phase4「孵る卵」

 目の前で起きたことは、果たして、本当に現実なのだろうか。


 伸ばせられる限界値まで伸ばせられた、美月の両腕。


その中に、すっぽりと、卵が収まっていた。


 美月は何度も目を瞬かせた。

何回瞼を上下させても、卵の姿は消えない。


 卵が幻。

そうでないことは、伝導する熱と、左右に揺れる振動でわかる。


ぱきいっ。


 今までとは、明らかに違う音が耳に届いた。

その瞬間、無音だった世界が、一斉に音を奏で始めた。


ぱきり。


 何か白いものが、美月の腕に落ちた。小さく、堅い。小石のようだが、それにしては薄い。

卵の殻だった。


 亀裂が、完全に走り去っていく。

漏れ出す光が、強くなる。


亀裂に隙間が、出来ていく。

卵は刻一刻と、その姿を変えていく。


 待ってと言っても、待ってはくれないだろう。

そんなこと、言うつもりなどないのだが。


ことこと。


 小刻みに揺れる卵。その上半分が、持ち上がった。

何かに押し上げられるようにして、上へ上へと。


ぽとり。


 その殻が、落ちた。


 酸素を取り込めない。二酸化炭素も吐き出せない。

美月はその瞬間、確かに息が止まっていた。



 犬。

犬が卵から生まれてきた。


 そんなはずはない。

わかってはいる。なのに、犬にしか見えない。


 見た目は柴犬のようで、チワワくらいのサイズ。

けれど、これが本物の犬だとは言い張れない。


耳とは別に、角が生えている。

短い角が二本。その奥に、長い角が二本。トカゲのような尻尾。


 そして極めつけは、背中に生える翼だ。

畳まれているが、広がったら、物語の中に出てくるような竜の持つ翼になるだろう。そう窺える、コウモリのような翼だった。


 体中が濡れていた。

真っ白な体毛に覆われているが、雨の中をずっとさ迷っていた直後のような見てくれをしていた。


 卵は、卵の中から出てきた子は……。

この子は、黄緑色の目をしていた。

くるんと丸っこい目で、若葉のようにきらきらと輝く眼で、美月の目を見つめていた。


 残っていた卵の下半分から、その子は這うように抜け出した。

そうまでして辿り着いた行き先は、美月の、更に近い腕の中だった。

その体全身を使って、すりすりと寄せてくる。


 殻越しに伝わってきていた温もり。

これが、この子の持つ本当の熱だった。


 美月は抱きしめていた。卵ではなく、その子を。

この瞬間、この星に誕生した命を。




「良かった……!」


 本当はもっと大声で叫びたかった。そうしたつもりだった。しかし出てきたのは、絞り出してやっと出てきたようなものだった。


 潰さないように、でもしっかりと、小さく白い体躯のその子を、背を丸めて深く抱きしめる。

がくん、と足の力が抜け、その場に腰を落とした。


「生まれたね」


 いつの間にか、すぐ隣に穹が立っていた。

美月は馬鹿みたいに、何度も何度も頷いた。


「……あなた、どうして卵を放り出したりしたの?」


 余韻に長湯している場合ではない。

美月は思いだした。

今この場にいるもう一人の人間が、何をしたかを。


「……とにかくそれを連れて行かないとね、私の立場が危なくなるのよ!」

「だとしたらますます、丁重に扱うべきじゃないかな……」


 ぼそりと言った穹の言葉は、聞こえていたようだ。

ビーナスはぱっちりとした二重の目をつり上がらせて、「うるさいわよ!!!」と甲高い声を上げる。


「なんでもいいから、とっととそれをよこしなさい!!!」


 耳鳴りがしそうな程の高さだ。

耳を塞ぎたくなるのを耐えながら、美月は負けじと、高く叫んだ。


「それって、言わないでよ!!!」


 立ち上がってからは、早かった。流れるように、指をコスモパッドに押し当てた。


「コスモパワーフルチャージッ!」


 穹が躊躇して言えなかった名乗りの口上を上げる。

あっという間に、美月の姿は変わっていた。衣装も、表情も。


 この、腕の中から真っ直ぐに見つめてくる存在。この子をむげに扱った事実は、どうやっても覆らない。

自分のしでかしたことがどれだけのものか、きちんとわからせなくては。

この煮えたぎる腹の底が、治まりそうにない。

美月の目が、正面を向いた。


 鬼女のような面相で肩をいからせながら、ビーナスはこちらへ距離を縮めてくる。


穹が押されてヒッと情けなく息を吸い込むなか、美月は冷静だった。ひとまず穹にこの子を預けて逃げてもらおう。そう考えていた時だった。


 プレアデスクラスター。美月の腕の中にいる、生き物。

その子が突如として、ぱっくりと、大きく口を開けた。

短い牙が覗く。


 威嚇だろうか。

どうしたの、と美月が腕の中に目を落とす。


 もともと小さい体なので、口はもっと小さい。その口が大きく開かれたところで、威嚇としては全く成り立たない。

ちょっと苦笑しかけた時だった。



 その口から、青と白の混じった光線が吐き出された。


 口を、体をゆうに越える高さ、太さの光線だった。

美月と穹など、いとも簡単に呑み込まれてしまいそうな程。


 他の、全ての、光という光が、光線に吸い寄せられたかのようだった。

それくらい、周りの明るさが全然わからなくなるほど、強烈な光だった。

むしろ、周囲の光が消え、一瞬にして夜になったのではと感じてしまう程。


 光は音も無く、しばらくの間吐き出され続けていた。



 光線が走って行った場所。

光がやんだ時、ラインを引くようにして真っ直ぐ一直線に、深い溝が出来ていた。

草は消し飛んでおり、土は抉られている。

この丘に、茶色い線が新たに描かれた瞬間であった。


 ビーナスは、無事であった。

プレアデスクラスターが口を開けた瞬間、動物的本能が危険信号を発したのか。


 彼女は横に大きく逸れた先で、情けなく腰を抜かしていた。

表情は呆けているのに、体はがたがたと震えている。

頭よりも先に体が、恐怖を理解しているようだった。


「今日は、今日だけは、帰ってあげるわ! でも、次はこう上手くいくとは思わないことね!」


 典型的な負け犬の遠吠えを振りかざしながら、ビーナスは何度も足をもつれさせ、転びかけながら、ばたばたとその場から走り去っていった。

なまじ容姿が完璧なだけに、その後ろ姿は滑稽さをよく表していた。


 ちかちかと痛む目で、穹はその後ろ姿を見送る。

見えなくなった後で、少しだけ肩を落とし、ため息を零した。


「そ、穹、この子がっ……!」


 切羽詰まった美月の声が聞こえてきたのは、その時だった。

ビーナスを追い払った張本人である、その子。


 それは、美月に抱かれながら、ぐったりとその身を横たわらせていた。

若葉色の目は閉じられて見えない。呼吸も荒く、更に不安定だ。

ぜいぜいと、すきま風のごとく小さな息が漏れ出している。

その息に合わせて、体も震えていた。


「どうしよう、どうしよう……!」


 間の悪いとはこのことか。ここで雨が降り出した。

曇天の空から、冷たい雫がぽたりぽたりと落ちてくる。

美月の両目からも、ぽつりぽつりと、熱い雫が垂れてくる。


「どうすれば、そんな、どうしよう……!」

「落ち着いて! とにかくハルさんのところに行こう!」


 ほら! と穹が美月の片腕を掴んだ時だった。


「美月~、こんにちは!」


穹にとっては、あまり聞き覚えのない声。

美月にとっては、とても聞き覚えのある声。


 二人が振り返った先にいたのは。

降ってきちゃったね~と空を仰ぐ、未來の姿だった。


「本当はもっと早く出て行きたかったんだけど、なんかお取り込み中みたいだったので!」


 あはは~と手を頭にやり、未來はにこにこと笑う。


「すっごい光だったね、あれ!」


 光、と美月は口だけでその単語を反芻する。


「未來……。いつから……どこから……見てたの……?」

「え? うーん……全部!」


 邪気の無い顔で、未來は大きく笑う。

美月は、世界がぐるぐると回っているような気がした。

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