phase1.1

 それは、白い天井から始まる光景だ。自分が、最初に目を覚ましたときのデータだった。


 『起動を確認しました』


 何も見えず、一面闇で覆われている中に、抑揚のない音声が聞こえてくる。


 目を開けたときにまず見えた天井は、所々色がくすんでいるところからして、新しいとは言い難い。

だがとても古びているというわけでもなく、要するに特に目立つ点は見当たらなかった。


 なぜか動こうとしても、体が全く動かない。出来ることが天井を見つめ続けるだけに限られているので、じっと見続けていたときだ。


 横から、ゆっくりと、誰かが歩み寄ってきた。その人間が顔を覗き込んできたおかげで、視界に影がかかった。


 やや年を取った女性だった。黒い髪を一つに緩く結んでおり、濃藍の目が、自分をじっと見つめていた。


 何度か瞬きされた瞳が、一瞬見開かれた後、ふるふると震えだした。

泣きそうになっている、と読めた。悲しいで覆われる瞳の中に、安堵が広がっていくのを確認できた。


 その人は、口元を手で覆うと、絞り出すように言葉を紡いだ。


「……アイ」


 自分を作った博士が、自分を見て、名前を呼んだ。ではそれが、自分の名前だ。


 自分は、アイという名前なのだと、その時初めて認識した。




 

 ピーという甲高い音が遠くで鳴った。最初は真っ暗だった。それは目を閉じているためだった。


 なので開けると、まず何も確認できないほどの真っ白な光が飛び込んで来て、それが薄れていくと、灰色の天井が見えてきた。

 

先程まで見ていた天井と違う、という考えが、まず最初に浮かんだ。


 一瞬だけ、博士の研究所なのかと考えたが、天井に見覚えがないのなら違う、と否定する。


 ではここは一体どこなのか、今自分は何をしているのか、そもそも自分は一体誰なのか──。

 基本的な状況が何一つ掴めず、思考回路が思うように動かない。


 そうやって、ただ記憶の中にあるややくすんだ色をした天井のことを考えながら、今現実に存在する天井を見つめ続けていた時だった。


 視界の横から、大きな影が映り込んだ。


「こんにちは」


 影は人の形をしていたが、頭部が四角いテレビの形をしていた。先程まで見ていた記憶と異なり、それはどう見ても人間ではなかった。


 瞬きする間に、テレビ画面の下の方に表示された口が、ゆっくりと動いた。


「君の名前は、なんというんだ」

「……アイ」


 博士はそう言っていた。アイのことを見て、その名前を呼んだ。つまりこれが、自分の名前なのだろう。

 アイは横になったまま答えた。


「そうか。私の名前は、ハルだ」


 耳にした名前は、博士の名前とは違った。博士デイジーじゃないんだ。じゃあ誰なんだろう。考えた瞬間だった。


「…………???!!!」


 体を起こそうとして、手や足が全く動かないことに気づいた。動かそうとしても、全然言うことを聞いてくれなかった。思考もままならず、今何が起きているかの処理ができなかった。


 きょろきょろと辺りを見回してその先にある壁を見てみても、何も変わらない。かろうじて行えるその動きすら、手で制されて封じられた。


「やめなさい。すぐ動かないほうがいい。施術が終わったばかりなんだから」

「なっ、えっ、はっ……?!」

「まだ混乱しているか。しかし思考バッテリーには問題が起きていないから、すぐ落ち着くだろう」

「ま、待って、待って下さい!」


 隣に置かれてある椅子に向かって歩いていたハルが振り返った。


 そうだ、確かにこの異形頭をハルだと認識できる。だからこそ、思考が回らないのだった。


「なんで、どうして、なん、で……!」

「?」


 ハルが首を傾げた。自分でも要領を得ていない質疑だとわかるのだから、当然だった。


 アイ自身も、何がわからないのか、何が知りたいのか不明だった。


 わからないことが増え、答えを得る前にまたわからないことが生まれ、そうやって積み重なっていく。この状態は今始まったことでは無く、ずっと続いているものだった。


 と、ハルが急に何かを考えついたように「ああ」と言いながら、キャスターのついた椅子に腰を下ろした。


「まず状況の説明からだったな。失念していた。すまない」

「えっ、あっ……」

「まず、君は山の中で倒れていたんだ。エラーを起こして動けなくなったと見るが、思い出せるか」


 首を横に向けた状態で、アイは固まった。促されるまま記憶を辿ると、一番新しく記録されていたことが、突然目の前が真っ暗に染まった場面の情報だった。


 それを告げると、ハルは部屋の中をぐるりと見た。自分もそれに倣ってゆっくり顔を動かし、部屋の中を改めて見回してみた。


「なので、直す運びとなった。この部屋は施術室だ」


 ディスプレイが複数台置かれたパソコン以外、置かれているものは何もなかった。またこの時、自分が白い台の上に寝かされていることも判明した。ロボット専用の施術台と似通った形状をしていた。


「それで修理を行ったわけだが、その過程で動けなくなった理由もわかった。駆動用バッテリーの過放電が最大の原因と見られるが……動けなくなるまで暴走するとは、一体何をしていたんだ?」


 駆動用、と呟く。思い当たる節はあった。というより、それしか考えられなかった。

 正直に伝えて良いものか悩んだものの、判断しかねて、結局口を開いた。


「……地球の、至る所に行ってました。効率を最重視して、世界各地を回っていました……」

「うーん……。なぜそのようなことを」

「旅、です」

「旅?」

「人は皆旅人だと……何かを探しているのだと。ソラが、知り合いから聞いたという言葉を、仰っていました」


 その名前を口にしたとき、自動的にその人間に関することが記録から蘇った。


 ソラの差し伸べてきた手が鮮明に思い起こされる。その時言っていた台詞も、はっきりと再生することができる。また友達になりたいという台詞。


「それは私が言った言葉だ」


 予測通りだった。ハルと会った時に、ハルのする話を聞いた時に、あの台詞はハルが言ったものではと、分析することができたのだ。


 その時ハルは言っていた。知り続ければ新たな道が開けると、出現し得なかったはずの選択肢が現れると。心は、可能性だと。


「正確には、私のが、よく言っていた言葉だが」

「はかせ……?」


 その瞬間データから想起されたのは、目を覚ます前に思い出していた、自分を覗き込んできた人影の姿だった。


 アイ、という名前で呼んできた、アイを作った博士の姿が、蘇る。


「ハルにも、博士がいたのですね……」

「当然だ。既に、死んでいるけれども」


 ハルは少しだけ、頭を上に向けた。


「あまり感情表現を表に出さないのが特徴の人間だった。博士はよく言ってたんだ。心ある限り、人は何かを探し続け、そして迷うものだと。迷い、探すことが終わらないから人なのだと。人は、皆旅人なのだと。その旅は、自由でなければならないと」

「……」


 自分にも当てはめられる、と考えられた。


 わからないことが増え、自分では答えが見つからず、だから答えを探すために、旅をしてみようと考えたのだ。


 人が皆旅人なら、その真似をしてみれば、少しは何かわかるのではないのかと。


 だが、何もわからなかった。むしろわからないことは更なる速度で増えていった。現に今も、大きなわからないことが、のしかかっている。


「最初、聞こうとしたことです」

「なんだ?」

「どうして、助けたのですか」


 状況を考えてみれば、ハルが、まさかアイの正体を知らないはずがない。


 にもかかわらず、どうしてわざわざ修理を施したのだろう。放っておくか、あるいは更に距離を取るのが正しく妥当な判断であるはずなのに、なぜ最もリスクの高い選択肢を取ったのか。


 一番考えられるとすれば、何か思惑があってのことだった。アイはハルのテレビ画面を注視した。


「頼まれたから」


 何かの罠である可能性が、考えられる限り、最も高いのだ。そうでなければ、自分を助ける理由が存在しない。

 そう考えていたときにさらりと返された答えだったので、処理が遅れた。


「ソラが、直して欲しいとお願いしてきた。ミヅキもミライも、同じことを思っている様子だった。だから直した」

「……えっ……?」


 ますます処理が遅れる事態となった。それこそますますわけがわからなかった。どうしてその三人が、そんなことをお願いする? 何の利益があって?

 目を見張った。言葉が出てこなかった。心臓コアの動きが早まっていく。


「わ、わけが、わかりません」


 わからない、とおうむ返しされ、首が傾く。


「どうして私を拾ったのか、どうして助けるのか、どうして助けたのか。なんでソラ達は直してほしいなどと……。お、おかしいですよ、何もかも」


 まさか、と異形のロボットを見る。


「どんな大きなリスクを背負うかわからないのに、頼まれたからという理由だけで、私を直したのですか?」

「さすがにそれだけではない。私が、アイに聞きたいことがあったんだ」

「……なんです?」

「君は心という概念を、どう考える」


 アイは両目を見開いた。心という概念について。わからないことだらけの中で、それだけは、新たに生まれた考えがあった。


「以前会った時は、本当に必要不可欠なのかと、そう言っていたが」


 はダークマターに従属する立場にある。逆らうも逆らわないもそもそも前提が存在しない。

 自分が仕える者の理念に従うようにプログラミングされており、心を不要と考えるのなら、同じ考えを抱くのが当たり前だった。


 だがそうであるはずなのに、アイからはその当たり前が、薄れていた。


「……ミヅキさんとミライさんを襲撃したとき……ソラが駆けつけました。その際、ハルの言っていた、心は可能性という言葉が、理解できたように考えられました」


 本当にあの台詞を、ハルに対して言って良いのか。まだ分析は完了していないのに、口が動いていた。


「心は、必要です。この宇宙に必要不可欠なものです。心を統一しなくても、秩序の保たれた宇宙は作れる可能性が高い」


 心は生きているものにとって一つ一つ違い、故に生き物には個性が存在する。この個性が、心が消失した宇宙は、果たしてどんな世界になるのか、想像が付かない。


 だが、と歯を食いしばる。


「……その一方で、心があるからこそ人は苦しむ原理も、よくわかりました」

「そうだな。その通りだ」

「違うからこそ衝突が生まれる。その結果、誰かが誰かを傷つけ、誰かが誰かに傷つけられる構図が出来上がる。

……今回の、他者の心に傷つけられたソラを見ていて、よくわかりました。」


 あの時のソラは、この部屋の灰色の天井のように、無機質な目をしていた。


 他の人間の心が信じられなくなり、孤独を深めることとなったソラの、あの塗りつぶされたような真っ暗な瞳は、心があるからこそ生まれる苦しみによるものだった。


「わからないんです。確かに私は個性の象徴である心が可能性だとわかった。ですが、立場のことを踏まえると、それでどうして心が必要だと考えてしまうのかわかりません……。

にもかかわらず、本当に心が必要なのかどうか疑問も抱いている。心が無くなれば、心による苦しみは必ず無くなりますから。そう考えると、

もう何もわからないんです。自分はどうしたいのか、どんな道を進めばいいのか。何一つわからないんです。こんな経験は初めてだから、解決策も知らない。せめて何か欠片でもわかればと考えて、だから旅に出てみたのです」


 実際に世界各地を渡り歩いてみると、まず始めに、自分がいかに何も知らなかったのかということを知った。


 宇宙間を移動することは日常茶飯だった自分が、一つの星の中で“広い”という感想を抱くのは妙だと考えたが、旅を続けていく内にその理由がわかった。


 プルートとして、業務の一環で複数の星を渡り歩いたときは、どう進むかも、行き先がどこなのかも、全てが決められていた。

それに沿うことが普通なのだから、広いも狭いも感じなかった。


 だが今回は違った。行き先も、過程も、何一つ決められていない。だから、いくら宇宙から見たら狭く小さな星だとしても、そこには広い世界が広がっていたのだ。


「その間、休んでなかったんじゃないのか」


 ハルが腕を組んだ。なぜわかったのかと言いそうになった。


「……はい。地球の、色んな場所に行って、色んなものを見ました。早く答えを見つけたくて、ずっと動きっぱなしでした」


 灼熱の地、極寒の地、酸素の薄い高山地帯、湿度の高い熱帯、全て慣れていない人間にとっては過酷に感じる環境でも、ロボットである自分なら関係が無い。


 それをいいことに、この一週間近く、休み無く歩き続けたのだ。

 効率を最重視して移動を続けた結果、地球をぐるりと一周することはできた。


 だが結局、何もわからなかった。全く手応えを得ぬまま、ここに戻ってきた。

 もう一周しなければと道を歩いていたところ、目の前が真っ暗になったのだった。


 旅の途中から時々意識を失い、一瞬稼働が停止することが増えてくるという異変を無視した自分の不備が、このような結果を招いたのだ。


 ハルは肩を落とすと、一旦椅子を回転させてパソコンのキーボードをいくつか叩いた。


「実は、まだ施術が完全に完了したわけでは無い。外傷は全て直したし、思考用バッテリーもやや熱を持っていたが、大きな異常は無く、すぐに直った。だが駆動用バッテリーは、ほぼ使い物にならない状態と化している」


 プルートとして仕事で宇宙を移動していたときは、過密だったといえど、バッテリーが故障するようなことは起きない無理のない範囲のスケジュールが組まれていた。

その上、もし異常が起きたとしてもすぐに交換が出来る環境だった。


 そのような壊れたらすぐ修理が出来る環境ではないのに、少し分析すれば稼働しすぎだとすぐ判断できるような行動を取り続けたのだ。


 自分自身に対して一体何をしているんだと振り返っていると、ハルは再び椅子を回転させて向かい合う形をとった。


「修理が終わるまで数日かかると予想していたんだが、ここに運ばれてから、一晩しか経っていないんだ。この壊れた最大の原因である部分が直す直さないの以前の問題だったからな。

ここにはアイの型に合う駆動用バッテリーが無い。在庫があるのは、私用のバッテリーだ。それは使えない。だから、すぐに動くことは、不可能な状態にある。ゆっくり時間をかけて、暴走しているバッテリーをリフレッシュさせなくてはいけないんだ」


 ハルが人差し指を床に向けた。


「つまり、しばらくの間、宇宙船ここで療養することとなる」

「なっ……!」


 体を起こそうとしたが、やはりびくともしなかった。しかしわかっていても、しばらくの間動こうと試みた。予想通り、無駄な結果に終わった。


「今はリフレッシュのため、充電と放電を繰り返している状態にある。

まだ起き上がることはできないが、徐々に手足が動くようになり、そのうちゆっくりかつ短距離なら歩けるようになるまで回復する。

が、完治するまでそれなりの時間がかかることを覚悟しておいたほうが良いだろう」


 体の動かない理由は明らかになったが、それ以外の状況はまるで納得がいかない。

 しばらくの間ここにいる、と言われた台詞を何度も繰り返していると、ハルが呟くように言ってきた。


「もしかしたら、アイの知りたかったことも、ここにいることで何かわかるかもしれない」

「ですが、旅をしてみても何もわからなかったのですよ?」

「その旅、アイは人間の心と接していないのではないか」


 え、と声が漏れた。全く以てその通りだったからだ。確かに地球を巡っている間、自分がロボットであることがばれたら騒ぎになるだろうと、リスクを考慮し、極力人間を避けて行動していた。


 肯定すると、「それでは駄目だ」とまた首を振ってきた。


「心についての答えを探しているのに、心の持つ人間と接しないでいては何もわからない」

「……確かに、そうですね。失念しておりました」

「だから、ここにいなさい。ここにいても充分、人間の心と触れ合える」


 と、ハルが少しだけ、アイから視線を逸らした。


「ミヅキもソラもミライも、喜ぶだろうな。アイが、こんなに早く目を覚ましたんだから」


 わざわざ顔を逸らした程であるし、口調から判断するに一人言のつもりらしかった。


 だが出てきた名前に、アイは反応せざるを得なかった。まさかこれも計算のうちではという可能性が生まれた。


「なんで喜ぶんですか……」


 目を開けていられなくなって、瞼を下ろした。


 向けてくるのは怒りや恨みや悲しみの感情だろう。少し考えればわかることなのに、どう計算すれば喜ぶという感情が湧いてくるのか。


 正体を隠して近づいて、ずっと騙してきて、とどめに襲いかかった相手が目を覚まして、どうして喜ぶ。


 ずっと仲間同士の結びつきを引き裂くように、ソラが孤立するように動いてきたのに。ソラが孤独になったのは、自分のせいであるのに。


 なのにどうして、助けたのだ。


「そうだ。壊れていたから、これも直しておいた」


 見ると、ハルは白衣のポケットから、何かを取り出した。そして、台の上、アイの顔のすぐ隣に、それを置いた。


 一番に目が行ったのが、薄いピンク色の花だった。それは桜のかんざしだった。


 旅の途中で木から落ちたときに真っ二つに折れてしまい、衝撃で花の部分も取れて、壊れてしまったものだった。


 直そうとしたが手持ちのものは限られており、どうにか手に入れたテープで繋ぎ合わせたが、元のかんざしの持つ美しさは完全に失われていた。


 実用性にも欠け、もはや装飾品としてなんの使い物にならないのに、アイは捨てることができなかった。その選択肢に考えつかなかった。


 ポケットの中にずっと入れていたそれが、すっかり元通りの見た目になっていた。


「あと、アイの体にも、所々小さな不具合が生じていたので、それでも直しておいた。ただ位置情報系統は壊れたままにしてある。というより更に使い物にならなくさせておいた。そこは、配慮を願いたい」

「まあ、それは……」


 むしろここにきてやっとハルが合点がいく行動を取ってきて、逆にアイの思考回路が落ち着きを取り戻してきた。


 ハルの行動は全体的に納得がいかない。このアイを助けた一連の動作もそうだし、更に遡れば、AMC計画に反対するという思考も異例だった。


 いくら自律思考ができるといっても、どうしてはっきりと反対できたのか。


 ハルには心が存在せず、いわば当事者ではない第三者の、全く無関係な立場にあるというのに。


「聞いてもいいですか」

「どうしたんだ」


 アイはゆっくりと息を吸い込んだ。


「どうして、AMC計画は行われてはいけないという思考に至ったのですか」


 以前までなら、疑問にも抱かなかった。ダークマターがAMC計画を妨げるハルを排しようとしているのなら、仕えている自分もそれに従ってサポートすることが、当然の義務だからだ。


 当のハルがそもそもどうして反対するのか、知ろうとも考えなかった。


「心の無いあなたが、どうして自分には全く関係の無いAMC計画に、ここまでのリスクを冒してまで反対しているのですか」


 ハルは黙っていた。多分すぐに答えられることではないだろうと予測した瞬間に、短い言葉が発せられた。


「計算」


 それから次の台詞が発せられるまで、少し間があった。

 だからなのか、このたった一言が、いつまでも部屋に響き続けているように聞こえていた。


「計算した結果、だ。今までのデータから分析して、統計して、客観的に判断した。そうしたら心は必要、という結果が出た」


 ぎし、と音を鳴らして、ハルが椅子の背もたれに背を沈めた。


「だから、自分の意思で反対しているとは、言い難いのかもしれない。自分で計算して出た結果に、愚直に従っているだけとも捉えられる。

心の無い私が、心のことをほとんど理解できていないのに、心の必要性を説く。

その必要性すらも、計算して導き出されたもので、いわゆる自分の意思では無い。

こんな私がAMC計画に反対しても、何の説得力も帯びないだろう。

……それでも答えは決して曲げない。心は必要だ。この宇宙にとって」


 ふとハルは、天井を見上げた。宙の一点を、見つめ続けた。


「心は必要、こういう計算結果が出た原因は、おおむね予想がついている」


 先程よりも少し落ちた声量で、台詞が続いた。


「私の昔の友人はな。非常に感情豊かな人間だった。喜怒哀楽に富んで、明るく、自分の心に素直に従う人間だった。

その人間との交流がきっかけで、私はそれまで抱いていた、心への考え方が改まった。一言で言うなら、心そのものに、興味を抱くようになったんだ。心は、最優先の事項として、知識として習得するに値するものだと」


 ハルは今度は背を前へ倒し、若干前のめりになるような姿勢になった。一呼吸ほどの間が置かれる。


「だが、心は複雑だな。今日に至るまで、ほとんど何もわかっていない」


 言った時、テレビのてっぺんから伸びるアンテナは、わずかに下を向いていた。


「心の無い私がAMC計画に反対しているのは、ある意味矛盾だ。なのに、なぜミヅキ達が、私を信じてずっとついてきてくれているのか、正直わからない。

ミヅキ達の心も、博士の心も、友人の心も、私は何一つ理解できていない」


 背筋を伸ばし、もとの姿勢に戻ったハルは、アイの目を真正面から見つめてきた。もし体が動く状態であったとしても動かなくなっただろう、とふと考えた。


「心はわからないことが普通だ。だから考えすぎなくていいし、すぐに解決しようとしなくてもいいんだ、アイ」


 人差し指の先が、真っ直ぐ向けられる。


「君が今考える事は、自分がどうしたいか、だ。そうすれば、何かがわかる、その可能性が高い」


 それが一番苦労していることなのだ、と言いたくなった。


 自分がどうしたいかわかれば、旅にも出ていないしここにもいない。もっと早く答えを見つけられている。


 今まで自分がどうしたいかなど考えた事も無かったのに、どうやって考えれば良いというのだ。


 だが結局、何も言わなかった。

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