phase4「友達が増えました」
坂を駆けるだけでは到底練習量として及ばない為、体力向上しそうなことはとりあえずやるようにしていた。
外出時もエスカレーターやエレベーターでなく、なるべく階段を使うようにし、使う際は走るようにした。
寝る前と起きた後には体操を行うようにし、登下校の際はわざと遠回りし、歩く距離を増やしている。
とにかく日常的に、歩く距離や運動の量を増やすように意識した。
家の中や学校の中など、建物内を移動するわずかな距離でも、可能ならば走るか競歩を取った。
本を読むときも部屋の中を歩き回りながら読んだ。しかしこれは、途中で思い切り足を棚の角にぶつけ、以降歩きながらの読書はやめようと心に誓った。
だが、もともと運動から逃げてきた穹にとって、いきなり増えた運動量は容赦なく牙を向けてくる。
息はすぐに切れ、胸が苦しくなり、足は痛みを覚える。何度も立ち止まりそうになるのは日常茶飯事だった。
筋肉痛にはならないように予防や対策はとってある。が、それでも無茶をしてこの前のように休まざるを得ない事態にならないよう気を付け、運動量をそこまで多くしないようにしていた。
だからなのか、未だに運動をすれば苦しさを覚える。辛さを感じる。
本当にこれで成果が出ているのか。練習が、全く自分の中で積み重なっていないものに思えて仕方なかった。
いつまで経っても辛い運動に、練習が億劫に感じることがある。
そういうとき決まって、全部無駄なのではという、不安の産物だとすぐにわかる極端な結論が脳を掠める。
すると、何もかも投げ出したくなる衝動に駆られた。この衝動の力は非常に強く、何もかも取っ払い放り投げた際の解放感を目の前にちらつかせ、穹を甘く誘う。
しかし最終的に誘惑に流されず穹が今まで続けてこられたのは、ひとえに自分の置かれている現状にあった。
穹は走るのが速い。そんな勘違いから運動の苦手な穹を運動の大役に推薦した生徒達は、勘違いがあったことにより穹の姿を認識した。
経緯こそ突飛がないものだったが、結果、皆の目に穹が映るようになったのだ。
優しい言葉をかけ、純粋な期待の目を向けてくる彼らを前に、どうして全部を投げ出すことが出来ようものか。
だん、と一歩を踏み込んだ。伸ばした手の先に、鉄の感触がする。冷たさが、坂を上って火照った体にじんわりと染みた。
息を切らしながら、旗の取り付けられた棒を掴む。振り返ると、地面は割とすぐ近くにあった。前を向き上を見ると、坂の頂上がずっと遠くにあった。
ゴールである旗の位置の移動は、ハルが提示してきた。
いきなりてっぺんを目指すのではなく、まずは目標を低く、今のソラの体力でも充分に達成できる目標で。
そう言って、旗の位置を折り返し地点よりも下に設置した。その位置はちょうど最初の頃、穹が根を上げた地点だった。
旗まで辿り着くと、今度はふもとまで駆け下り、また駆け上るを繰り返す。
さすがに毎日やっていれば、苦しいは苦しいがなんとかその位置まで駆け上ることが出来るようになってくる。
低い目標をすぐに達成できると、もう少し頑張っても大丈夫なのでは、もう少し頑張るべきなのではという思いが、勝手に芽生えてくる。
だがハルから了承を得るまでは、置いてある旗よりも上まで勝手に駆け上ることは禁止されていた。クラーレが穹の近くで一人体力強化を行っているのも、監視の意味があった。
ふーとゆっくり息を吐き出すと、どくどくと鳴っていた心臓は静まっていった。まだまだ走れると、体が言っているのがわかる。
穹は後ろを振り返った。何百メートルか向こうの森の中をゆっくり走るクラーレの姿が見えた。ちょうど穹には背を向けていた。
少しならばれないのでは。きっとばれないだろうという確信に変わっていく。深呼吸した後、足を一歩前に出した。
旗の刺さる地面を越え、定められている目標地点より上まで駆けようとした、その時だった。
ビシ、ビシと続けて背中に何かが当たる感触があった。
慌てて振り返ると、いつの間にかクラーレが坂のふもとの近くまで来ていた。
「ソラ、今無茶しようとしただろ」
手に何かの植物を持っていた。急いで背中に手を伸ばし確認すると、ひっつき虫が取れた。
「く、クラーレさんコントロール良いですね! さすがの命中率といいますか!」
「誤魔化すな」
「……なんでわかったんです?」
「勘だ。気配だ。ソラはわかりやすいんだよ」
伊達に弓に手を出しちゃいないんだよ、とクラーレはひっつき虫を捨てながら言った。
ですよね、と小さく返しながら、クラーレを甘く見ていたことを反省する。
「もう一往復しますね。でも、無理しません」
「それでよし」
一度ふもとまで下りて再び上り出した後、クラーレも付近の走り込みを再開した。
筋肉痛で休んでいた期間を除き、毎日坂を上っている穹だが、その際クラーレも必ず付き合ってくれていた。
付き合うといっても、あまり余計な事は話さず、各々自分の練習をする、と言う状況にあった。
わざわざ付き添わずに、自分の好きな時間に練習して良いんですよ、と言ったが、クラーレは首を振ったのだ。
前述の通り、穹が無理しないよう監視の意味もあると続けた後で、「一人で黙々と特訓するよりも、誰かと一緒にやったほうが集中できるしやる気も段違いなんだ。ソラもそうだろ?」と言ってきた。
確かにその通りだった。誰かに見られていたほうが、格好悪い姿を見せるわけには行かないと、根を上げにくくなる。
それが親しい者であるならば、言葉は交わさずとも、心の支えにもなるのだ。
お互い、練習中はそこまで言葉を交わさないが、練習が終わって宇宙船に戻った後は、愚痴をこぼしたりしている。
やっぱり運動はきつい、辛い、などを言い合って苦笑し合う。お互い、運動音痴の苦悩がよく共感できた。
そんなクラーレは、いわゆる人払いを行ってもくれる。
美月と未來が穹は普段どんな風に練習しているのか気になると言ってきたとき、「練習風景を見るのは駄目だ」と代わりに断ったのだ。
「この前ソラが貸してくれた本に出てきたんだがな、“男の戦い”とかいうやつなんだよ。ソラはまさに今戦ってる最中だ。静かに見守ってやっててくれ」
「……穹、どんな本を貸したの……?」
美月とこんなやりとりを交わしているところをたまたま目撃した。
「男の戦いならしょうがないね~」と未來は笑っていた。美月も首を傾げ附に落ちていないようだったが、一応納得したようだった。
この一件があったからなのか、二人とも練習について深く聞いてくることはしてこなかった。
特に戦ってるつもりは、と困惑したが、その気遣いは有り難かった。とりわけ美月には、練習しているところを、あまり見られたくなかった。
美月は運動神経が良い。今度の体育祭も、多数の種目に出場する。そのどれもに期待されているようだし、美月本人も、それを重圧に感じるどころか、楽しみとしか思っていないようだった。
「やっぱり体動かすの好きなんだよね! 難しいこと考えてるよりはずっと楽しい!」と、この頃よく言っている。
運動会や体育祭などが近づいてくると、美月はいつも高揚感に包まれた。体育テストの時ですらもそうだ。「この前より上がってるといいなー!」と楽しみにする。
そこには、そこまで落ちてはいないだろうという、ある種の自信が存在していた。実際その通りなのだから、凄いとしか思えない。
本当に姉弟なのかと思うほど、運動能力に差がある。
運動神経の良い美月に、運動神経の悪い自分が、運動神経の悪さを発揮しながら練習している姿を見られたくなかった。見られたら、恥ずかしさで足が止まってしまうだろうと、想像だけで感じた。
クラーレだけでなく、美月や未來や、ハルもあまり干渉してこないことが有り難かった。
リレーのアンカーもそれによる練習も自分が招いた種なのだから、あまり周囲を巻き込みたくなかった。
そんな意図を汲み取ってくれているのか、皆このことに関して深く話してくることはなかった。
ただ、無関心とは程遠い。ハルの場合、練習を終えて宇宙船に戻ってくると必ずよく冷えた飲み物を用意してくれている。
未來は穹と会うと、「無理しないでね~。でも毎日頑張れるって凄いよ~!」など、軽い調子で応援の言葉をかけてくる。
その調子が軽すぎず重すぎず絶妙なバランスがあって、素直に受け止めることが出来るのだ。
美月はというと、体育祭についてはあまり深い話はしてこないが、「穹と一緒にたくさんスポーツできる日が近づいてきているのかな」と、一人言のように話していた。
それがとても嬉しそうだったことに穹はとても驚いて、何とも言えない気恥ずかしさと、嬉しさを覚えた。
申し訳ない気持ちもあるが、純粋に、有り難い。
心折れず頑張ってこられたのは、嘘つきになりたくない、裏切りたくないという気持ちも大きいが、間違いなく、ハル達の支えがあったからだ。
純粋に、それを噛みしめることが多い。だから尚更頑張りたいし、決意が固まっていくのだ。頑張らねば、という思いが。やり遂げなくては、という思いが。
何度目かの、坂を駆け上っては下りを繰り返していた時だ。旗の地点まで辿り着いて、腹の底から鼻にかけてゆっくりと息を出した後、背後を振り返った。
すると、少し遠くの木々に紛れて、芝生の上に何かの物体が落ちているのが見えた。
森の色である緑に紛れて小さな紫色が目に映ったとき、それが大の字になって倒れているクラーレだとわかった。穹は飛び降りる勢いで坂を駆け下りた。
「クラーレさんどうしたんですか!! 大丈夫ですかっ!!」
急いで駆け寄ると、クラーレは寝転がったまま、しっかり開かれた黄色の両目を穹に向けた。
「疲れた。休憩」
「……」
一気に脱力し、気がついたらその場に座り込んでいた。衝撃が大きかったのか、立ち上がれそうにない。
走っている最中、全くと言って良いほど弱音を吐かないクラーレにしては珍しいことだった。
だが疲れたと言う割には、そこまで疲弊しているようには見えなかった。声からも疲れの色はそこまで感じ取れなかった。疑問を隠せないでいると、ふいにクラーレが天に向かって指を指した。
「ほら、ソラも休憩だ。疲れてるようだし」
「えっ、いや僕はまだ……」
「また筋肉痛になるぞ」
そこを持ち出されてしまうと弱い。しばらく言葉を詰まらせたが、穹もクラーレと同じように、芝生の上に大の字になった。
実際、少し体が苦しさを覚えていた。それを察知してクラーレは休憩を提言したのだろうかと、ふいに感じた。
木の梢と、その先に広がる青い空が見えた。秋の高い空に、もこもことした形の羊雲がいくつも連なり、並んでいる。
青と白のコントラストに、時折黒いシルエットが混ざった。鳥は遙か上空を真っ直ぐ羽ばたいていき、そこからは自由さしか感じない。
風に乗って流れる雲をぼんやり目で追っているうち、ふと、久々にじっくりと空を眺めたことを思い出した。
今まで、暇さえあれば教室で空を見ていたが、最近はすっかりその時間が減っていた。
少し久々に、改めてじっくり見た空は、どこか変わっているようで、しかしやはり自分の知っている空と変わりなかった。
「僕、空が好きなんですよね」
気がついた時にはそんな台詞を発していた。
天を見上げたまま言ったので、言葉がそのまま秋空に吸い込まれていくようだった。
「俺もだ。この星に来てから、空や星を見るのが好きになった。地球の空は、綺麗な色をしてるな。今まで色んな星を旅してきたが、地球の空が一番綺麗だと思うぞ、俺は」
「そうなんですか! なんだか嬉しいですね。ありがとうございます!」
それで会話は終わったかに思えた。だが、話が続いている気配が、どこかに存在していた。
奇妙な沈黙の時間だった。言葉を探している間に生まれるそれとよく似ていた。クラーレが何かを言おうとしているのだと、穹は勘付いた。
「まあ、大体、どの星のどんな空も綺麗に見えるんだよな。ベイズム星の空は、汚いから」
軽い調子で言ったためか、あくまでも深刻さは薄かった。あえて薄くしているのだとわかる声だった。
穹は、空を見たまま、両目を少し見開いた。何も言えずに、押し黙った。
「どんより濁っている、黄色い空だ。黄色だけじゃ無くて、紫や灰色や茶色も混じってる。汚い空だよ。見てるだけで吐きそうになってくる色合いだ」
穹に言って聞かせるにしては、荒い言葉遣いになっていた。
吐き捨てるような口調に、気づかぬうちに一人言として言っているのだと伝わってきた。
遅れてクラーレも気づいたのか、ばつが悪そうに口を閉ざした。
穹は、空を見続けるしかできなかった。
春よりも夏よりも高く見える、秋の空が広がる。そこに、微妙に形が異なり、一つとして全く同じものは存在しない羊雲が浮かんでいる。
空の青は見慣れた色だった。生まれた時から、生まれる前からずっと眺め続けた空の色。
この色が穹にとっての当たり前であり、この色を持つ空の広がる地球が穹にとっての常識だった。故郷の象徴でもあった。
青ではない空の色を見続けたら、きっと穹の心は不安定になるだろうと思っていた。
「でも、僕。黄色い空も、見てみたいです」
クラーレはどうなのだろうか。黄色い空に、懐かしさを抱くときがあるのだろうか。
黄色い空を、黄色い空が当たり前な、クラーレに居場所を与えなかった星を、否定することは簡単だけれども。
ここにいる“クラーレ”が生まれた星を否定するのは、簡単にして良いことではない気がした。その星が無ければ、クラーレとも出会えなかったのだから。
「ソラが見る必要はない。わざわざ。あんなところ」
上体を起こしたクラーレは、簡潔に述べた。それから流れた沈黙は、長かった。穹は、沈黙を破るために話題を変えようとは、考えなかった。
その時間は、突然終わりを告げた。
「……閉鎖的な星だよ、ベイズム星は。だから仮にソラが行ったとしても、多分受け入れられないさ。というより物理的に無理だ。大気中の毒の濃度が濃すぎる。ベイズム星人以外は、防護服無しじゃ着陸出来ない」
口を開いたクラーレの声は、いくばくかトーンが落ちていた。
「星だけじゃない。国も、町も、全部閉鎖的だ。自分の力だけ……いや違うな。自分の持つ毒性だけ信じてる。そんな奴らばっかりだ。自分の毒性を鼻にかけて、優位性を見せる。自分より弱い毒性の奴は見下す。俺の中でのベイズム星人は、そんな印象が深い。
毒性の強さが、全てに左右されるといっても過言じゃない。権力ある奴らや地位のある奴らは、全員、無駄に毒性が高い連中ばかりだ。奴ら全員集まれば、銀河一つを滅ぼせるんじゃねえか……ってくらいにはな。まあ実際できるんだろうが」
クラーレは可笑しくなさそうに口だけで笑った。
自分だけ寝転がったままなのも忍びなく、穹は体を起こした。
クラーレは穹のほうを見ず、青い空にずっと目を向けている。まるで、空に向かって話しかけているように映った。
「……ベイズム星にも図書館があってな。しょっちゅう入り浸ってたんだが、そこでベイズム星の歴史も知った。結果、大体の歴史は、毒で支配してきたってことがわかって、納得がいったよ。どうしてああいう人間性の奴らばかりなのか。
こうして振り返ると改めて思う。あそこにずっといるのは、地獄だ。星を追い出されて良かったって、つくづく感じてる。じゃなきゃ、この星に来られなかった。……皆と、出会えなかったからな」
風が吹いた。通り過ぎていった後、全て振り切るようにしてクラーレは勢いよく立ち上がった。
「つまんない話したな。何を言ってんだろうな俺は。すまん」
「いえ、いいんですよ。聞けて嬉しかったです。本当です。ありがとうございます」
頭を下げると、小さく頷くのが影の揺らぎでわかった。
「お礼はこっちが言わなきゃだよ。……心が軽くなった。聞いてくれてありがとう。ソラは聞き上手だな」
「いえ、そんな! でも、どういたしまして。……頼りないかもしれませんけれど、話聞くくらいなら、いつでもやりますよ」
「……さて、特訓再開するかな」
「あ、じゃあ僕も」
穹も立ち上がり、坂のほうへと歩き出したときだ。背中に、「ソ、ソラ!」とどこか様子のおかしなクラーレの声がかかった。
「えーと、ソラ?」
振り向くと、声からもわかるとおり、その挙動は明らかにおかしかった。視線は泳ぎ、やけにそわそわと落ち着かない。
少々大袈裟すぎるが、何か言いたいことを伝えたいときの仕草に似ていた。
「お、俺とソラは、その、あれだろ? と、年は離れてるけど、でもそこまでじゃないだろ?」
「ま、まあそうですね」
穹は狼狽を誤魔化しきれないまま頷いた。
確かに穹とクラーレは五歳年が離れている。が、なぜ今更それを持ち出すのか。
「えーと、だから、つまり、その、なんだ。な、仲間で、その、と、と、友達ってやつ、だろ? お、男友達ってやつ」
クラーレが一層声を上ずらせながら話し始めた。とりわけ「友達」と言ったときは、尚更強い緊張が走ったようだ。
こんなに動揺して、一体何を話したいのか。
クラーレの強い緊張がこちらにも伝わってきて、つい背筋が伸びた。固唾を呑んだとき、自分で自分に埒があかないとばかりに、クラーレは乱暴にかぶりを振った。
「……つまりだな。……ため口で話さないか、俺ら」
穹は何度か頷いた。言われた事を理解しようとした行動だった。
が、出来なかった。
「え、ええええっ?!」
「俺がこんな口調なのに、ソラがいつまでも敬語なのが気になってんだよ! 俺がソラに意地悪やってるみたいでな!」
クラーレはかっと目を見開き捲し立てた。
「どうだ! 嫌か! 嫌なのか!」
「いえ、いや、嫌では!」
「じゃあため口だ!」
「は、はいっ!!」
「はいじゃない!」
「で、でしたね、えと、う、うん!!」
「よし!」
満足げに頷いてきた。一気に連続で大声を発したため、穹は軽い息切れを起こした。
「とにかくこれで正式な友達ってやつだ。……だからな、ソラ。あまり背負いすぎるんじゃないぞ」
「……えっ?」
息を整えながら、目をぱちぱちと瞬きした。先程までの動揺や緊張はどこにいったのか、クラーレが静かな目を穹に向けた。
「あまり抱え込みすぎるんじゃないぞ。頑張る意気込みは良いがな、頑張りすぎると体も心も調子を崩すだろ。どんな些細な事でもいいから、なんでも話してくれ。頼りねえかもしれないが、いつでも付き合うぞ。……ソラが今、俺の話をちゃんと聞いてくれたように、な」
言った後で、クラーレは苦笑した。
「最初壁を作ってた俺が、言うことじゃないかもしれないけど」
何も、言えなかった。胸が詰まって、「はい」としか言えなかった。
「……ありがとうございます。……ありがとう、クラーレ」
でも、と穹は顔を上げて、にっこり笑った。
「今は特に辛いと思ってることや苦しいことはないから、平気だったりするんだよね。気を遣ってくれて、ありがとう!」
「そうか? なら、いいんだけどな」
実際その通りだった。頑張ることそのものには、そこまで辛い気持ちを抱いていなかった。
期待を向けられるのは、自分が見えていなければできないこと。自分が周りに見えていて、その結果期待されているのなら、頑張りたかった。自分がそうしたかった。ずっと、透明人間から卒業したかったから。
クラーレは、どこか気遣わしげな視線を、まだ穹に注いでいた。
その日、夕方頃から天気が崩れ始めた。薄暗い雲があっという間に青空を覆い隠し、そこから雨が降り出すまでさして時間はかからなかった。
夜になる頃にはすっかり土砂降りになっていた。
屋根に雨が落ちる音が絶え間なく鳴り、風も強かった。雨風が吹きすさび、雨粒が激しい音を立てながら窓にぶつかる。
夜の闇と、雨で煙り一寸先も見えない住宅街の景色を、穹は二階の廊下の窓からずっと眺めていた。
一階から二階に上がった際、激しい雨音に釣られて窓から外を覗いて以降、その場から離れることができないでいた。
「穹? どうしたの?」
階段を上る足音が聞こえた後、声がかけられた。振り向くと、美月が不審そうに立っていた。穹はちょっと、と曖昧に答えて、また窓の向こうに目をやった。
「雨が激しいな、って」
「確かに風も凄いよね。って、なるほど、怖いんだね?」
含み笑いを見せてきたが、穹は首を振ってすぐに否定した。
突っかかってこないことを疑問に思ったのか、美月はすぐに笑顔を消し、「何かあった?」とやや真面目に聞いてきた。
「うん……。ちょっと……」
びゅう、と大きく風が鳴った。街路樹がうねり、ざんざんと窓に雨粒が一斉に張り付く。大きな振動を見せる電線を見る穹の脳は、あることで占められていた。
小鳥は、大丈夫なのか。
小さな青いシルエットが、頭に浮かぶ。あんなに小さいのだ。雨に濡れて体を冷やしてはいないか。何より、この風で飛ばされてはいないか。
時折思い出したように吹く強風に為す術なく煽られ、宙を舞う小鳥の姿が思い描かれる。
この雨風に
「穹、大丈夫……?」
その瞬間だった。ばきい、と妙な音が聞こえてきた。
窓の向こう側の世界に現れたのは、風で折れたとみられる木の枝だった。それはちょうど、小鳥と同じくらいの大きさだった。
心にのしかかっていた不安が消えた。その不安は、穹の体の動きを止めていた。それが消えた。穹は窓から離れ、早足で階段へと向かった。
「ちょっと、どこ行くの!」
「外」
「……はっ?!」
「外」
ややあって、美月が背後で何かを喚くのが聞こえてきた。両親や祖父に止められる前に、穹はレインコートを着ると、その勢いで外に飛び出した。
そして、全速力で公園へ駆け出した。
雨も風も、家の中から見ていたより、ずっと激しかった。体を打つ雨の量は多く、視界を遮った。
更に、行く手を阻むように向かい風が襲ってくる。向かい風は雨を運んでくるため、顔に向かって雨粒が飛んでくる。
レインコートのフードをしっかり被っていても、びしょ濡れになった。
自宅からそれほど距離は空いていないはずなのに、児童公園が遠い目的地に感じられた。それでも、止まろうという考えにはならなかった。
両腕を振り、アスファルトの道路を着実に蹴りながら、走り続けた。
雨も風も穹の意識を妨げるものではなかった。小鳥の安否以外は、全てどうでもよかった。
雨を切り風を切り、全速力で駆け続け、児童公園に辿り着いた。
夜の闇と、土砂降りの雨に包まれる公園は、ただただ暗く、重苦しい空気が立ちこめていた。雨音がずっと響き、雨音に包まれ大層うるさいのに、静かで寂れた場所に感じた。
軽く見回したが、小鳥はいなかった。歌声も聞こえてこなかった。悪い視界の中、穹はブランコの向こうの低木の茂みに向かってまた走った。
「おーーーい!!! 大丈夫ーーー!!!」
初めて小鳥と会った場所で、穹は声を張り上げた。だが何度呼びかけても、小鳥の姿も見えなければ声も聞こえなかった。
見えるのは、真っ暗な公園と、無数の雨粒だけ。聞こえるのは、ざーという激しい雨音と、吹く風によってもたらされる周りの物体が揺れる音だけ。
そこに青色の影が見えることもなければ、小さいが耳に残る澄んださえずりが聞こえてくることもない。
風が吹くと、一斉に木々がざわめき、派手だが不気味な音を立てた。
雨を防ごうともせず、穹はその場に呆然と立ち尽くした。ゆっくりと目を閉じた。考えたくない不吉な想像が頭をもたげていった。
ちゅん。
その音が耳に届いた瞬間、大きく目を見開いた。空耳を疑わざるを得ないほどの微かな音。
しかし確かに、雨が地面に叩きつけられる音の狭間を通って、穹の耳に届いた。
「そこにいるの?!」
音が確かに聞こえてきた、傍に生えていた低木に近づいた時だった。雨に濡れる茂みの隙間から、何かが飛び出してきた。その小さな何かは、一目散に穹の元へ向かってきた。穹はそれを反射的に両手で受け止めた。
受け止めたものを確認した穹は、そのまま言葉を失った。
雨で体毛はすっかり濡れており、色が滲んで普段よりも濃い青色になっているが、間違いなくあの小鳥だった。見間違えようもなかった。
両目に、雨ではない水滴が滲み出てきそうになった。それなのに、口は笑っていた。
「無事、だったんだね……!」
小鳥はちゅんちゅんと鳴いて、それに答えた。雨音も風音もあるのに、このこの鳴き声はしっかりと聞こえた。
抱きしめようとした瞬間、びゅうと大きく風が吹いて、穹の体が大きくよろめいた。
「と、とりあえず雨がやむまで、僕の家に避難したほうが良いよ! 今から連れてくからね、ちょっと狭いけど、もう少しだけ我慢して!」
早口で告げて、両手で小鳥全体を緩やかに覆った。
『ああ、良かった。助かった。本当にありがとう。ソラなら来てくれるって、信じていたよ!』
穹は周囲を見回した。けれども、夜なうえに公園の外れ。しかも悪天候。誰かいるわけがなかった。
「……ん?」
しかし、確かに聞こえてきたのだ。雨音を縫って、風音を縫って、高い声が、鼓膜を揺らしたのだ。
「だ、誰?」
まさか。まさかお化けでは。はっと嫌な予感がして、瞬時にぞわぞわと背筋が冷えていった、その時。
手の中で小鳥が動いた。穹はそこに目を落とした。小鳥は、真っ直ぐに穹のことを見上げた。
『ワタシ! ワタシだよ!』
「ええええええええええ!!!!!!!!!!」
雨音も風音も全て突き抜けるように、穹の絶叫が響き渡った。
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