5/18 梅雨

 長雨の帰り道はどうも心地が悪い。梅雨前線がこうまで憎らしいのははじめてだった。彼女はただひとり隔絶された傘のなかで、冷たさを噛んでいた。肌はいやに白く、六月の暗さも相まって悲しいくらいだった。重くなった靴を振り、そのたびに崩れるブレザーを整えた。


 彼女の帰路ではいつも紫陽花が出迎えてくれる。青の大振りで、民家の花壇に群れているのだ。色彩に揺られるのが人間というものだが、この女もまた、この青に感傷を抱いていた。冴える青はこの明日も見えない空のものではない。どこか別の世から借りてきたものだとため息をつき、ブレザーを正しながら、その花壇に辿りついた。


 様子が違う。顔のしわが波及したようなくたびれたジャケットに襟の黄ばんだシャツの男が立っていた。ハットのせいで、佇まいから歳が想像できない。背は高齢を物語り、四肢は若年を語っていた。彼女はこの雨なんかに、といぶかりながら声をかけようか迷った。


 

「貴女は紫陽花を後悔の色で染めないように」


 近づいたとき彼がそんなことを、まるで紫陽花にでも話しかけているかのようにつぶやいた。制服が気になって身を正していた。傘と服のざあという音が、彼女にひとりなのだと実感させた。


「貴女だよ、貴女」


「わたし?」


「そう、制服の貴女だ。貴女には憂いがこびりついている」


「草枕の那美さんみたいに?」


「読書は人を憂鬱にさせる」


「それぞれだと思いますが」


 存外の狭量に、彼女は肩を落とした。傘に隔たれた彼は水墨画のように浮かんで見えて、独りというよりむしろ景色に溶けていた。それゆえに一言目の的確さはまやかしだったと見え、彼をすぎようとした。紫陽花は知らぬ顔で濡れていた。


「急ぐな。事を仕損じては、それこそ人生だ」


「じゃあこんなところで時間を潰してるあなたも、人生ってわけですか」


「はは、そうだ」


 変わらず老人は紫陽花を向いている。


「それで、人生から外れた道を歩きたいってわけですか」


 彼の横目から見た笑顔はしぼんでいった。少女はいたずらっ子が自分の仕事を見つかったときのような引け目を感じ、たじろいだ。靴の重さがいやになる。


 彼の苦痛にゆがんでいくその顔は、明らかに六十は下らない、しわだらけで、張りついた仮面のようだった。人を憎悪するところがあるその表情は、彼女の幼心を脅かした。


「人生なんて下らない」


「どうして」


「貴女ならわかるはずだ。愛の花はいつか枯れる」


 まただ。また彼は景色に溶けこみ水墨画になった。生きた筆がつづるしわが、鳥獣戯画のように猛々しく踊る。


 彼女は聞きたくて仕方がなかった。過去に一体なにがあったのか、その哀愁の源泉を。そのしわに刻まれた人生の真実を。


 しかしその鳥獣戯画に圧倒され、口を訊けなかった。それを見てか、彼が話しはじめた。


「はは、そうやって聞きたいことを聞けないのも人生だな」


「下らないですね。あなたにわたしのなにがわかるんですか」


「ああわからない。負け犬の気持ちなんてこれっぽちもわかりはしない」


 怒髪天を衝く、とはかくや。彼女は肩を震わせ老人の鳥獣戯画を睨みつけていた。


「恋に勝ちも負けもないでしょう」


「いいや、あれは天秤だ。いかにして相手と均衡を取るのか、もしくは高く持ち上げて突き落とすのか。貴女は後者だな」


「知った口を」


 思わず掴みかかろうとすると、彼女の正面から西日が射した。突然のフラッシュから数秒、目を開けたとき、老人の顔が一瞬、あの彼と重なってしまった。


 彼女は脳天を貫かれ、しかし晴れ渡った空色に染まったような気がした。ふとブレザーが崩れているのに気がついたが、もうそんなことはどうでもよかった。幾重にも重なる紫陽花が天高く抜けていた。小さい花弁に煌めいた雫のひとつひとつが彼女の目を刺した。


「いいか、紫陽花は悲嘆や後悔の色なんかじゃない。雨に濡れる時期にわざわざ咲いて、こうやってたまに輝いて、わたしたちを支えてくれるのだ」


 紫陽花の青は悲しみではない。太陽はすぐそこに覗いている。梅雨前線をもうはるか先にながめた。





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