phase8.2

 その後、アイの姿を探したが、彼女は見当たらなかった。


 森を出て町の中を歩きながら、どこかでアイが見つからないないことを察していた。

 同じく手分けしてアイを探している美月も未來も、どこかで感じているかもしれない、とも。


 きっと会えないんだろう、と、冷静な、というより無機的な気持ちが、胸中に満ちていた。


 何とはなしに入った同じ高さの建物が並ぶ路地裏で、四階建ての鉄筋の建物を見つけた。


 灰色に覆われた雑居ビルのようなその建物は、外壁は染みだらけで所々に亀裂が走り、小さな窓ガラスの向こうは真っ暗で、人の気配を感じさせなかった。


 そんな廃屋のような建物の、非常口と見られるドア付近に取り付けられた外階段が目に入った時、穹はそこを上っていた。


 錆に覆われた鉄の黒い階段を一段一段上るごとに、無骨で無機質な音が響いた。音も相まって、路地も暗く、建物も灰色だったので、周りの世界が色を失ったように感じた。


 なので屋上に出た瞬間に現れた太陽が穹を照らした時、一瞬その眩さに目が痛くなった。


 屋上は、階段と同じく錆だらけの黒い手すりに囲まれていた。地面も灰色だった。その上を青い空が広がっていた。


 真っ直ぐ進んで手すりの傍まで寄ってから、穹は顔を上げた。


 透き通るような青い空には、嘘も無く、偽りも無く、隠されてあるものも無い。ありのままの姿を見せる空の色を見つめた。


 空はありのままの姿を見せているが、アイが何を考えていたかはわからない。


 もしかしたら、アイ自身にもわからなくなっているのかもしれない。だとしたら、少しでも早く、アイが自分で自分の“心”の声に気付いてほしい。


 心からそう願った。自分が、何を求めていたか、何を望んでいたか、何を探していたか気付けたように。


 心が収まっているという重みが、胸の中にあった。懐かしい重みだった。

 同時に、綺麗な川の傍で寛いでいるときに味わうような澄んだ軽さも、胸の中にあった。こちらは新鮮な軽さだった。


 なくしてはいけないものを取り戻せた重み。ものを考えすぎていた事実に気付けた軽さ。両方が心の中に存在しているのだろう。


 心は不思議だ、とただ感じた。こんなに不思議なのだ。理解するなど、理解してもらおうなど、難しいのは当然のことだった。


 穹は目を閉じた。深くため息を吐いた。


「……アイがどこにいるか、知りませんか」


 首を横に向け、隣の建物の屋上にいる人へ声をかける。


「聞きたいのはむしろこっちですねえ。私一人が探し出すなんてできるわけがない。プルートさんがどこに行ったか、当てはありますか?」


 手すりに寄りかかっているマーキュリーが、含み笑いを返してきた。穹は即座にかぶりを振った。


「無いです。あったとしても教えません」

「あ、じゃあ私も教えません」

「当てがあるんですか?」

「無いですけどね」


 嘆息しながら目線を正面に戻すと、何がおかしいのかマーキュリーはくすくすと笑った。


「皆さんと仲直りしたようですねえ。そんなことだろうと思った」

ダークマター君の立場からすれば僕と皆の仲が戻るのは望ましくないことなのでは? 何をそんなに面白そうにしてるんです? 不真面目ですか?」

「手厳しいこと仰いますねえ。ただそう簡単に人を信じられなくなること、あるわけないじゃないですかって言いたかっただけなのに」


 今日みたいな抜けるような青空を眺めていると勝手に気分が明るくなるというのに、今や空の力を借りても、ささくれ立った心は治まりそうになかった。

 穹は相手に聞こえるように、盛大にため息を吐いた。


「……なんでわかったんですか。僕の心」


 分断するように、ビルの間を風が吹き抜けていった。建物が隣り合っているといえど、こちらとあちらでは距離が遠い。そう感じた。


「君なんかに、なんでわかったんですか」


 隣の建物を見る。穹と同じように立つ相手は、実際の距離よりも遠くにいるように見えたし、近くにいるようにも見えた。


「……本当に人の心を信じられなくなったらどうなるのか、知ってますから」


 小さい声音だったがちゃんと聞き取れた。機械が発したような、抑揚の伴っていない声だった。


「知識として、ですよ。まだ人を信じていることが見え見えの状態で、思ってもないことを言うもんじゃ無いですよ。これを機に学習してみるのはいかがです~?」


 明るい口調に変化した途端に顔が穹へ向けられる。そのタイミングで穹は顔を背け真正面へ視線を戻した。


「……学習は、できましたよ」


 手を見れば、そこには肌の色がついていた。当然だ。透明人間など、この世にいない。


「僕は、透明じゃなかったってこととか」


 なのに、自分の色を、自分の心を、信じることが出来なかった。自分の色を消していたのは、他ならない自分だった。


 ええ、とマーキュリーは神妙に頷きながら、なぜかハンカチを取り出した。


「穹さん、全然透明じゃないですよ。だってさっき触れたんですから」


 手を拭っている意図がわかった。睨み付けたが、まるで効いていないことは明らかだった。

 どこ吹く風とばかりに綺麗に折り畳んで懐に戻すと、手すりに肘を置いて頬杖をつき穹を見てきた。


「私はあなたの色、ものすっごい毒々しくて目に悪ーい色に見えますけどね」

「そうですか。僕も君のこと、大体同じ感じに見えてますよ。交ざりすぎて何がなんだかわからなくなってる気色の悪い色」

「あはは、光栄ですねえ。まあ良かったんじゃないですか、大事な事に気付けて」

「そうですね、気分が軽いですね」

「……それって、私? 私のおかげだったりしますか、もしかして!」

「黙れ喧しい煩わしい思い上がるな」


 早口で言い切れば、マーキュリーは遊ぶように後ろ手で自身が寄りかかっている手すりを掴んだ。わざとらしく不満そうに声を上げるのも忘れなかった。


「でもほら、私の持論って割と使えると思いません? わかってもらおうって気持ちを捨てたら、だいぶ気が楽になるでしょう?」


 体を穹のいる方角へ傾け、覗き込むような視線を投げてくる。穹はマーキュリーのほうを向かず、流し目だけ寄越した。


「持論って、あの“人と人はわかり合えない”って言う捻くれた極端すぎる意味不明の理論のことですか」

「そうですそうです! ふふふ、図星ですか?」

「断じて君のおかげではないです。皆がこんな馬鹿な僕を見捨てなかったおかげだ」


 確かに少し持論を借りた場面はあるが、それが決定打では無い。無感情に言うと、向こうも「ああ、そう」と気のない返事を返してきた。


 心底どうでも良さそうな声を聞き、手元に武器になりそうなものが何も無い状況を悔しく思った。今ここに鈍器辞書があったら投げつけてやったものを。


 だが、相手をするだけ無駄だと、どうにか衝動を抑え込む。ここで怒ったら、相手の思うつぼだと。


 意識を別のことに向けるため、皆のことを考えるようにした。


 今回の事でよくわかった。皆、とても格好いい心を持っている。

 もともと格好いいと思っていたが、改めて気づいた。皆、本当に格好いい。


 だが、考えていると同時に、胸に靄がかかっていく。自分は、そんな皆と釣り合える心を持っているのか。


 そうは思えない。なぜなら自分の心の声を無視し、大切なことから目を逸らし続けていた。


 皆は穹を離そうとしたことなど一度も無かったのに、それを信じることができなかった。


 もし、ずっと気付けなかったら。そう思うと、風が吹いていないのに、体が震えた。

 ぞわりと肌が粟立ち体の芯から徐々に凍てついていく。二度と同じ感覚を味わいたくない。


 手すりの向こうにも、表通りの道路を挟んで、四角い建物が建ち並んでいる。

 その上を空が覆い、白い雲が浮かんでいる。雲が風に流されていくのを眺めた。

 ゆったりとして、のんびりとした動きに、釣られて心も凪いでいくようだった。


 もしも、自分の心の声に、ずっと気付けなかったら。


 皆が穹を見放さず、手を離さないでいてくれたことにも、気付けなかったろう。穹という名前の由来に耳を傾けることもできなかっただろう。


 青空の眩さもわからなかったかもしれない。今、穹が“穹”としてここにこうして立てていることもなかったかもしれない。


 浮かんだ数え切れない程の「もしも」は、充分に有り得たはずの未来だった。今現在のほうが、訪れるなかった可能性の高い未来なのだ。


 奥歯を噛みしめながら、穹は目線を、体を、真横に向けた。


 まだマーキュリーはそこにいた。珍しくぼんやりとした様子で天を仰ぎ、上空を眺めていた。


「君に」


 発する前からなんとなくわかっていたが、声は小さかった。だが相手の耳には届いたようだった。


 「何か言いましたか?」と首をこちらに傾け聞いてきたときには、聞こえないでいてほしかったとどこかで思った。

 聞かれていたのなら、皆まで言わなくてはいけない。


「君に、言いたいことが、ある」

「なんです改まって。いつもみたいに好き勝手言えばいいでしょうが」


 おざなりな口調だった。面倒事が起こりそうだ、という予測をしていることが伝わった。


 心臓の辺りを鷲掴む。だがここまで来て言わないという選択肢はなかった。


「これは、僕の心の声だ。聞いてもいいですが、聞かなくても構わない」


 時間をかけて息を吐き出してから、一気に吸い込んだ。同時に人差し指を、真っ直ぐ指した。マーキュリーへと。


「僕は、君を超える。君よりも強くなって、必ず、君という存在の、上を行く」


 黄色い眼が大きく見開かれた。呆気にとられた目が、穹を見ていた。その時間がずっと続いた。穹は辛抱強く、次の言葉が放たれるのを待った。


「……なぜ、私なんですか」


 体感的に酷く長い時間が過ぎ去っていったように思う。恐らく向こうもそう感じていたはずだ。


 無機的な声音でようやく返された言葉に、穹は用意していた答えをすぐに述べた。


「僕は、強くならなくてはいけない。皆の心を守れるだけの強さを、持たなくてはならない。

……で、この目標を達成するために一番近道で、一番手っ取り早いのが、君なんだ」

「理由は?」

「理由? 知らなくていいでしょう。君が嫌いだからとか君の全てが気に入らないからとか君の全部が憎たらしいとか、そういう理由だからなんて知りたくないでしょう」

「言ってますよね?」


 知らなくていいことだ。


 見失いそうになっていた、絶対に無くしたくないものの存在に気付けた時。

 空っぽだった自分の「心」は、絶対無くしてはいけないものが戻ってきたことによるを得た。


 そんな重いものを自分の中に戻してきたのは、よりにもよって、この人だった。


 自分の本当の心。一人では絶対に問うことはできなかっただろうし、しなかっただろう。


 なぜ心に対してこんなに捻くれた考えを持った此奴が、自分でも気づかなかった穹の心に容易く気付けたのかと。

 此奴がいなかったら、自分は今どうなっていたのかと。そう考えると、体内で悔しさが暴れ回る。


 一生、知らなくていいことだ。知られたら、たまったものではない。


 マーキュリーの目を貫くつもりで見る。その目の奥深くに隠されている心。それが一体どういう物なのか。見続けても、何一つ読めない。


「そういうわけなので、必ず君に追いつきます。追いついて、超える。君に、勝つ。だから」


 一字一句、はっきりと、今日の空のように高く深く広がる声で、言い切った。


「待っていろ、マーキュリー!」


「え、面倒臭い」


 手すりから離れたマーキュリーは軽く体を伸ばし、欠伸をした。そのまますたすたと歩いて屋上から去って行こうとする。


 今は何もいない空中に向かって指していた指を、穹は下ろした。

 マーキュリーが面倒臭そうに立ち止まり、緩慢に振り返った。


「私、そういう暑っ苦しい感情向けられるの嫌なんですよねえ~。さっさと帰ろ。あ、途中で気温の低い星に寄って涼んでくとするかな」


 とどめにぱたぱたと手で手で仰いできた。半分予想していた反応だったが、それでも苛立ちを抑えることが出来なかった。


「……別に、面倒なら面倒で構わないです。でも、そうやってずっと馬鹿にしてたら、いつか僕に足を掬われるかもしれませんね?」

「……そんなに熱を注いでくれて、どうもありがとうございます」

「は??」


 マーキュリーはお辞儀をし、顔を上げた後、笑った。お辞儀の丁寧さと反して、適当で、投げやりな笑い方だった。


「けど……俺に、そこまで思ってもらえる価値はないよ」


 だから、面倒臭い。


 その言葉を最後に、また歩き出した。もう何を言っても立ち止まらないだろうと伝わってきた。穹は黙って見送った。


 完全に姿が見えなくなり、去って行ったのを確認した後で、穹はここにいない相手に向かって再び口を開いた。


「別にいいよ、それでも。君なんかに気遣わない」


 屋上を吹き抜けていく風は冷たい。今までにはなかった新たな決意が生まれた穹の心に、程よく涼しさを保った状態で吹き込んでくる。


「油断してる君を超えれば、少しはあの仮面も剥がれるのかな?」


 その瞬間が来るのかもしれない。想像すると、少しだけ、心が弾んだ。


 ならば強くなる。超えるために。守るために。必ず。


 穹は再び、青空を目に焼き付けた。今日の青空は、一生忘れる事はないだろうと思った。






 やはりというべきか、その後もアイを見つける事は叶わなかった。駄目だったか、と肩を落とす美月と未來と、無言の穹のもとに、ハルとクラーレがやっと合流した。


 いきなり美月と未來が相手の瞬間移動によって姿を消したせいで、二人とも何が起こったのか、ずっと状況を掴むことができなかったらしい。


 特にクラーレは酷く取り乱し続けていたようで、冷や汗を大量に掻いたことが見てわかった。


 美月達の無事な姿を見て泣き出しそうになった目が、その中に穹もいることを捉えると、その場に座り込んだ。腰を抜かしたようだった。


 そんなクラーレを置いて、ハルは装甲車の残骸や起きた出来事の話などを聞いて情報を集めて分析し、裏山の宇宙船に戻る頃には日が傾き始めていた。


 船内のリビングに入ったと同時に、穹は勢いよく頭を下げた。


「本当に、迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした!!」


 無言の反応が返ってきた。クラーレが体を震わせているのが、気配で伝わった。


「本当に、戻ってきてくれたのか、ソラ……」


 泣き出す寸前のように揺れる声に、穹の心は締め付けられるように痛くなった。一度顔を上げると、クラーレは声が表したとおり、目を赤くしていた。


「戻って、来て、くれたんだなっ……」

「クラーレさん泣いてるんですか~?」

「やめろ! 言うな!!」

「クラーレらしいねっ!」


 横から笑いかけてきた未來と美月に、クラーレはばたばたと手を振って誤魔化した。その動きが段々と遅くなっていく。


「良かった。本当に、良かった……」


 誰にいうでもない言葉を何度も何度も繰り返すその姿に、犯した過ちの重大さを思い知らされた。


 穹は再び謝った。謝っても許されないことをしたとわかっていたが、黙っていることはもっとできなかった。


 頭を下げ続けていると、足下にシロが駆け寄ってきた。じっと穹の顔を見上げ、尻尾を振っている。

 恐る恐る抱え上げると、待っていたとばかりに顔を舐められ、こそばゆさについ笑みが零れた。


「ソラ」


 顔を上げると、頭部がテレビの人物と視線が合った。クラーレよりも穹から離れた場所に一人でいたが、立ち上がると、穹に歩み寄った。そして、頭を下げてきた。


「すまなかった、ソラ。私はどんなに謝っても許されないことをした。すまなかった」

「えっ……?」

「何もわからなかった。判断を誤った。ごめんなさい。何も出来なかったこと、本当にごめんなさい」


 自分よりも背が高く、自分よりも長い時を生きてきた“大人”が、子供の穹に向かって、ずっと頭を下げ続けている。

 穹は弾かれたように「違います!」と叫んだ。


「ハルさんは何も悪くないです。悪いのは僕の方です。大切な事に気付けなくて、ずっと心を皆に隠していて、それで勝手に自滅した、僕が悪いんです」


 ですから、と胸が詰まって上手く言えない台詞を発す。


「お願いですから、自分を責めないで下さい」

「……わかった」


 ハルが抱っこしているココロが、穹に向かって小さな手を伸ばしてきた。握ると、弱いながらも確かに握り返してきて、にっこりと笑ってきた。

 許してくれたのだろうかと思うと、意図せず涙が零れそうになった。


 と、おもむろにココロが、穹の抱えているシロへ手をやった。


「いお~」

「ピ、ピイイ?!」


 がしっと耳を掴まれたシロがばたばたと腕の中で暴れた。たしなめるようにハルが一歩退いてココロとシロを離した。

 シロはココロに恐れをなしたのか、穹の腕から飛び去ってしまった。美月と未來とクラーレの笑う声が重なった。


 全て、馴染みのある光景だった。


 このリビングも、実際の時間より、ずっとずっと来ていなかった場所に感じた。新鮮さはほぼ感じず、ただただ泣きたくなるほどの懐かしさしか覚えなかった。


「ごめんなさいっ……」


 一言絞り出すと、クラーレが躊躇いがちに肩を二度三度叩いた。


「本当に、良かった」


 優しく微笑んでいたクラーレの顔が、急に険しくなった。


「だが、気がかりは残ってるな。プルートが……アイという子の行方が、まだわからないままなんだろ?」


 頷いて返したのは未來だった。そうか、と警戒心露わに考え込むクラーレの横で、ココロを下ろしたハルが、小型のパソコンを取り出した。


「それについて、私も気になることがある。ミヅキ達からの話を聞き、分析と調査を行った結果なのだが……」


 しばらく片手でキーボードを叩いていたハルが、ふと動きを止めた。


「相手の作戦。ソラが場にいない場合だと、大変危うい状況にあった。事実ミヅキとミライは追い詰められていた。

だが、ソラがいれば、危機には陥りにくい状況だった。ソラが得意とするシールド技は、銃撃戦と相性が良いからな。実際ソラが駆けつけたら、形勢逆転できただろう」


 ここが気になる、とハルが画面を見つめる。


「ソラ一人いれば戦況が覆る可能性が高い、言ってしまえば隙の大きい作戦を、なぜ選択したのか。ダークマターがこの作戦に乗り出るとは大変に考えにくい……」


 しばらくの間唸っていたハルは、パソコンを閉じた。


「考えられる可能性の一つとして、プルート本人が作戦を考えたというものがある。しかしだとしても、プルートに選ばれるほどの性能を持つロボットが、この作戦の欠点に気づかなかったとは考えにくいが……」

「わざとなんじゃないかな」


 未來の声が遮った。場にいる全員の視線が集中した未來は、どこともつかぬ場所を、ぼんやりとした目で見つめていた。


「もしかしてアイちゃん、待ってたんじゃないかな。穹君のこと。穹君が、来てくれるって、そう信じてたんじゃないかな」

「信じて……」


 耳にした言葉が渦を巻く。まさか、と言おうとしたが、出てこなかった。アイの言動の一つ一つが、蘇っていく。


 アイはずっと、自分の心に従うように言っていた。穹の味方は他にいるとも言っていた。


 そんな。まさか、だが、だとしたら。延々と声になることはない言葉が回る思考を、美月が一言で片付けてくれた。


「アイ、これからどうするんだろう……」

「わからない。だが、一つわかることは、ミライの見解が正しければ、わざと負けるような作戦を選んだこと。

そして、プルートとして、決して言ってはならないことを口にした、ということだ」


 するとクラーレが目を伏せた。半分以上疑いをかけている目をしていた。


「心は大切、宇宙に必要不可欠、か……。本当にそんなことを言ったのか? プルートのコードネームを継承するロボットは、絶対にダークマターに逆らわないようになっているって、そういうプログラムがされてあると聞いたことがあるが……」


「私もアイの思考が読めない。だが、状況を聞く限りでは、その言葉が嘘とは考えにくい。もし、アイが本当に心は大切という思考に一度陥れば、必然的にAMC計画に疑問を抱くだろうし、賛成でいることも難しくなるだろう。私という例があるように」


 しかし、と冷徹に続く。


「アイは私とは違い、プルートとしての立場がある。クラーレの言ったように、基本的に反抗が出来ないようになっているプログラムがされてある。最終的にアイがどういう判断をするかは、何も計算できないし分析出来ない。出来たとしても曖昧なものになる」


 この注釈はクラーレではなく、穹達に向けられていると聞き終わった後で気づいた。


 美月は俯き、未來はそうかあ、とますますどこを見ているかわからない目になった。穹は顔を上に向けた。宇宙船の白い天井があった。


 アイは今どこにいるのだろう。居なくてはいけない場所に戻ったのか。それともまだ機械の翼を用いて空を飛んでいるのか。飛んでいるとしたら、どんなことを考えて飛んでいるのか。


 目を閉じると、なぜだか鮮明に、青空の下を飛ぶアイの姿が思い描かれた。想像の中のアイは、顔は見えなかったが、気持ちよさそうに飛んでいる、と感じた。


「アイが、どういう判断を取るとしても。それでも、それがアイ自身の考えによるものであってほしいと、僕は思う」


 視線を戻すと、美月と未來の丸く開かれた瞳と目が合った。


「もしダークマターに戻ったとしても、それがアイが自分に従って出した答えなら、僕は嬉しい」

「……いいの? それで」


 呆気にとられた様子の美月が聞いた。


「穹……アイと凄く仲が良かったじゃない……」

「いいんだ。それになんとなく気づいていた。アイがプルートなんだろうなって」


 クラーレから話を聞いたとき、頭の中で、全て合点がいっていた。納得していた。彼女が敵なのだと。それでも自分の心すら信じられなくなっていた穹は、顔を背けたのだ。


 だがその後のアイの行動や言動からに触れて、確信は着実に固まっていった。

 一度覚悟を決めると、自分でも意外なほどに、現実を受け入れることが出来た。


 まだ目を白黒させている美月に代わり、凄いなあ、という未來の声がかかった。


「私、まだそこまで割り切れていないよ……。でも納得がいった。だから車の中からアイちゃんの声が聞こえたとき、穹君全然動揺しなかったんだね」

「はい。ああやっぱり、って気持ちでした」


 と、未來の顔が輝いた。


「あの時の堂々とした穹君、本当に眩しかったよ! あとあれも! 空から思い切り突っ込んでいくやつ!」


 あれね、と美月も頷いた。


「まさかあんなことするとは思ってなかったよ。でも格好良かった。流れ星みたいで!」

「おお、そんなに凄かったのか。見てみたい気持ちもあるな」

「えへへ。僕の必殺技になりそうです!」

「自分で技を組み合わせ奥義を生み出すとは、なかなかできないことだ。ソラは凄い」


 ハルとクラーレにも褒められ、体がぽかぽかと温かくなってきた。すっかり気分が良くなり、ふふんと鼻を鳴らす。


「あれはね、実は技名があるんだよ!」


 途端、美月の表情がぴきりと強張った。


「なんでだろう、凄い嫌な予感が」

「スカイダイビングっていう名前なんだけどね」

「あ、あれ、案外そのままの……!」

「ちなみに漢字で“蒼穹飛翔沈溺”って書くんだけど」

「そんなことだろうと思ったよ!」


 自分としては好きな単語と漢字を並べた渾身の出来だったのだが、美月はお気に召さなかったようだ。


 ええ、と不満を漏らせば目をつり上がらせて「本当に変なセンスしてるんだから!」などと声を荒らげてくる。


「変なセンスってなんだよ! 格好いいの間違いでしょ?!」

「どこがよ! あーあ、本当にどうしようもない弟なんだから! 全然変わってない!」


 怒鳴られ、これ見よがしに嘆息される。穹は言い返そうとして、ふとその口を閉じた。


 美月の顔から、怒りと呆れの感情が失われていく様子を目撃したからだ。段々と無表情になっていき、ゆっくりと目線が下がっていく。


 ついには完全に俯かれ、今美月がどういう表情をしているか、どういう感情を抱いているか、まるでわからなくなった。


 戸惑って周りを見ても、皆何も言わず、ただうっすらと微笑するばかりだった。


「だけど」


 美月の声とはとても思えなかった。今まで聞いたことが無いほど弱々しく、か細い声だった。


 足音立てず、穹に近寄ってきた。一歩、二歩と。そして、穹のすぐ前で、立ち止まった。


 おかしなもので、この時点では美月が何をしようとしているか、全くもってわからなかった。されてから、美月が何をしようとしていたか、理解することが出来た。


 気がついたら、暖かいものが穹の身を包んでいた。穹を抱きしめる美月の両腕が、ふるふると動いていた。


「弱気で、優柔不断で、冴えなくて、鬱陶しいくらい慎重で。私は、そんな弟が! 大好きなのっ!!」


 体の奥底から一気に吐き出したような、美月の大声。それは頭をつんざき、心の深くまで突き刺さった。


 その衝撃だろう。体が震えた。目頭に熱が集中した。何かが零れ出そうだった。


「僕、僕だって」


 しかし、まず何よりも先に、言葉を出さなければいけない、と思った。いっそ可笑しさすら覚える程わななく口を、必死に動かした。


「我が儘で、強引で、無茶苦茶で、自分勝手で」


 何度も何度も感じた。美月が羨ましい、と。しかし美月はきっと、穹を羨ましいと思ったことは、一度もないはずだ。


 その違いがまた、心を締め付けた。自分の小ささを、美月の大きさを、突き付けられているようで。


 だが、それでも、そうだとしても。


「そんな姉ちゃんが、大好きなんだよっ!!」


 どんなときでも心の根底を漂い続ける、その言葉。力任せに叫んだ時、破裂したように、両目から涙が溢れ出た。


「ごめんなさい、ごめんなさい、姉ちゃんごめんなさいっ……!」

「私もごめん、ごめんっ……。あんな酷い事言ってっ……!」


 穹も震える腕を、美月の背中に手を回した。一人じゃ無いのに、皆見ているのに、声を上げて泣いた。美月も泣いていて、止まる気配を見せなかった。


「お帰り、そら、おかえりっ……! もどって、きてくれて、よかっ、たっ……!」


 お帰りと、まだ言ってくれるのか。酷い事を言ったのに、まだ。

 嗚咽が止まらない。呻き声のようなものしか出てこない。それでも言った。


「みんな、ごめ、ん、なさいっ……!!」


 未來が美月と穹に抱きついてきた。未來に目でいざなわれて、クラーレも二人の事を控えめに抱きしめた。


 ハルがそっと、穹の背中に手を置いた。ココロが足にしがみつき、シロがすり寄ってきた。


 全部、暖かい。この世で、これ以上に暖かいものなど、無いのではと感じるくらいには。


 また穹の目から、涙が零れた。

 穹の心が、ここに戻ってこられて良かったと、言っていた。

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