phase2「人間と機械」

 ガラスで出来た椀の上に乗る冷気を放つ球体は、一つは白色、もう一つはピンク色をしていた。バニラとイチゴだと、デイジーは言った。


 夕食の後、食後のデザートだと言ってアイの前に置かれたのが、このアイスクリームだった。


 勧められ、断る理由もなかったので一口掬って食べてみた。口の中に広がったのは主に冷たさと甘みだった。それ以外何かを感じはしなかった。


 だが博士は、人間は違うようだ。同じアイスをテーブルを挟んで向かいの席で食べる博士は、アイスを口に入れた途端、ぱあっと顔中に笑みが広がった。


「美味しい! 幸せ……!」


 どうして幸せを感じるのかと考えたが、自分には関係のないことだと片付ける。と、博士が急に顔を上げ、「どう?」と尋ねてきた。


「どう、とは」

「美味しい?」


 アイは一口分減ったアイスに目を落とした。


「冷たくて甘いです」


 アイが感じた事をそのまま伝えると、なぜか博士は吹き出した。ひとしきり笑った後、どこか寂しそうになった瞳を誤魔化すように、目を伏せた。


 場に流れた沈黙を破ったのはアイの声だった。


「博士。私は電力で必要なエネルギーを全てまかなえます。よって、このように食事を摂ることは無駄な行動ではと推測できます。デザートも必要ありません」


 食事を用意する博士の労力を考慮しての発言だった。だが博士は顔をしかめ、「いいえ」と首を振った。真顔でこちらを見ていた表情が、次の瞬間ふっと緩んだ。


「いいじゃないの。一緒にごはんを食べても。アイと一緒に食べたいのよ、私は」


 理屈がわからず、アイは首を傾げた。なぜ自分と食べたいのか?


「博士の仰ることは、私には理解できないものばかりです。博士の行動は、理屈に合わない動きばかりです」


 常日頃からアイが抱いていた疑問だった。それをぶつけてみたのに、博士はただ微笑を浮かべ、アイスをまた一口掬った。


「理屈でしか動かないのがロボットなら、理屈と合わない動きばかりするのが人間ね。アイもきっと、そのうちわかるようになるわ」


 それがロボット。それが人間。


 アイはこの時、人間とロボットには様々な違いがあるのだと、改めて知った。


 

 

 

 その後ハルは用事があるので、と言い残し出て行った。施術室のドアが閉められた後で、拘束が施されてないことに気がついた。


 どちらにしても身動きが取れない状況は変わらないので、危険性は低いと判断したのだろうか。

 それらしいものは見当たらないが恐らくこの部屋にも監視機器の類いは取り付けられているはずであり、アイが迂闊な行動をしないよう見張っている可能性が高い。


 だがだとしても、修理してしかも自らの拠点に置いておくなど、充分すぎるほど手厚いがすぎた待遇が施されている。


 これが敵に対する仕打ちかと疑った。疑えばすぐ答えは出た。


 恐らく、何らかの計算に基づかれている。それが何の計算かは不明だが、ハルが「情」で動くなど有り得ないことだった。


 理屈で動くことが、ロボットの宿命であるのだから。


 あまり動かない方がいいと言われており、唯一動く頭の部分も、なるべく動かさないほうがいいと言われていた。


 なのでアイは、顔を横に向けた体勢を、数時間近く続けた。

 見ているのは施術室の灰色の無機質な壁ではなく、もっと近くにある、自分のすぐ隣に置かれた桜のかんざしだった。


 かんざしにくっついた桜の花は、手に入れた時と同じ状態のまま、ずっと変わらない姿で咲き続けている。本物ではないのだから、当然だった。


 作られた花をじっと見つめているうち、そういえば博士も、家の中の至る所に花を飾っていたことを思い出した。


 リビングやダイニングはもちろんのこと、廊下だったり、トイレや風呂場だったり、果てには物置に至るまで、色んな場所に様々な花を飾り、季節毎に変えていた。




 アイは博士の家の地下にある実験室で作られた。初期メンテナンスや駆動の練習、調節などがあったのでしばらくそこで過ごし、少し経ってから実験室を出て、博士の家の全貌を知った。


 リビングはもちろん、お風呂場やトイレ、果ては物置に至るまで、色々な所に花が飾られている以外は質素で飾り気のない内装を見て、ここが博士の家なのか、と改めて認識した。


 博士は名の売れていない博士というわけではなく、超大手企業であるダークマターの、社内研究所であるバルジで技術者として働き、その上研究室の室長を担う程の実力を持っているのだ。


 それにしては収入に見合わない小さな家に、一人で暮らしていた。


 結婚していたようだが、夫はずっと昔に、宇宙船の事故で亡くなっていた。


 アイに夫の写真を見せながら思い出話を聞かせる博士は、とても楽しそうだった。いつもアイの前で、幸せそうに笑っていた。


 アイが製造され、ダークマターの元で働くようになるまでの間、博士と共に暮らしていた。


 その期間に観察して得た博士の情報の一つに、決して贅沢をしない気質というのが上げられる。


 お金を使うときといったら、質の高い実験器具を新たに下ろすなど、研究や開発に関するもののみで、それ以外で自分の為にお金を使うことがなかった。


「あまり派手なものは苦手なんだ。身の丈に合った暮らしをするのが一番なの」


 贅沢をしてもなんら支障は出ないのに、どうしてこんなに簡素な暮らしをしているのですか。


 一度聞いた時、博士はそう答えて、自分の発言を確かめるように、何度か頷いていた。


 ただ財布の紐が固いというわけではなく、アイには意外と甘かった。アイが何かを欲したことは一回もなかったが、博士が勝手に用意してくるのだ。


 例えば、よく服を買ってきた。アイに似合うと思ったんだ、と言って渡してくるのだ。


 アイは大体13歳くらいの少女の姿に作られたので、いつまでも製造されたときに着ていた施術用の白い簡素な服のままでは、博士としては色々思う部分があったのかもしれない。


 が、正直なところアイにとってはどうでもよかった。自分が着るものは衣服の形をしていればどんなものでも良かった。


 とはいえ逆に用意されたものをあえて着ない選択肢を取る必要性も無かったので、とりあえず着ていた。着ていると、博士はもっと幸せそうに笑った。


 毎日同じ服でもなんら支障は無いのにわざわざ毎日違う服を着るとは、人間の心理はよくわからない。


 「支障は出ないので定期的な衣類の提供は不要です」と述べたときに、博士の瞳がどこか曇った理由もわからない。


 わからないといえば、博士が用意してくる服には共通点が存在していた。淡い桃色や、桜色が使われたものが多いのだ。


 理由を問うたとき、博士は長い間黙っていた。沈黙の時間の割に返された答えは、「私が好きな色だから」という非常に短いものだった。


 他にも振り返ってみると、博士には不可解な点が幾つもあった。


 例えば燃料で充分なのに、食事を作ってアイに提供した。


 研究者という仕事上規則性がなかったので毎食は用意出来なかったが、そういうときは必ず作り置きがされていた。


 仕事がないときは、博士と一緒にごはんを食べることになっていた。

 食事中アイはずっと無言だったが、反対に博士はよく喋って、その日起きた出来事などを、アイに聞かせていた。


 会話に乗る意義が見出せなかったアイは無機質な受け答えしかしていなかったのに、博士はなぜか楽しそうだった。


 他にも、時々アイスを食べたいかどうか聞いてくることがあった。その度になぜと聞くが、いつも曖昧な返事で、はっきりとした答えが返ってきたことはなかった。


 必要がないので必要ありませんと言うと、これまたどういうわけだか、博士の目は曇るのだった。


 わけがわからないといえば、アイが住んでいた部屋もそうだった。


「今日からこの部屋を使ってね」と、実験室から出た日に通された部屋は、博士がアイに用意したものだった。


 その部屋に置かれている家財道具は、新品とは言い難かった。古かったり汚かったりというわけではないが、使い古されているとわかる見た目をしていた。


 特に本棚はそれが顕著で、しまわれた様々なジャンルの本は、どれもよく読み込まれていた。


 本棚の中身は空ではなく、既に本がしまわれていたのだ。他にも、ぬいぐるみだったり化粧道具など、様々な小物が部屋の中にはあった。


 博士が用意したのですかと聞くと、博士は黙って首を振った。その反応から、以前この部屋には誰かが住んでいて、その誰かの私物をそのまま残している可能性が考えられた。


 どれも私に必要のないものなので、必要最低限のものだけ残しておいてあとはいりませんと言ったら、あまり大きく揺れ動くことのない博士の感情が、大きな変化を見せた。


 両目を大きく見開いて、「やめて!」と悲鳴のような声を出したのだ。


 その後手を組んで俯いて、掠れた声で「ごめんなさい」と謝った。


「ここにあるのは私の宝物ばかりだから、捨てることは出来ないの。ここに置かせてちょうだい」と震える声で頼んできた。


 アイはそれ以上断る理由がなかったため、かしこまりましたと了承した。


 それからずっとあの部屋で暮らしていたものの、部屋にあった自分にとって必要のない小物や雑貨は、まず使う事がなかった。


 あの家具の数々は、一体なんだったのだろうか。そういえばあの家具達も、桃色や桜色が使われたものが多かった。


 色々アイにとってわからないこと、納得のいかないこと、附に落ちないことも多々あったが、博士との暮らしに不満はなかった。


 作られた当初は、ロボットとして未熟な点が多くあった。だが、博士が仕事で忙しいだろうにちょくちょく調整とアップデートを繰り返していった為、どんどんあらゆる機能を向上していけた。


 最初は幼い子供でも出来るようなことが出来なかったのに、最終的に人間ではまず時間がかかるような難しいことを、簡単に容易くこなせるようになっていった。


 例えば最初は鋏すらも使えなかったが、ほんの数日で、ものの数分で繊細な切り絵を完成できるようになった。


 料理だったり掃除だったり洗濯だったり、そういう家事も手伝えるどころか、完璧にこなせるようになっていった。


 博士が家で行う研究や実験の補佐も、充分に担えるまでになっていった。


 ロボットとして優秀と見られるレベルになるまで、そこまでの時間はかからなかった。博士は研究者としても技術者としても優秀だったと判断できる。


 そんな博士といたのだから、不満など起こるはずもなかった。


 というより、不満も満足も何も感じていなかった。前提として、全てどうでもよかったからである。


 本来ロボットというものには、「好奇心」が備わっていない。

 よほど洗練された自立思考を持っていないと、「興味が湧く」という思考に至らない。


 わからないことはわからないままでも支障は無い。自分にとって有益でないのなら、知識を得ることは無駄であり、不必要。


 ロボットにとって当たり前の思考を、アイはずっと持っていた。

 変化は有り得ず、不動のままであるはずだった思考が、今や。


 自分の周りに積み重なっている、わからないこと。それをわからないまま放っておくことは、どうしても耐えられないと、考えている。


 わからないことを考え続けていても、思考バッテリーを消費するだけの、無駄な行為だと承知しているのに。


 答えが出てくるわけでもないのに、ただかんざしの桜を見つめ続けていた時だった。


 機器類の動くわずかな音しか無かった室内で、別の音を捉えた。


 カリカリと、金属を引っ掻くような。その控えめな音色は、施術室のドアの向こうから聞こえてきていた。

 何の音か推測する間もなく、ドアが開閉された。


 ドアは自身の足下の方角にある。顔の向きを横から仰向けに戻したものの、体を起こすことが出来ないため、誰が入ってきたのか確かめることは出来ない。


 だが何かがいるのは確実だった。その証拠に、室内には先程までなかった、足音が聞こえている。


 音の小ささからして、人でないと判断した直後だった。急にお腹の辺りがずしりと重くなった。その重さは上へと移動していった。視界の下の方から、真っ白な影が現れた。


「ピッ」


 鳥を想起させる高い鳴き声が耳に届き、緑色の瞳と目が合った。アイが瞬きすると、その生き物は頭を傾けた。


 と、生き物はおもむろに下を向いた直後、ぴんと両耳を立てた。それから慌てた様子でアイの体から下りた。


 シロと名付けられた、この宇宙生物の種族は非常に知能が高いことで知られているが、まさか体の上に乗ったままでは無作法と考えたのだろうか。


 推測を立てている間に、シロは顔を近づけると、そのままアイの匂いを嗅ぎ始めた。


 金属やシリコン等の「機械」の匂いしかしないだろうに、なぜかシロは長い間アイの隣で、顔の匂いを嗅ぎ続けていた。


「ピイ!」


 触れていた柔らかい体毛が、ふいに離れた。横に目を向けると、尻尾をぶんぶん揺らすシロと目が合った。


 何を考えているのかわからないが、警戒心の類いを抱いていないことは動作や表情から判断できる。


 野生の勘というものが生き物には備わっているはずだが、ハル達など人間と長い間一緒にいたせいで鈍ってしまったのだろうか。

 アイを敵だと、認識できていないのだろうか。


「なんで……」


 最新の研究では人語を理解するとまで言われているプレアデスクラスターだが、当のシロはわけがわからないとばかりに首を傾げた。


 無邪気さしかない瞳を見ているうち、ふとこの生物が、どうやってこの部屋に入ってきたのかという疑問に行き着いた。


 ドアはぴったりと閉じられていたのに、どうやってドアノブを回しドアを開けたのか……。


 と、緑色の目がふいに伏せられ、アイの顔のすぐ傍を見つめてきた。視線を辿ってみたが、そこには桜のかんざし以外置かれていなかった。


 そのかんざしを、シロは食い入るように見つめていた。


「たっ、食べないで下さい!」


 びくんとシロの体が跳ねた。戸惑ったように、アイの顔とかんざしを交互に見る。


 プレアデスクラスターは非常にたくさんのものを食べることが特徴の一つであり、しかも一般的な生き物が食べないような、金属やプラスチックなどの無機物も問題なく消化することができる。


 シロも幼いながらその性質は変わらず、よってこのかんざしを食べ物だと認識しても不思議ではない。


 かんざしをシロから離そうとしたが、動かそうとした手はぴくりとも動かなかった。


 そんなアイなどお構いなしで、シロは再びかんざしを眺め始める。また声を上げようと口を開けた時だった。


「シロはそこまで馬鹿じゃない。人の持ち物はな、絶対食べないんだよ。どんなにお腹が空いててもな」


 金属の軋む音が響いた。シロが入ってきた時よりも、更に大きく開けられたドアの音だった。


「よっぽど空腹だったのか、一回だけハルを囓ろうとした事はあったらしいがな。まあ、もうそんなことは起きてはいない。シロもハルが大切だからな」


 ゆっくりとした足音はアイの視界に入らない内に止まった。


 「シロ」と短く名前が呼ばれると、シロは顔を向け、途端にそちらへと駆け出した。


「あんた、そのかんざしをずっと持ってたんだな。なんでだ? ……いや、大体わかる」


 アイは顔を横に向けたままでいた。灰色の壁しか映っていなかった視界の横から、人影が現れた。シロを抱きかかえたその人間は、壁際に立ち、アイを見下ろした。


 すぐ傍に椅子があるのに腰掛けなかったのは、アイから少しでも離れた距離にいようと考えたからか。


「自分は潜入している身。接触しようとしている標的から、ものを貰った。

身につけられる物品だから、終始身につけていた方が、渡してきた標的との距離が縮まる。

そういう計算に基づかれて、だろ?」


 その人物の顔は見えなかった。地球のペストマスクに似た特徴的なマスクで顔全体が覆われているせいだからだ。


 だがどういう目をしているか、どういう感情を抱いているかは、硬く強張った低い声から判断できる。


 クラーレは非常に強い警戒心を持っているとデータにあったので知っていたが、これが警戒心の強さ関係無く、一般的な反応だろうなと、今のアイは考えていた。


「……その通りです」


 言われた推測は当たっていた。


 ソラほど接触できないミヅキとミライからお土産である桜のかんざしを貰った時、距離を縮める為に、有効活用しない手はないと分析した。


 人間だったら、「貰って嬉しい」「気に入ったから身につける」という感情を抱く所だが、自分はロボットである。その上、諜報員でもある。


 かんざしを手に入れた時、確かに自分は、打算と計算で受け取り、身につけ続けていたと断言できる。


 だが、正体がばれた後も、地球を回っていたときも、もうその必要性はすっかり失せているのに、かんざしを持ち続けた。手放さなかった。

 捨てようとしても、手放せなかったのだ。


「そうか」


 クラーレの目線がアイからシロへと移された。


「あんたがここに連れられてから、ずっとシロは落ち着きなかった。ハルが戻ってきて、目を覚ましたと言った時、シロは物凄い速さで施術室の方に駆けていこうとした。あんたに興味津々だったんだろうな」


 頭から背中にかけて撫でられると、シロの尻尾がぱたぱたと揺れた。


 だがクラーレの声は、生き物を撫でている最中の人間とは考えにくいほど、冷たさしかなかった。


「シロだけじゃない。ミヅキもソラもミライも、ずっと落ち着きがなかった。あんたの心配ばかり口にしていた。早く目を覚ましてほしい、早く元気になってほしい、無事でいてほしいって」


 その名前を聞いた瞬間、両目を見開いていた。クラーレのシロを撫でていた手が止まった。


「本当にお人好しだと思うよ、ミヅキもソラもミライも。あいつらがそんなだったから、俺は救われた。

故郷にも宇宙にも居場所がなかった俺に、“帰る場所”を与えてくれた。

俺はあいつらが大好きだ。何よりも大切なんだ」


 声についていた角がやや取れて、柔らかく聞こえて取れた。だが次の瞬間、声も部屋の空気も一気に固まった。


「ダークマターのロボットには理解できねえだろうがな」


 どこも動かないからそのはずはないのに、体が震えた気がした。


 クラーレが、一歩分アイに近寄った。こちらを覗くクラーレの黄色い瞳が、マスク越しでもわかる鋭利な光を放っていた。


「倒れているあんたを見て、ソラは直してほしいと言った。ハルに頭を下げて頼んだ。ミヅキとミライも同じことを考えていた。ハルが直すと言った時、あの三人は本当にほっとしていた。嬉しそうだった。

だが、生憎俺はあの三人のように優しくない。正直あんたのことは一切信じてないし、疑いしかかけてねえ」


 クラーレはゆっくりと手を上げ、アイを真っ直ぐ指さした。


「あんたが何を考えてるか、知る事は出来ない。……だが、もし何か馬鹿なことを考えたら、容赦しないからな。

俺の体の特徴、ダークマターならさぞ詳しく存じてるだろ?」


 人間だったら、思わず目を逸らしただろう。それくらい、目に宿る憎悪や怒りの感情は凄まじく強かった。


 けれども、アイは人間ではないので、逸らさずに真正面から受け止めることができた。


「はい。存じております」


 抑揚なく淡々と述べると、クラーレの目が更に険しくなった。だが、何かを言ってくることなく、手は下ろされた。


 シロをアイから隠すように深く抱きしめると、そのまま背を翻したので去って行くのかと考えたが、クラーレはそうしなかった。


「あんたはミヅキとソラとミライを嵌めた。痛い目に遭わせた。騙した。傷つけた。苦しませた。

にもかかわらず、あの三人は、あんたを助けたいと思った。そのおかげで、あんたは直ったんだよ。

どうせ、だから何って言いたいんだろうがな」


 こちらを見ずに言い放つと、部屋を歩いて行き、やがてばたんとドアが閉められた。


 先程まで聞こえてこなかった機械の稼働音がよく聞こえてくるようになった。部屋に静寂が戻ってきたことの証だった。


 アイは首を回し、目線を横から上に戻し、灰色の天井を見つめ続けた。温かみがなくて、無個性で、無機質な色の天井。


 全くその通りだった。「だから何」だった。


 正体を隠してミヅキ達と接触していた間、ミヅキ達がどんどんアイに対して心を開き、なんの疑いも掛けず親しく接してくる姿を見ても、何も感じなかった。

 計画が順調に進んでいる以外のことは考えなかった。


 起こり得る最大のトラブルの一つとして、正体が判明した場合どうなるか、シミュレートしたことがある。


 その時は、三人ともさぞ驚き、悲しみ怒るだろうという結果が出た。それ以外に、何かを考える事も、思う事も、感じる事もなかった。


 ロボットには痛覚がない。だから、もし人を殴ったとしても、痛いと感じることはない。与えた痛みを推測することはできても自分のものとして想像することもできない。後ろめたさも、罪悪感も、生まれることはない。


 ロボットには痛覚が無い。体の痛みも、心の痛みも、覚えることは無い。


 だから平気なのだ。ミヅキ達を騙しても、嵌めても、傷つけても、何も感じない。そういう風に自分は出来ているのだ。


 反して、人間であるミヅキ達は、体の痛みも心の痛みも味わう。


 直接的にも間接的にも、アイの手によって、アイの想像することが出来ない痛みを、多く味わった。


 なのにあの三人は、まだ友達でいたいと言う。助けたいと思ったと言う。何の痛みも感じることのないアイに対して──。


「私は、ロボットです──」


 言葉にしてみた。変わらない事実を口にしただけで、思考回路の詰まっているような感覚がなくなった。


 なぜか心臓コアの辺りが、重くなった。まだ何か声を出したかった。だが、何を言いたいのか、まるでわからなかった。


 自分がロボットであることは変わらないのだと、そればかり考えていた。

 




 ドアノブに向かって伸びていた手が、不自然な形で止まり、宙をさ迷った。


「……起きてるかな?」


 美月は隣を見た。穹は曖昧に首を振った。


「まあまあ、眠ってたら起こさないようにそっと出て行こうよ」


 未來が後ろから軽く背を叩いた。そうだね、と返し、ゆっくり息を吸い込んで長く吐き出す。


 ハルからアイが目を覚ましたと聞いて飛んできたものの、いざ施術室のドアの前まで来ると、果たしてどういう顔をして会えば良いのか、どこにも答えがないことを思い出した。


 どう会って何を話すのか、美月も、恐らく穹と未來も、何一つ決めていなかった。


 気まずくないと言えば嘘になる。顔を見たいようで、眠っていてほしいという矛盾した感情を抱いている。


 だが、そんな細かい思考は関係無しに、ただ会いたい気持ちが先行しているのも事実だった。


 音を立てないようにドアノブを回し、ドアを引く時、一体何の素材で出来ているのかと驚くほど、それはひどく重く感じた。


 時間をかけてドアを開け、足音を忍ばせて中に入った。


 そっと台の上を覗き込むと、運んだときと同様に、仰向けに寝かされている姿のアイがいた。

 その瞼は、両方ともしっかり下ろされていた。


 どこかほっとしたような、がっかりしたような、何とも言えない不思議な気持ちが湧いていくのを感じた。


 振り向き、苦笑する穹と未來と頷き合い、そっと退室しようとした時だった。


「何かご用ですか」


 びくりと肩が跳ねた。振り向くと、こちらを見るアイの青い双眸が、そこにあった。


 その目に宿る光は、機械の光だった。機械の発光に近い。温かさもなければ冷たさもない。


 この目をどこかで見たことがある、と美月は思った。記憶を遡ると、すぐ浮かび上がった。初めて会った頃のアイは、こういう目をしていたのだ。


 アイの口が動いた。


「何か、私に用があるのですか」


 ロボットとはこういうものを示すのだと。そういう注釈をつけたくなるほど、無機質な声だった。


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