phase4「ココロが消えた!」

 さく、さく、と落ち葉を踏みながら進む足音が響く。その音は落ち葉相手にすら気を遣っているように思えるほど、控えめで優しかった。


 青年の頭上に、色づいた葉がはらはらと降り注ぐ。その様子をココロがじっと見上げていると、ふいに青年の目がこちらを見た。


「よしよし。本当に良い子だねえ、きみは」


 とんとんと優しく背を叩きながら、子守歌を歌うように青年は言った。


 ココロを連れて歩くこの青年は、歩きながらずっと規則正しく静かに背を叩き、穏やかな声で静かに鼻歌を口ずさんでいた。


 これらはココロを落ち着かせるためと言うより、自然に出てきた動作のようだったが、青年のおっとりした雰囲気と優しい扱いに、ココロの精神は波打ったように落ち着いていた。


 ココロのことをすっぽりと抱く腕はじんわりと暖かく、細められた橙色の瞳は、

全てを包み込むような優しい光が灯っていた。


 ココロは視線を青年の目から外側にずらした。目線を一点に止めたココロは、そちらを見つめたまま、「あ~!」とじたばた手足を動かした。


「どうしたの? 何か見つけたの?」


 青年はココロの見つめる先に歩み寄った。そこには、白い花が幾つか咲いていた。「これが欲しいの?」とココロに尋ねた青年は、そのまま花を一つ摘んだ。


「はい、どうぞ」


 渡された花を両手で握ったココロは、じっと真顔でそれを見つめていた。やがて、ずいっと花を持つ手を青年の顔に向かって持ち上げた。


「むい」

「……えっ、僕にくれるの?」

「むん」


 更に手を近づけると、青年はココロの手を包み込むように、片手で花を受け取った。


「うわあっ……! とても綺麗! ありがとう! きみ、とっても優しいんだね!」


 しげしげと花を眺めた青年は、感激で瞳をきらきらさせながら、ココロをぎゅっと抱きしめた。


「僕ね、お花が大好きなんだ。きみは?」

「ういういう!」

「そっかあ、同じだね! ふふ、なんだか嬉しいなあ」


 青年はココロと花を交互に見ると、何かに思い至ったようにあっと目を見開き、貰った花を自身の深緑色の髪に挿した。


「ど、どうかな? 似合うかな?」

「あ~~~!!」

「わっ、本当? じゃあ、つけておくね。きみがせっかくプレゼントしてくれたものなんだから」


 青年は照れくさそうにはにかんだ。深い緑色に、白色の小さな花弁がひっそりと咲いていた。


「僕ね、女心がわかってないってよく言われちゃうんだよねえ。……きみは大丈夫? 僕といて嫌な気分になってない?」

「いういう」


 ココロが青年の服をぎゅっと掴むと、相手にぱあっと輝かしい笑顔が広がった。


「こうしてちゃんと接したのは初めてだけど、ココロちゃんって本当に良い子だね! 僕、きみのこと大好きになっちゃったよ」

「あう」

「……もしかしてきみも僕のこと好きなの? ふふ、だったらすっごく嬉しいな」


 高い高いをするように、青年はココロを高く抱っこした。青年は非常に背が高く、その分持ち上げられた位置も高くなる。ココロは興味深そうに辺りを見回した。


「あ、そうだココロちゃん。きみに聞きたいことがあるんだけど」

「?」

「──mindがどこにあるか、知ってる?」


太陽を透かして、青年の髪の毛が輝いていた。橙色の瞳も、その台詞を発した瞬間、鈍く光った。


 青年の目は、それまでの穏やかな目とは、違っていた。穏やかな光の後ろに、何か別のものが、隠れ潜んでいるようだった。


 ココロは首を傾げた。


「……むいん?」

「ご、ごめんね、やっぱりわからないよね。ごめんね」


 慌てた様子で訂正する青年の目や声には、先程見せた不穏な光はどこにもなかった。


 ごめんね、と再度謝った青年は、ココロを優しく抱きかかえると、再びゆっくりとした調子で歩み出した。


「僕、きみとはもっと仲良くなりたいんだよなあ。に連れて行ったら……って思ってたけど、うーん……。お、怒られる未来しか見えないなあ」


 青年は苦笑いしながら、大きな手でココロの背を撫でた。







 「ココローーー!!!」


 崖の向こう側に回ったが、そこにいてほしかった人物は影も形も見えなかった。


 右を見ても左を見ても前を見ても、赤や黄色の木々が、誘い込むようにして一斉に揺れるばかりだった。

 360度見回したものの、そこにわずかにでもココロの姿を捉えることは叶わなかった。


「……いないというのは、明らかにおかしい」

「だが、いないじゃないかよ!」


 クラーレがハルに詰め寄ったが、美月はそれを止めることはできなかった。風の音が、追い立てるようにいやに大きく聞こえた。


 ハルがその場にしゃがみ、トレンチコートのポケットからハードカバーサイズの本のような見た目をしたパソコンを取り出しパソコンを立ち上げると、両手で素早くタイプを開始した。


「今すぐに、ココロを探す。生体反応をサーチするので少し待っていてほしい」


 無機質で乱れのないタイプ音を聞きながら、美月は服の裾を更に強く掴んだ。力を入れすぎて、両手に痛みが生じ始めていた。


「待って、られない」


 声が漏れていた。ハルは手を止めなかった。タイプ音が続く中、クラーレとアイが美月の目を見上げてきた。美月は掴んでいた服の裾から手を離した。


「じっとしてられない!」


 今度ははっきりと言葉が口から飛び出してきた。その勢いが背中を押した。次の瞬間には、走り出していた。


「ミヅキ?!」

「ミヅキさん、待って下さい!」


 クラーレとアイの声が投げかけられるが、美月は地面を蹴り続けた。静止の声は、あっという間に遠ざかっていった。


 息が上がっているのは、呼吸が思うようにできないのは、全速力で走っているからではない。


 その証拠に、走っている体は熱を持つことは無く、逆にどんどん冷えていく、体の内側が、心が冷えているのだから、当たり前だった。


 ココロがいないこと。今この瞬間、ココロが怖い思いをしているかもしれないこと。ココロの身に、何か危険なことが降りかかっているかもしれないこと。


 そればかり考えていたら、体が動いていた。あのまま待っていることなど出来なかった。あのままずっと立ちすくんでいるままなど有り得なかった。


 もしかしたらどこかで、ココロが泣いているかもしれないのに。そんな可能性がある中で、じっと何もしないままいるなど、無理な話だった。




 美月はこの山に来たことがない。だから地理に明るくない。もとより明確な目印となるものが少ない自然の中、どこに何があるかなど、全く把握していなかった。


 走り出したのは、ただ待っているだけの自分に我慢がならなくなったからだった。


 早く見つけたい、早くココロに会いたいと。焦りは充分すぎる程有り余ってるのに、肝心のココロが見当たらなかった。


 辺りを見回しつつ走りながら、木の根元や岩の陰、ココロがいなくなった時のように小さな洞穴を目にすれば必ず確認していったが、どこにもいなかった。


 荒く呼吸しながら、美月は木に手をついた。かがみ込んで根元にある空洞をのぞき込んだが、そこには誰もいなかった。


 項垂れたまま、激しく肩を上下させる。上手く息が吸えず吐けぬ中、全力で走っているので、疲れはすっかり溜まっていた。

 山の風は涼しいのに体の表面は常に熱く、反して胸のある辺りは凍てついたように寒く冷たかった。


 すぐ走り出そうとしたが、体が動くことを拒んでいた。目を閉じ、聴覚に全神経を集中させようとした。

 もしココロがどこかで泣いているのなら、その声を拾うことが出来るかもしれないと思ったのだ。


 だが聞こえてくるのは自分の荒い息遣いだけだった。なんとかその音を除けて別の音を聞こうとしても、今度は木々のざわめきしか聞こえない。


 汗が頬を伝ったが、それは冷や汗だった。強くかぶりを振り、また走り出した。

 やはりじっとしていられない。探さなくては、動かなくては。行き当たりばったりに、美月は走った。上へ登れば下へ下りたり、右へ行けば左に向かい。


 自分がどこに向かっているかなど当てはなく、闇雲で無我夢中だったが、それでも何もしないまま立っているよりは、遙かにましなことに感じていた。


 そうやってぐるぐると歩き回っているときだった。目についた坂をとりあえず駆け下りていると、それまでの疲れが溜まっていたのか焦りすぎたのか。


 思い切り足を滑らせた。落ち葉を踏んだ足の裏にずるりと滑った感触が伝わってきた瞬間、自分の体は思い切り前のめりになっていた。


「!!!」


 一度勢いのついた体は簡単には止まらずどんどんスピードを上げていき、体制を整える間もなく坂の下の道に顔面から突っ込んだ。


 体中にずきずきとした痛みが走り、それはまた走り出すことを不可能にしていた。気がついたら呻き声が漏れていた。襲ってくる体の節々の痛みと地面に突っ伏したまま戦っていた、まさにその時。


 ひゅう、と風が吹いた。冷たい風だった。それは美月の前方からやって来て、体をすっと撫でると、何事もなかったように通り過ぎていった。


 秋の山は涼しく、そこに吹く風は肌寒さすら覚える。しかし今の風は、今まで山の中で感じてきた風とは、少し質が異なっているように思えた。


 狙って吹いたかのような。もっと言うなら、倒れている美月のことを、慰めるような。そんな吹き方に感じたのだ。


 美月は顔を上げた。目の前に、古びた鳥居がそびえていた。鳥居の下をくぐるように、冷たい風が吹き抜けてきた。


 立ち上がり、苔の生えた石の階段を上って敷地内に入ってみると、鳥居もそうだが社のほうもだいぶ老朽化が進んでいることがわかった。

 境内や壁に使われている木は見るからにぼろぼろで、屋根は軋んで斜めになっている。参道の石畳にも苔が生え、灰色と深緑が混じっていた。


 この場所が他と比べてさらに涼しく感じる理由もわかった。四方八方を、背の高い木々が、神社を隠すように鬱蒼と生い茂っているのだ。

 また耳を澄まさなくても、コオロギや鈴虫の鳴く声が響いてきていた。耳に優しい静かで控えめな鳴き声は、聞いているだけで体の熱を冷まし、心の焦燥を鎮めていった。


 深く息を吸い、長く息を吐き出してみると、それまで上手く出来なかった深呼吸があっさりと出来て、逆に驚いた。もう一度深呼吸しようと、胸に手を置いた時だった。


「誰?」


 社の向こうから、ゆらりと人影が現れた。深く吸い込もうとしていた息は、ひゅっと音を残して途中で止まった。


 そこにいたのは、背の高い男性だった。美月は呆然としていたが、向こうも驚いたようで、目をまん丸くしていた。


 風が吹くと、男性の長い緑色の髪や、頭の両サイドに編まれた三つ編みがゆらゆらと揺れた。片方だけ出ている橙色の瞳は、驚きの感情を浮かべているというのに、その奥は穏やかだった。


 だからだろうか。その男性は、人ならざるものといった空気を身に纏っていた。


 波打ったように穏やかで、揺らぎがなく、神秘的で厳かな雰囲気が、そんな空気を作り上げることを可能としていた。


 普通の人が見たら、この男性のことを人間では無いと直感するかもしれない。


 だが美月はこの男性がれっきとした人間であることを知っていた。もっと言うと、その正体も知っていた。


「──ジュピター?」


 記憶を手繰り寄せてその名前を呼ぶと、相手はぱっと笑顔になった。


「うん、そうだよ! お久しぶりだねえ。僕のこと、覚えててくれてたんだね。えへへ、嬉しいよ」


 そう言ってにこにこと微笑む顔に向かって、伸びる手があった。それは非常に小さかった。美月は、意図せず震える手を、ジュピターに向かって指した。


「ど、どうして。なんであなたが、その子を?」


 ジュピターは手元に視線を落とした。すると彼の笑顔が、慈しみ深いものになった。


「よしよし。良い子良い子」


 ゆらゆらと揺らす腕の中には、ココロがいた。見間違えようも無かった。ココロはすっかり落ち着いた表情で、ジュピターに抱っこされていた。

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