phase2「最後のセプテット・スター」

  暗い部屋の中、立体映像の光だけが、淡く輝いている。


 成功する確率は? この疑惑は、拭い去ることが出来る。何度もシミュレーションを重ねた。


 気にかかった箇所は、たとえどれほど微少なものであったとしても、完全に払拭するほど徹底に徹底を重ねた。


 結果、希望的な数値を確率として算出することが出来るまでになった。を盗み出す算段は完璧といえた。


 では、その後は? 逃亡できる確率は?


 何度計算を重ねても、シミュレーションを重ねても、絶望的な数値が覆ることはなかった。それも予想の範疇だった。


 何せ敵に回すものがあまりにも大きすぎる。普通ならまず絶対に、ダークマターを敵に回すことなど考えない。


 だが、やるしかない。やらなくてはいけないのだ。


 一度出した結論を改めて確認しながら、ハルは目の前に浮かび上がっている何枚ものホログラム映像のキーボードを叩いていた。

 それらの映像群の少し上辺りに、何も表示されていない画面が一枚、ぽつんと浮いている。


 ハルがキーボードを叩くと、文字や数字の羅列がそこに反映されていっていた。


 その羅列は長かった。人間が見たら、終わりがないのでは、と感じるのではないかと考える程、このタイピングは時間を伴い、果てが無かった。


 ハルの正確かつ迅速なタイプでも時間がかかった。だが、これも計算の内から少しも外れてはいなかった。


 薄暗い室内には、ずっとキーボードを叩く音だけが響いていた。それがある瞬間が訪れた時、やんだ。キーボードとは別の、ピッという一瞬の甲高い音が、立体映像から流れたからだ。


 瞬間、ハルの打ち込んだ不規則な文字や数字が、まるで意思を持っているかのように動き出した。


 忙しなくくっついたり離れたりを繰り返しながら、文字や数字がその形を失っていき、やがて一つの形に纏まっていく。


 ハルは四角い立体映像を抱くようにして、両腕を伸ばした。

 その瞬間、映像に映っていた先程まで文字や数字の形をしていたものが、ぷつんと消えた。一呼吸遅れて立体映像も、ふっと消えた。


 代わりに、腕の中にあるものが存在していた。ハルはそれを見ながら、言った。


「これが──mind」








 肌のひりつくような緊張が、この場に満ちていく。胃が締め付けられる感覚を抱き、美月は思わず腕の中にいるシロを抱きしめた。


 だが緊張は全く和らぐことなく、むしろじわじわと増していっているように思う。


 生まれてから今までで一度も、こんなに人から威圧を感じたことなど無いし、ここまでの威圧感を放つ相手と対峙したことも無い。


 この人は、他の敵とは違う。自分も、穹も未來も動けず、何も言えなくなっていることが、何よりの証拠となっている。


 その人物の、言葉という言葉を奪わせる程の突き刺さるような鋭利な目が、ハルを射通していた。


「状況を分析してみろ、ハル。貴様の得意分野だろう」

「……」


 ハルはしばらくの間何も言わずに、サターンのことを見上げていた。

 この鋭い視線から逃げずにじっと見続けることができるなど、やはりハルはロボットなのだと感じた。


「山に近づく前……車が襲ってくる前に状況の詳細を把握し、分析していればこの事態は回避できていた可能性が高い。

山についた時点で、こちら側の行動はコントロール下に置かれていたも同然。持っているコンピューターのほうも私のほうも感知系統が電波ジャックされて使えなくなり、その状態で仲間、今回の場合はシロを攫われたら、後を追うしかなくなる。抵抗も難しく、誘導に従う以外に道が存在しなくなった。

この檻は……そうだな。ここに来る直前の道が非常に狭く荒かったから、恐らくそこに転がっていた石か何かを踏むと、起動する仕組みになっているとみられる。

そして私以外がここを通っても発動せず、私が通るとセンサーが作動しこのように動き出すのだろう。しかもこの檻は、ただの檻ではなく……」


 話している途中で、ふいにサターンがディスクのようなものを取り出した。


 なんだろうと目を凝らした直後、そのディスクの上に、四角い立体映像が浮かび上がった。


 空の様子から、まだ日の明け切らない早朝時を映した映像のようだった。


 どこか見覚えのある道路や建物の並びから、それが学校の防犯カメラから映した映像だと理解した。ハルの言ったとおり、本当に映像をジャックしていたのだ。


 サターンがホログラム映像を横にスライドすると、映している映像の向きが変わった。


 道路の向こう側から、歩いてくる人影が現れた。その正体はハルだった。後を追いかけるクラーレも映り込んだ。


『待てって! どこ行くんだよ!』

『パルサーを探しに向かう準備をしに行く。帰りは遅くなる』


 クラーレが腕を掴んで引き留めても、ハルは強引に足を進めようとしている。

 攻防を続ける二人の後方から、『お待ち下さい!』とアイが走り寄ってきた。


『一人は大変に危険です、わたし達も一緒に向かいます!』

『ココロとシロも連れてくるから待ってろ!』


 クラーレが慌ただしく元来た道を引き返していったところで、映像が消えた。


「今日撮影されたこの映像を見て、しばらくこの場所には戻ってこないと判断した。

本来ならこの作戦は、不在を確認した上で行っていたシミュレーションだった。本番とするつもりはなかった。

本番では、更に計画の穴を埋め準備も周到にしておき、人材も確保し、規模も大きなものになる手筈だった。

……しかし、シミュレートの途中で戻ってくるのは予想外だった。だがそれ以上だったのは、ここまで上手く事が運んだこの状況だ。逆に想定していなかった」


 ディスクをしまったサターンは、それでものを切れるのではないかと思う程鋭い視線が、ハルを見下ろした。


「隙がありすぎるぞ、ハル。……ここまで我らダークマターを手間取らせた割には、随分と落ちたものだな」

「…………」


 ハルは応じず、ただ黙って下を向いた。その姿を見て思ったのは、なぜ何も言い返さないのだろう、だった。


「ネプチューンの宇宙船に記録されていた音声データから知った。地球人や流れ着いた宇宙人だけでは飽き足らず、プルートまでをもかどわかすとはな。

……この知らせを受けたとき、改めて、自分の中で一つの考えが決定的なものとなった。最早俺自身が向かうしかないと。ハルという存在は、早急に抹消するべき宇宙の癌なのだと」


 ぷつん、と。その台詞が耳に入った時、自分の中で、何かが切れる音が響いた。


「ちょ、ちょっと、さあ……」


 小さく声を出すと、深く鋭い目がこちらを向いた。それだけで心臓を貫かれたように感じ、思わず顔が下を向きそうになる。


 だが、怯みはしない。正確には怯みそうになっているが、そんなものに負けたくないと、自分の心が言っている。


 息を吐き出すと同時に、勢いよくサターンを見上げた。


「私の大事な友達に向かって! 好き勝手言っちゃってなんなの?! 滅茶滅茶頭に来たんだけどっ!」


 最初の一声を出してしまえば、思いのほかあっさりと声を荒らげる事が出来た。

 こちらを捉えたサターンの目線が、わずかに見開かれた。


「お前は……」

「ミヅキ、いいから」


 横からの静かで無機質な声にも、またもう一回ぷつんと何かが千切れた。

 ずっと言わされっぱなしのハルに「いいわけないっ!!」と振り返りながら、檻に向かって詰め寄っていく。


「ハルッ、こんなわけのわからない人の言うことなんか聞いちゃ駄目だから! こんな檻なんかに、ハルが入れられてていいわけがない!  私が今すぐぶっ壊すから!!」

「触るなミヅキ!」


 檻を掴もうと伸ばした手の指先が、ほんのわずかに檻に触れた。その刹那。


 手先から脳天にかけて、貫くような痛みが駆け抜けていった。

 突如襲ってきた衝撃に、気がついたら大きく後ずさっていた。指先はびりびりと痺れており、腕全体が震えていた。


 小刻みに痙攣する手を、呆然と見つめる以外出来なかった。


「この檻はただの檻ではなく、発電装置の一種だ。……檻全体に電流が生成され、流れている。触ると、非常に危険だ。近づいてはいけない」


 檻の内側から語られる話を聞いていくうち、腕だけでなく体全体も震えてきた。


 痺れは関係無い。怒りと恐れ、そして「だからどうした」という気持ちからだった。


 まだ痛みの残る手を、強引に握りしめる。


「だから、絶対に触ってはいけない」

「知らないし!!」


 何もかも一蹴するつもりで大声を出す。

 素の状態で触れないなら、変身状態なら大丈夫なはずだ。即座にコスモパッドに人差し指を押し当て、息を吸い込む。


「コスモパ」

「美月っ!!」


 未來が血相を変えて地面を蹴った。え、と振り向いた瞬間だった。


 足下を何かが駆けていった。風のようだと思ったが、それにしては妙に堅く、冷たい気がした。


 頭を回す前に、自分の体は大きく前に傾いた。はっと気がついた時には、地面に両膝をつけていた。


 突然座り込んだ自分の体に動揺しながら、それでもとにかく立ち上がろうとした。

 だが、出来なかった。足が、全く動かなかった。


「姉ちゃん!」


 わけのわからぬまま顔を上げ後ろを向くと、こちらへ走ってくる穹と目が合った。


「待って穹君!」


 未來の叫び声がしたと同時に、かくんと穹がよろめいた。両手をついて倒れ、美月と同じように起き上がろうと藻掻いても、立ち上がれなくなっていた。


 唐突な嫌な予感に呼ばれて、美月は振り返り崖の上を仰ぎ見た。


 サターンが、両手に何かを持っていた。それは剣だった。柄同士の先がくっつけられた二本の剣が、前へと突き出される。


 瞬間、刀身に紫色の光が集まった。同時に、二つの剣から、それぞれ輪っかのような形をした光が飛び出した。


 光を目で追う前に、未來の悲鳴がした。見ると、穹の元に駆け寄ろうとしていた未來が、美月と穹と同じように、転び倒れていた。


 自分の足を確認すると、両方の足首に、見慣れない紫色の輪っかが嵌められていた。


 そこで、足の感覚が一切消えていることに気づいた。力を入れたくても入れられず、触ってみても他人のそれに触れているようだった。


 自分の足が、全く使い物にならなくなっていた。


「それは外れない。変身を行っても、だ」


 冷酷な声が降ってくる。

 無感情な声はハルのを普段から聞いて慣れているはずなのに、なぜこんなに冷たく感じるのだろうか。


「動ける者はいなくなったな」


 サターンの感情の無い瞳が、ゆっくりと周りを見渡した。

 美月も、見たくはなかったが、周囲を見た。


 ハルは身動きできない。穹も未來も自分も立つことすらままならない。ずっと抱えているシロは、身じろぎ一つしない程、深い眠りについている。


 場に広がっていたのは、そういう光景だった。


「二名程足りないようだが、大方その辺りに隠れているのだろう。……だがどういう動きをしても、カメラは至る所に仕掛けられてある。行動は全て把握されていると思え」


 振り返り、この場所へ登ってきた坂道を見る。


 その辺りと指し示した岩を注視したが、クラーレとアイの気配は感じられない。けれどもそれは、自分が鈍いせいであるからだろう。


 気配や第六感に非常に鋭い未來が岩の方をじっと見ながら、悔しそうに苦しそうに、表情を歪めていた。


「途中、不自然な形で二手に分かれさせていたが……はっきり言って無意味だ。戦闘員として非力極まりない二人を逃がしたところで、この現状は打破できない。そもそも、バリアが張り巡らされている事実を忘れてはいまいな?」


 喉が掴まれたようにして、息を飲むとき不自然に音が鳴った。


 ここに来るとき見せられたように、山全体を囲むようにしてバリアが張られている。

 もしこの場にいる全員が動ける状態にあったとしても、撤退することは難しかったに違いなかったのだ。


 稲光が走り、のし掛かるように重い灰色の雲の隙間から唸り声が上がる。


「苦肉の策と見られるが、水の泡だったな。──さて。来てもらうぞ、ハル」


 血の通っていないような声が、ハルの名を呼んだ。

 ハルが無言で首を上げた。


「……待ってよ」


 手を伸ばし、その辺りに生えていた草を鷲掴みにする。それを支えにして、まともに動かない下半身を引きずり、体を移動させる。


 近くに木や岩などがあればそれを用いて立てたのかもしれないが、低木一つ見当たらないのだから致し方ない。


「勝手なことは、させない」


 片手にシロもトートバッグも抱えたままでいるので、もう片方の手で這っていくしかない。


 だから時間がかかる。しかしそれが止める理由にはならない。

 突き刺すようなサターンの視線を感じるが、気にする余裕はなかった。


「心にも、ハルにも」


 檻のもとまで辿り着いた。だがこの檻を使って立ち上がることはできない。

 少しでも触れれば電流が流れる。指一本、爪のほんの先が触れただけで、無意識の内に大きく飛び退く衝撃が来る程の、だ。


 檻の細い隙間から、ハルがこちらを見ていた。にっ、と笑い、檻の前へ這っていく。


「絶対に、手出しさせないから!!」


 檻を背に、ハルを庇うように、片腕を広げる。

 蔑むように冷たい色をした紫紺の目を、強く強く見上げた。


「……ミヅ」

「美月と言ったか。そこの厄介者が一番最初に仲間にした地球人」

「厄介者はそっちでしょうが、どう考えたってっ!」

「ふむ。データ通り、確かに自分の心に正直すぎる性格をしている」


 サターンが一歩足を前に出した。何をするつもりなのかと、体が瞬時に硬くなる。


「これもデータに記録されていたな。好きなものは星だと。それは本当か?」


 しかしサターンがしてきたことは、そんな問いかけだった。わけがわからなかったが、体の強ばりを解かないまま、頭を縦に振って頷く。


「それはなぜだ?」

「ほ、星は、凄いし不思議だし、あ、あと綺麗だし……いちいち好きな理由を考えたことなんてないよ!」

「綺麗、か」


 サターンが腕を組み、考え込む時にする仕草のように、片手を顎にやった。


「ならばお前も、AMC計画に賛同の意を示すのではないか?」

「はあ゛っ?!」


 聞き間違いかと耳を疑った。だがそうではないようだった。サターンは灰色の雲が覆い隠す空を指さした。


「星空が綺麗に見える理由。それは、全て同じ形をしているからだ。

同じような色、同じような形、同じような光。統一されているからこそ、美しく見ることができる。

もしこれが全て違う色、違う形、違う光だとしたらどうする? そんな星が夜空に埋め尽くされていたら、だろう。心も、それと同じだ」

「そんなっ!」

「……どうしてだ」


 小さな声が聞こえた。後ろを振り向くと、ハルが静かに面を上げた。


「どうして、そのようなことを……」


 言葉尻はどんどん小さくなっていった。同時に再び俯いたハルに、「わからないだろうな」と冷淡な声が浴びせられる。


「心を持たない貴様には永遠に理解できまい。宇宙ですら終わりがあるというのに、人の心の愚かさは無限だ。心はどこまでだって堕ちていく。心があるから人は悲しみ苦しみ、不幸になる。

だが、何も心そのものを否定はしない。人々の嬉しいや楽しいや幸せを感じるのも心だからな。

だからこその統一だ。星空もそうであるように、全て同じであれば綺麗なまま。

抱く感情も、何かについて考えることも、設定された通りであれば、衝突も諍いも争いも生じずに、秩序の保たれた平安な世界を過ごすことができる」


 軽い頭痛がした。わけわからなくて、ハルがするように、美月は頭の側面に手をやった。そのハルは、俯いたまま、強く両手を握りしめていた。


「心の持つ良い面だけを切り取り、悪い面を完全に排除できる。このAMC計画がそのような本質を持っていると知ったから、俺はこの計画を進めようと決意した」


 サターンの顔はどこまでも無表情なのに、両方の瞳だけが鋭く光っていた。


「どうだ、美月とやら。少しは理解できたか?」

「こんな宇宙一わけのわからない計画をやっちゃおうって考えたあなたは、やっぱり宇宙一わけがわからない人だなーってだけ理解できたねっ!!」

「……なぜ、理解できない?」


 途端に、サターンの目がぞっとするほど冷たく、機械的になった。


「AMC計画よりもその厄介者に、自分の身を危険に晒してまで守るまでの価値が、あるというのか?」

「ハルは厄介者じゃないし、価値とか関係無い!」


 そもそも前提が違うのだ。「いい?!」と人差し指を突き付ける。


「ハルのほうが好き、大切! ハルといると楽しい、幸せ! だから守る! AMC計画やあなた達のことは怖い、わけわからない、本当に腹立つ、とても嫌い! だから戦う! 理由はそれだけ、以上! 終わり!!」


 軽く息を切らしながらサターンの様子を確認すれば、その目の温度がどんどん下がっていくのが見えた。


「やはり、人の心は愚かだな。ハルについている者達がその筆頭だ」

「……それって、要するに、馬鹿ってこと?」


 “愚か”とはどういう意味か。誰がその“愚か”だというのか。

 それらが結びついた瞬間、頭の中で一番大きな音を立てながら、何かが千切れ飛んだ。


 腹の奥底の底から声が出るように。背を丸め、全身に力を入れた。


「皆あああああっ!!!」


 まるで呼ばれたように、遠くで雷が鳴った。


「言われっぱなしのままでいいの?! いいわけないでしょ?! 

気合い入れてーーー!!!」

「ど、どうしたの美月?!」

「な、何、何を」


 後ろを向けば、すっかり混乱状態にある穹と未來と目が合った。

 何をするかなど、一つしか無い。


「立つんだよ!!!」


 え、と二人の顔が強ばり、足に取り付けられた輪っかへと視線が移った。


 そうだ。これのせいで歩けず、そもそも立つことが出来ない。だから動くことが出来ない。


 だからこちらに打つ手はない、何も出来ないと、そう思い込み上から見下ろすサターンダークマターに知らしめたいのだ。


 こちらは何一つ、諦めていないのだと。


 手元の草や土を握りしめ、ありったけの力を両足に込める。


「皆を馬鹿にしたことも、ハルをこけにしたことも、どっちも絶対に許さないんだから! 目に物見せてくれるんだから!!」


 だがどれだけ力を込めても、自分の足はぴくりとも動いてくれなかった。


 正確には、込められないのだ。注ごうとしている“力”が足の付け根の辺りで何かに遮られ阻まれているように、力が行き渡っていかないのだ。


 焦りと悔しさのあまり、強く歯を食いしばってしまう。


「ミヅキ、落ち着きなさい! 頭を冷やすんだ、挑発に乗るな!」


 ハルの強い声がかかるが、聞いていられない。このハルを助けるために、まず立ち上がらなくてはならないのだ。


 片手で足を掴んでも、自分の足を触っている感覚がまるで無い。それでも強引に膝を折り、立つために必要な姿勢を完成させる。


 続けて腰を上げようとするが、細い棒の上に体が乗っているようで、覚束なかった。


 あとは曲がった膝を真っ直ぐにして、腰を上げ、背を伸ばすだけだというのに。


 どれだけ力を込めても、それらの動作の一つも上手く行かなかった。


「私は絶対に!! 立つんだーーーっ!!!」


 雷鳴が聞こえるが、それを気合いを入れるための音色に変換する。


 感覚が無くても、足は確かにここにある。立ち上がれないはずがない。

 皆のために、ハルのために、そして自分のために。立ち上がってみせる。


 はあ、と馬鹿にしたようなため息が頭上から降ってきた。またかちんと頭が鳴った。


 遠雷を耳にしながら、思い切り腰と背を反った。


 わずかに、自分の視界が上へと上がった。それに気づいた時、美月は自分の体が立っていることを知った。


 立つことが、ひどく久しぶりな感覚に思えてならなかった。


 息切れを起こしているためか、肩が大きく上下した。だが呼吸を整えるより先に、上を見上げた。


 目線の先にいるサターンは驚きも呆れもせず、無感情な瞳でこちらを見下ろしていた。


 きっと睨み返し、深く息を吐き出す。立つことは出来たのだから、次は歩く番だ。


 美月は片足を握りしめ、それを前へ持っていこうとした。


 その瞬間。加えていた力が抜け落ち、気がついた時には転んでいた。


 やはり歩くのは難しいのか。唸りながら両目を開けると、咄嗟のあまり両手で地面をつき体を支えたせいで、ずっと抱えていたシロが地面に落ちてしまっていた。


 慌てて抱え上げたが、シロは気づかずに、眠り続けていた。ついてしまった草や土を払いながら、鞄はどこに行ったのだろうと辺りを探し、すぐ横に見つけた。


 トートバッグを掴んで引き寄せかけた時、どこかが軽い気がした。猛烈なる胸騒ぎが襲いかかってきて、バッグの先を見た。


 少し先に、白く小さな箱が転がっていた。頭が真っ白に染まった。


「……パルサートラップ?」


 サターンの小さく呟かれる声が、はっきりと耳に届いた。


 自分が箱に手を伸ばす前に、その箱に近づくものがあった。シロを連れ去った、あの虫型の機械だった。


 あっという間に紐のように伸ばした手足を箱に絡ませると、プロペラの回転音と共に飛び、遠ざかっていった。


「ま、待って、それはっ!」

「……こんな旧式のトラップ、どこで手に入れたんだ?」


 機械は崖の上まであっという間に飛んでいくとサターンの隣で止まり、その場で浮遊し始めた。


「それは、それはおじいちゃんの宝物なんだよ! 必ず返すって約束して借りたものなんだよ!」

「危機一髪だった、こんなものを手に入れていたとは。回収できて良かった」

「か、返しなさいよっ!!」


 ハルにとって必要なもので、祖父にとっても大事なもの。一番取られてはいけないものなのだ。


 変身をしてジャンプすれば、すぐに崖の上まで行けるのに。檻も壊せるのに。ハルを抱えて逃げ回ることも出来るのに。


 微塵も箱に近づかない腕を伸ばし続けていると、サターンの無機質な紫紺の目がこちらを一瞥した。


「ならば取り返せばいい。──出来るものなら」


 稲妻が光り、雷鳴が轟く。

 笑える程動けない足が震え出した。


 打つ手はどこに。そう尋ねても、何も返ってこない。たとえいつまでも待ったとしても、答えが戻ってくることはない。


 息が止まった。



 その時だった。甲高い警告音が場を埋めたのは。

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