から人々を護る為に、皇都には相応の駐屯兵力が必要であり、それらを除いた上での自衛的侵略戦争など不可能なのである。

 それに、中国大陸への進出を画策する大英帝国・スペイン・フランスといった欧州列強が皇國の軍事行動を見過ごすはずもない。

 皇國がいくら近代化を進めていたとしても、列強からはたかが極東アジアの小さな島国としか認識されていないのである。

 閣僚である前に皇國陸軍大将として、皇國の現状とその軍事力を正しく理解し、分析できていた篠原は極めて冷静であった。


「……私も、篠原陸軍大臣の意見に賛成いたします」


 そう発言したのは内務大臣〈長谷川はせがわ高通たかみち〉である。


「第一に、大中華国は我々と比べ、圧倒的な軍事力を保有しております。

 加えて、我々は元より清代以前より続いてきた華夷秩序の和から千年近くも外れ、旭皇陛下を中心とした独自の路線を採り続けております。そのような状態の我らを見て、彼らは面白くないのでありましょう。

 帝政を廃し〈総統制そうとうせい〉……すなわち民主的な大統領制を採った大中華国ではありますが、実情はそうではありません。いくら制度などの外面を変えたとしても、人民という内面を変えることはできないからです」


「どういうことかね? 長谷川内務大臣」

 

 質問したのは旭皇ではなく、その左斜め後ろに座る男だった。彼こそが、皇國が採る三権分立の中で行政権を担う内閣府の長。自由憲政党現党首・第12代内閣総理大臣〈栖原さいばら邦彦くにひこ〉であった。

 

「説明させていただきます、総理。ただ、私自身も本職というわけではない為、やや簡易的ではありますが」


「それで構わんよ。少なくとも元文部官僚の私よりは、元〈皇京おうきょう皇國大学こうこくだいがく〉教授の君の方が専門的かつ分かりやすいだろうからな」


 そう優しげな声音で話を促す栖原総理の瞳には、自分より20歳は下である長谷川への期待の色が映っていた。今日こんにち齢64の栖原には、齢39の若く有望な長谷川は次世代の希望のように思え、それだけ重用している存在でもあった。

 そして長谷川は席から立ち上がり、今上きんじょう旭皇へと一礼。それに対し旭皇が柔らかな微笑みを浮かべながら頷くと、彼は教鞭を執るかのように話を始めた。


「ありがとうございます。まあ、私の専攻は経済学なのですが。

 ……さて、まず大中華国が成立した背景には、西暦1840年に起きた清朝=大英帝国間で勃発した〈阿片アヘン戦争せんそう〉があります。華夷秩序に基づいて大英帝国を夷狄、すなわち蛮族とみなし、貿易港を広東カントンだけとして自由貿易を認めていなかった清朝は、欽差きんさ大臣だいじんである〈りん則徐そくじょ〉に阿片の取締り厳格化を命じたことも相まって、大英帝国から怒りを買っていました。大英帝国は清朝から茶を輸入すると共に、依存性の高い麻薬である阿片を輸出することによって、貿易赤字を解消していた為です。

 この辺りの歴史は皆様方、周知であると存じ上げます。重要なのはこの後です」


「……清朝の決定的敗北と〈南京ナンキン条約じょうやく〉か」

 

「その通りです。水瀬海軍大臣」

 

 長谷川の話を円滑化するかのように、間に入ったのは皇國海軍大将・海軍大臣を務める男〈水瀬みなせ従直つぐなお〉である。他の閣僚達もじっと、長谷川の話に耳を傾ける。


「清朝の常備軍である八旗・緑営が、何百年もの安寧によって形骸化していたという事実は、半世紀前に起きた白蓮教徒の乱での対応の遅さから見ても明らかでした。その一方で、阿片戦争は単なる農民叛乱ではなく、歴とした対外戦争であった為に、曲がりなりにも正規軍である彼らが陸海共に英軍と衝突しました。しかし、結果は皆様も伝聞したことがあるでしょう。清朝は二年以上にも及ぶ戦いの末、20万の大兵力を投じたにも関わらず2万弱の大英帝国軍に大敗。

 屈辱の煮え湯を飲まされた挙句、南京ナンキン付近の長江ちょうこうに停泊していた大英帝国の戦列艦せんれつかん〈コーンウォリス〉艦上で行われた講和条約において、多額の賠償金が課され清朝の貿易完全自由化が決定されました。それと並行して、広州こうしゅう福州ふくしゅう廈門アモイ寧波ニンポー上海シャンハイを開港させ、大英帝国は〈香港ホンコンとう〉を手に入れました」


「全く、末期清朝の体たらくといったら酷いものだったな。確か米仏とも同様の条約を結んだのではなかったかな?」 


望厦ぼうか条約じょうやく黄埔こうほ条約じょうやくですね。我々も、清朝の港湾都市での貿易に参入できたら良かったのですが。そうなれば列強諸国との貿易港が増え、更に皇國の経済が活性化する。我らは列強ではないので、無いものねだりではありますが」


 解説に相槌を打ちながら、隣席同士で意見を交わすのは大蔵大臣〈加納かのう慶助けいすけ〉と商工大臣〈高田たかだ直太朗なおたろう〉。

 加納は自由憲政党の重鎮として長年、憲政党政権の中核を担ってきた政治家である。それに対して高田は、一商人から政治家になってまだ閣僚としての経験が浅い為、同郷でもあり彼の後援者でもあった加納と師弟のような関係を築いていた。

 

「……さて。ここからが大中華国建国に関する話となります。阿片戦争での敗北によって不平等条約を結ばされた清朝。しかし、その戦場自体が清朝の帝都〈北京ペキン〉から離れていたこと、歴史上で中華王朝が異民族に敗北することは決して稀ではなかったこと等から、清朝で強い衝撃を受けた人々は限られていました。その為、戦後も清朝はイギリスを〈英夷えいい〉と呼んで蔑み〈華夷かい思想しそう〉を捨てないままでした。

 しかし中にはイギリスを単なる夷狄ではなく、中華王朝という秩序自体を脅かす存在なのだ、と認識し行動する者もいました」


「確か〈げん〉……と言ったかな」


「ええ、ご明察の通りです。大澤文部大臣。

 思想家であった魏源は、親しかった林則徐から彼がイギリスの世界地理書を翻訳して完成させた〈四洲志〉を委託され、更に多くの世界地理資料を集めて1843年に〈海国かいこく図志ずし〉の初版を揚州ようしゅうで出版しました。林則徐は阿片戦争後、敗戦の責を問われて新疆しんきょうのイリへと左遷されていたからです。彼は同書の中で〈夷の長技ちょうぎを師としもって夷を制す〉と述べ、清朝国内における改革の必要性を論じました」


 言葉を挟んだ文部大臣〈大澤おおさわ喬礼たかのり〉を含め、この一室にいる全員が、長谷川のとても経済学専攻とは思えないほど詳細な説明に感服していた。

 勿論、皇國の中枢を担っている彼らが大中華国成立までの経緯を知らなかった等ということではない。だが、それらを順序立てて一切詰まることもなく詳しく説明するというのは、いくら元大学教授と言えども並大抵のことではない。しかもそれを明応旭皇を除いて彼らの子供ほどの年齢の男が行っているという事実に、である。……だからこそと言うべきなのだろう。

 最年少で閣僚入りを果たし、しかも内務省という皇國の内政全般を取り仕切る重大な組織の長に抜擢されたというその実力は、決して紛い物ではない。


「しかし、当時の清朝国内においては華夷思想に起因する〈香港島さえ与えておけば、英夷も満足するであろう〉というような慢心が根強く、魏源が述べた改革の必要性が国内に強く広まることはなかったのです。

 そのような状況の中、一人の若い農民が故郷の浙江せっこうしょう杭州くいしゅう富陽県ふようけんを発って、杭州より北方の魏源の住む江蘇こうそしょう揚州ようしゅうへと赴きました。そう。彼こそが現在の、そして大中華国初代大総統〈劉黄明〉です。

 彼は魏源の元を訪ねると突然、自らがかの有名な三国さんごく演義えんぎに主人公として登場する実在の偉人〈劉備りゅうび〉の末裔まつえいである、と名乗ったと言われています。

 劉備は前漢ぜんかん皇帝こうていである景帝けいていの息子、中山ちゅうざん靖王せいおう劉勝りゅうしょうの子孫にあたり、中国の三国さんごく時代じだいにおいてしょくを建国し戦った人物です。

 真偽はともかくとして、魏源は大変慌てふためいたことでしょう」


「……長谷川大臣。劉黄明の生い立ちについては全く情報が無い。あとは劉黄明の活躍と大中華国の成立について、軽く触れれば良いのではないか? 

 解説してもらっている身で申し訳ないが、若干時間が押している。本日の議題に速やかに移行したいものでね。私の気の短さゆえだ、許せ」


 司法大臣〈江中えなか義竹よしたけ〉は、自らの顎に立派に蓄えた髭を撫でながら左手に持つ懐中時計を見て、そう付け足した。それに対して、長谷川は極めて冷静に応えた。


「ご指摘ありがとうございます。……そうですね、確かに劉黄明の生い立ち、生まれ育ったはずの杭州での逸話などは全く伝わっていません。


 彼の卓越した戦術・戦略眼。

 人々を惹きつけ奮起させる威風と風格。

 人の本質を見抜いて要所に置くことができる慧眼けいがん


 それらがどのようにして、育まれていったのかも。一切が闇の中です。

 ……さて、彼は何時間もの対話の末に魏源と意気投合。共に偉大で新たなる中華、すなわち〈だい中華ちゅうか〉を創ることを決意します。

 魏源は劉備の末裔云々よりも、彼の熱き決意の前に驚嘆したと言われています。国内の改革ではなく、清朝をして新たに素晴らしき中華をつくるという誰も考え付いたことのないような大望たいもうに。

 一介の農民であるはずの劉黄明が何故、官職を持つ魏源と対面することができたのかという点すらも謎ではありますが」


 謎に包まれた男、劉黄明。

 しかしその後に彼が起こした出来事は、誰しもが理解している。

 その出来事の名を、閣僚席の末端に陣取る逓信大臣〈内藤ないとう武雄たけお〉は緊張感を纏いながらも口に出した。


「……そして起こったのが〈大中華だいちゅうか革命軍かくめいぐんの蜂起〉と〈香港ホンコン奪還だっかん〉。それが最終的に〈清朝しんちょう滅亡めつぼう〉と〈大中華国の建国〉に繋がるわけですか」

 

「はい。時は西暦1844年の5月。

 杭州と揚州にて〈大中華革命軍〉と称した農民叛乱軍が武装蜂起。農民といっても正確には、各州の郷紳きょうしんなどの有力者達が独自に編成し鍛錬を行った郷勇きょうゆうが大多数を占めており、火器すらも所有していました。

 魏源や彼の私的な友人、劉黄明の思想に共感した士大夫したいふ達からの資金・物資的支援を受けつつ、革命軍は州のみならず浙江省・江蘇省を占領。

 最初は全て合わせても1000人強しかいなかった革命軍は、その破竹の勢いに弱腰になって降伏した八旗・緑営を漢族かんぞく満州族まんしゅうぞく蒙古族モンゴルぞくなどの区別無く吸収し、郷勇の追加入隊も相まって1万以上へと急成長を遂げました。

 この動きに対して、清朝だけではもはや対抗できないと考えた大英帝国は、南京条約によって奪取した香港島を戦火から守る為に、陸軍を派兵。ただ大英帝国は阿片戦争から間もない頃だった為、香港島への入植すら間に合っておらず5000程度の軍しか派兵することは叶いませんでした。しかし、大英帝国軍の兵士は阿片戦争における清朝八旗・緑営のあまりの弱さを知っている者が大多数であり、数が多少劣っていたとしても大勝できるという慢心がありました。

 ……そんな予想を覆し、大中華革命軍は劉黄明の英雄的指導によって、大英帝国軍と交戦する前に上海や山東さんとう安徽あんき江西こうせい福建ふっけん省を奪取し、更なる軍の増強を行いました。その際、革命軍は極めて統率が取れており、略奪や強姦を一切行いませんでした。劉黄明の才覚は此処でも発揮されていたということです。

 さて、その後も増長を続けた革命軍は同年10月、遂に広東カントンしょう梅州ばいしゅう近郊で大英帝国軍と交戦。革命軍は2万弱の軍勢で攻勢を開始し、なんと大英帝国軍の7割以上を撃破。更には広東の中心都市・広州こうしゅうを占領し、その時には大英帝国軍は完全に瓦解がかい。革命軍は香港島まで迫りました」


「まさに戦神だな……。〈東洋のナポレオン〉と言われるだけのことはある。

 大英帝国軍を打ち破ったという、彼の戦法や戦術・軍事改革についても気になるところだが、なるべく早く説明を続けてくれ。江中大臣の言うように、我々にはあまり時間が無いものでな。すまないね」


「いえ、私の要領が悪いのですから謝られる必要はありません。

 では解説を続行させていただきます」


 栖原に対してそう自嘲しつつも、テキパキと的確に受け答えを行う長谷川はようやく話の核心へと迫っていく。


「劉黄明を始めとする指導者達への民衆の熱狂的支持を取り付けることに成功し、更に勢力を伸ばしていた革命軍は香港総攻撃を画策。

 しかしその直前になって、戦況悪化と清朝の弱体化という現実を鑑みて、大英帝国王室は革命軍との和平を打診。中国の正統政府は清朝ではなく革命軍である、と劉黄明政権を支持。革命軍は総攻撃を取り止め、大英帝国の大陸における貿易・国交の保護や艦隊の寄港許可と引き換えに、不平等条約の撤廃に加えて香港島を返還させることに成功。数年で失地奪還を成し遂げた革命軍に対する風評は更に良いものとなり、大中華革命軍は華南かなん華中かちゅうを完全に抑えるまでに成長。

 遂に華北かほく地域、すなわち大清帝国の帝都〈北京ペキン〉への進撃を敢行します。それが西暦1845年の4月の出来事です。

 その時には総兵力は10万を優に超え、華北を次々と占領。そして一か月後には愛新覚羅アイシンギョロ旻寧みんねい、すなわち大清帝国第8代皇帝〈道光帝どうこうてい〉の住まう帝城〈紫禁しきんじょう〉を包囲。道光帝とその一族が投降し、清朝は倒れました。これまでの一連の出来事は、その年の干支から〈乙巳いっし革命かくめい〉と呼ばれています。

 そして、江蘇省の中心都市・南京を首都として建国されたのが〈大中華国〉。

 劉黄明を総統として精強な陸軍を有し、漢族・満州族・蒙古族などの人種の差異を超越し〈だい中華ちゅうか思想しそう〉の下で一つとなった、アジアの大いなる新興国です」


「ここまで君に語ってもらったわけだが……、改めて振り返るととんでもないことだな。1000人強しかいなかった軍勢がたった一年で、いくら無力化していたとはいえ大国の並みいる兵をことごとく打ち滅ぼし、遂には煮え湯を飲まされ続けた西洋の軍隊を押し退け、国家まで打ち立ててしまった。

 つい10年ほど前の話だというのに、遥か昔の御伽噺おとぎばなし英雄譚えいゆうたんを聞いているような気分になる。

 ……して、先程の『いくら制度などの外面を変えたとしても、人民という内面を変えることはできない』とはどういうことなのだね?」


「はい。あともう少しだけ説明させていただきます、総理。

 先程述べたように、大中華国は大中華思想の下で一つに纏まりました。しかし、それはけして平和的なものではなく、常に敵を必要とするものでした。無駄な血を流すことなく人々を纏め上げ、安寧から闘争へと社会全体を変革させる為には〈旧秩序の保護〉と〈新体制の導入〉の均衡を保つ必要があったからです。自らを劉備の末裔と名乗って人心じんしんの掌握を急速化させた劉黄明は、その代わりに〈劉黄明という存在の神格化しんかくか〉を望む声を無視できなくなったことも、それに関係しています。

 結果的に、大英帝国やフランス・我ら皇國等との貿易維持・国交樹立を成功させたり、ナポレオンの〈大陸軍グランダルメ〉を参考にした〈大中華だいちゅうか国軍こくぐん〉の設立に伴う徴兵制の施行、共和制への移行と有能な人物の積極的な登用などを行いました。

 その一方で劉黄明は当初考えていた、普通選挙による総統の選出を断念。自らの絶対化を推し進め、民衆の熱狂がそれを後押し。華夷思想とはまた違い、ただ夷狄を蔑んで朝貢を迫るのではなく、逆にその技術や法制度を吸収して服属を不当に求め、4億を超える人民の力で夷狄を征伐する……一種の傲慢な〈帝国ていこく主義しゅぎ〉で統一された独裁国家が、大中華国の現実なのです」


 そこまで言い終えた長谷川は「これで以上です」と告げた後、再び着席した。

 御前会議が行われるこの一室には、緊張という名の暗雲が立ち込めていた。大中華国との和平がそもそも為されるはずがない、ということが証明されたも同然だったからである。しかもその完璧な説明に、誰も反論の余地は無い。


「……長い間、説明ご苦労であった。長谷川内務大臣。

 さて、長谷川大臣の話を聞く限りでは、これからの大中華国との外交関係は少なくとも良くなることは無いだろう。異論はあるか?」


 明応旭皇の言葉に、応答できる者はいなかった。


「よろしい。では、これより大中華国と開戦した際の防衛計画の概要について、軍部大臣らから説明してもらうこととしよう」


『はっ』


 旭皇の言葉に対し、まるで待っていたとばかりに篠原陸軍大臣や水瀬海軍大臣、陸軍参謀総長・次長、海軍軍令部総長・次長の計6名は立ち上がる。この一室に集う25名ほどの人間の視線が彼らの方に、向けられる。


「旭皇陛下の命により、恐れながらも我々が説明させていただきます」


 そして最初に口を開いたのは、30分ほど前に激昂げきこうしていたのが嘘のように冷静沈着に毅然とした篠原龍太郎であった。

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