phase3.2
もうそろそろ戻ろうかと、腰を上げたときだった。
美月は前方から、二つの人影が丘を登ってくるのが見えた。
それが穹だとわかり安堵したのも束の間、その後ろをついてくるのは全く知らない人であり、美月は瞬時に体を堅くした。
抱いている卵に視線を落とす。
このままでは、この卵のことがばれてしまう。
急いでその場を離れようとしたが、遅かった。
「あ、姉ちゃん!」
きびすを返したちょうどその時、背後から穹が走り寄ってくる音が聞こえてきた。
無視するわけにもいかず、観念して振り向く。
穹の顔は、走ってでもきたのか、心なしか少しだけ頬が赤かった。
妙に笑顔で機嫌の良い穹とは対照的に、美月は顔を険しくさせた。
どうして怒っているのかと、穹は締まりのない表情のまま、頭を傾ける。
卵のことを忘れたのかと怒鳴りつけようとしたところで、その場にいる美月と穹以外の存在が口を開いた。
「あら、こんにちは」
高いが、耳に溶け込むような柔らかい声。
花が綻ぶようにして、ふわりと優雅に笑いかけてきた。
とても綺麗な容姿だ。同じ女である美月からしても、思わず息を飲んでしまうほど。こんなに美しい人など、テレビの中のモデルやアイドル以外に見たことがなかった。下手をすれば、その人達よりも上かもしれない。
事実美月は、芸能人だろうかと感じた。
まるで、バラの花のようだ。
だからだろうか。かすかな近寄りがたさのようなものを、美月は感じた。
「穹君のお姉さん?」
「は、はい。そうですが……」
女性の目が抱っこ紐に一瞬注がれたが、すぐに逸らされ、美月の目を真っ直ぐに見つめてきた。
妙な子だと思われているのかもしれないが、それをおくびにも出さないところに、完成された完璧な大人の技を感じた。
「それで、卵はどこかしら?」
「あ、持ってくるので、ここで待ってて下さい」
は、と素っ頓狂な声を上げそうになった。
何を言っているのか、何をしようとしているのか、一切わからない。
穹は山に入ろうと足を向きかけたところで、今やっと気づいたのか、美月に装着されている抱っこ紐を見た。
「そういえば姉ちゃん、何を抱えてるの?」
隠す間も無ければ距離を取る暇も無かった。
言うやいなや、穹は抱っこ紐の中を覗きこんだ。
あれ、と大きな声を出した穹の腕をむんずと掴むと、美月は女性から少し離れた位置に移動し、小さく話しかけた。
「穹! ダメじゃないの、他の人に言っちゃって。しかも、全然知らない人に」
「大丈夫だよ。この人、鳥に凄い詳しいんだって! きっと力になってくれるよ」
「いやでも、もし騒ぎになったら……」
「平気平気。この人、優しい人だし」
「いやそういうことじゃなく!」
この卵が地球のものではないとばれたら?
だとしても、まさか宇宙生物の卵とは思うまい。
心配なのは、新種だと騒がれ、この卵を然るべき所に連れて行かれてしまうことだ。
そうなったら、きっともう、会うことは出来ない。
この子と一緒に遊んだりなんて、夢のまた夢になってしまうだろう。
「どうしちゃったの、穹?」
「どうかしてるのはそっちだよ。大丈夫だって」
美月としては、ただ少し慎重になっているが故の行動だった。
だが穹は、拒む美月のほうを、おかしいと思っている。
そもそもなぜ拒むのか、全くわかっていそうになかった。
両者一歩も譲らず、押し問答を続けていた時だった。
「あら、それが卵かしら?」
いつの間にかあの女性が美月達のすぐ後ろに立っており、抱っこ紐の中を覗き込んでいた。
美月は急いで卵を両腕で抱え込み、距離を置く。
警戒心を剥き出しにした態度に、女性では無く穹のほうが、咎めるように睨んできた。
「それは失礼だよ」
「あら、いいのよ。驚かせてしまったのはこちらの方だもの。それより、不思議な見た目の卵ね……。私、今まで見たことがないわ」
これは石です、と言ってしまおうか。しかし美月が思案している間に、穹が頷いて肯定してしまった。
「ちょっと、その、お、お姉さんの目に似てると思いません?」
どこがだ、何を言っているんだと美月は心の中で悪態を吐いた。卵は白に近い青色をしている。女性の目の色のほうが濃いではないか。
「まあ本当? なんだか嬉しいわ!」
小さく手を叩く女性の笑顔に、美月はことさら警戒色を強めた。
実に可憐だ。守ってあげたいと本能で感じさせられる、そんな笑みだ。特に男性は、必ず落ちるかもしれない。
けれども美月はそこに、計算性が見えた。
なぜだろう。素晴らしい笑顔だというのに。
いや、素晴らしすぎるのだ。
この完璧な笑顔は、見覚えがある。
マーキュリーのとは、質が違う。が、似ている。
「もっとよく見せてくれないかしら? もちろん、取って食べたりなんてしないわよ」
「あはは、目玉焼きとかオムレツとか?」
こいつは、今この人の味方になっている。
止めようともせず、受けたと感じ一人で笑っている穹は、頼ることが出来ない。
女性は両腕を広げ、一歩ずつ美月に近づいてくる。
今も尚、笑ったままで。
「本当に何もしないわよ。ただ、見せてくれるだけでいいの」
女性の青い瞳が、下を向く。抱っこ紐を通して卵を見つめている。
その瞬間、美月は見逃さなかった。
女性の口角が、わずかに上がったことに。
それによって作り出される、笑みを。
質が違う。
裏。今までの笑みが表というなら、それは裏の笑みだった。
ちょうど女性の後ろにいる穹からは、見えていなかったようだ。
いいじゃない、と美月に卵を見せるよう促してくるのをやめない。
一気に走れば。振り切れるか。
視線を後ろに向けた時だった。
「ただ役に立ちたいだけなのよ。大切なものっていうのはわかるけれど。ね、私を信じて」
近くで見たら、圧倒されそうだった。
本当に美しかった。完成された色香が漂ってくる。
別に良いだろうか。考えすぎだろうか。
なぜここまで警戒しているのか、わからなくなってきた。
しかし美月は、抱いている腕に込めている力を、緩めなかった。
「嫌です!!!」
間近から伝わってくる、卵の温もり。
それを手放すことが怖かった。放したら最後、もう二度と戻ってこない気がした。
「あら、どうして?」
「姉ちゃん、この人は本当に、ただ力になりたいだけなんだよ?」
穹が近寄り、卵に手を伸ばしてきた。
美月は更に二人から後ずさる。
「やだ!!!」
首を振りながら、卵をしっかりと抱きしめる。
「この子は、私の宝物なの!!! 誰にも渡さない!!!」
「あのねえ、私は本当に何もしないのよ?」
「本当に何もする気が無い人は、何もしないなんて言わない!!!」
たった今頭の中に思い浮かんだ、自分でも無茶苦茶だと思うこじつけだった。
もしハルがいたら、「そんな理論は無い」と訂正されていただろう。
同時に、ここにハルがいたら、と美月は泣き出しそうになった。
もしハルがいたら、わかるはずだ。
自分の勘が、当たっているかどうか。
「ね、姉ちゃん……?」
穹が呆れと、不安と、心配を上手いこと混ぜた表情を浮かべる。
置いてきぼりの穹に申し訳なさを覚えつつ、美月は頑なな態度を崩さなかった。
「もう……。ほんのちょっとだけでいいのよ、ねえ」
「本当は、何をする気なの?! 力になりたいとかって、どうせ全部嘘でしょう?!」
ここまで失礼なことを言えば、さすがに引いてくるか。
というより、不愉快な気分になって、帰ってくれるはずだ。
だが、美月もそうだが、女性は譲ってこなかった。
つかつかという擬音が聞こえてきそうな程、近寄ってきたのだ。
あっという間に間合いを詰められ、美月の左手首をがっしりと掴んできた。
「ちょっとだけでいいって、言ってるでしょう? その卵、早く渡しなさいよ」
あわあわと蚊帳の外で慌てている穹には聞こえない声量で、話しかけてきた。
綺麗な声であることは変わらない。だが、どすのきいた、圧が含まれていた。
まずい、と美月の体は一斉に危険信号を発し始めた。
長袖を着ているので、コスモパッドは外から見えない。しかしこうやって掴まれては、手首に何かつけていることはわかってしまう。
女性が掴んできたのは、まさにコスモパッドを嵌めている位置そのものだった。
そんなに力を入れたら、壊れてしまうのでは。
そう危惧してしまうほどの力だった。
穹の目があるので、表だって力を出しているようには見えない。
けれど、確かに痛い。
陶器のような白い手が、美月の手をぎりぎりと食い込む。
マニキュアが塗られ、美しく手入れされた爪が、服越しに皮膚に食い込む。
美月は顔をしかめた。
抱っこ紐から、卵から、手を離しそうになる。
痛みで力が抜けていく手を見て、女性はにっこりと笑った。
「ね、この穹君のお姉さんならわかるでしょう、お嬢さん。良い子だから、ほら」
例えるとするなら、包み込んでくれる、大きくて柔らかな布。
そんな、隠そうとしても滲み出る母性が含まれている声、そして表情だった。
大人びた女性と、愛らしい少女のような雰囲気を、巧みに使いこなしている。
時と場合に合わせて、器用に。
普通はまず騙されないだろう。それ以前に、それが嘘だとか、計算だとか、思わせもしない。
「あなた、なんかに……」
だからこそ、一度疑ってしまうと、滑稽なまでにわざとらしく感じてしまう。
「私と穹の、何がわかるっていうのよ!!!」
一気に手を振りほどいた。つもりだった。
女性の手は、依然として、美月の手首を握りしめたままだった。
びくともしない。
それどころか、更に力が込められていた。
そう、と小さく呟かれた。身を震わせずにはいられない、声だった。
「気づいたのね。あなた」
美月は脳裏に、魔女の姿が浮かんだ。
目の前にいるのは女神ではない。魔女だ。
魔女は、美月の右手首も掴んできた。
抱いている卵から、美月の両手を離そうと、外側へと割り裂いていく。
「ううっ……」
手首も痛い。眼前に立つ女性の、恨みのこもった刺すような視線も痛い。
美月はどうにかして振りほどこうと力を込める。が、全くその成果は出ない。
華奢で、抱きしめれば折れてしまいそうな体型からは想像もつかないほど、女性の力は凄まじいものだった。
割と運動は得意なほうである美月だが、文字通り手も足も出なかった。
どちらの手も塞がれているせいで、変身することも出来ない。
それでも、手を離すまいと、抵抗することはやめない。
そんな美月の努力も空しく、両腕はどんどん外側に開かれていく。
「なんでこんなことされるかわかってないけどね、これも命令なのよ。悪く思わないでちょうだいね。プレアデスクラスターの卵、ターゲットの近くにいたら、回収しろって」
皮膚が食い破られそうだった。骨がぎりぎりと音を立てている。
このままでは折れる。そうでなくても、捻られる。間違いなく。
自然と瞼が垂れ下がっていく。だが、美月は閉じなかった。
睨み付け、「させないんだから!!!」と張り上げる。
途端に美月の声は、美月自身の「ぐうううっ……!」という声により、途切れた。
「姉ちゃん、どうしたの?!」
さすがに様子がおかしいと判断した穹が、駆け寄ってきた。
美月の手首を、あからさまに力を入れて掴んでいる女性。苦痛に顔を歪める姉の姿。
「何をしているんですか?! 離して下さい!」
穹の顔色が変わった。
「穹……。こいつ……ダーク、マター……」
美月が、汗の滲む顔を、穹に向けた。
「えっ……?」
「変身して……ちょうだ……。助けて……。たまご、が……」
途切れがちな声は、全て痛みのせいだ。痛いのは手だけのはずなのに、喉まで掴まれているようだ。
困惑気に女性の顔を見上げた穹に、女性は女神のような笑みをたたえたまま、言った。
「セプテット・スター。知ってるでしょう? 私はその一人。コードネーム、ビーナスよ」
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