短編愁

仙崎愁

1/11 檸檬

 どこまで行ったって檸檬の香りがつきまとってくる。仕事の疲れや、しみのついた日常がいけないわけではない。すっとする香りと酸味、黄色、舌触り、それらが僕の脳にはいってくるたび、幻想を引きつれてかき乱す。この檸檬の香りは洗い流してしまいたいのに、苦しくて仕方がないのに、五感のすべてが僕を縛る。


「檸檬を紅茶に添えるのは、色が変わるからだって」


「じゃあ、無駄だね」


「無駄じゃない。馬鹿じゃないの。彩るためのものが無駄なんていったら、生活は色を失うだけでしょ。だからわたしはデザイナーなんてやってんのよ」


 そんな会話がフラッシュバックする。カフェで紅茶を頼んでしまったからだ。数年経つのに癖がぬけない。


 そっと檸檬を添える細い手、カップの取っ手をつまんで、ふわりと口に含む滑らかな動き。湯気の白い筋と溶けあう茶色い髪。まるで向かいの席に座っているかのように幻視する。


 眼鏡を外し机に突っ伏した。飲めないままに湯気は消えていった。


 こういう日の帰りは、足が木になったように重い。彼女の言葉に心酔して、どれだけ求めただろう。そのすべてが檸檬に寄って、のしかかってくる。


 ポストを開けると、頭にこびりついた檸檬の香りがなおさら強くなった。


「今後のことで話があります。今度の日曜日、以前行った新宿のカフェで待っています。隆太は来ません。大事な話なので、仕事があっても来てください。それくらいは親の義務でしょう。私に見向きもしないのは構いませんが、隆太はあなたの被害者です。十時に、必ず」


 ソファに頭をもたげた。精一杯、ふたりを幸せにしたくて、身を粉にして働いた。不自由はなかったはずだ。仕打ちがこれだ。僕は爪を噛んだ。


 噛みちぎった爪の跡は気味が悪いほどにぎざぎざだ。整えようとすればするほど、ひどい形になっていく。檸檬にぎざぎざなどない。けがらわしい。こんな爪なぞ、根から引きはがしてしまいたい。


 カフェは黄色の騒々しい光に包まれていた。


 未希は三十分遅れてきた。挨拶もせず、紅茶を持って席についた。


 彼女の所作は、相変わらずだった。僕を苦しめる、あの美しすぎる仕草だ。


 砂糖の粒を流しこみ、スプーンの心地よい金属音とともに溶けていく。そして檸檬を添え、さらに混ぜるとすこし色のうすくなった紅茶になる。


 檸檬を取りだし受け皿によける。紅茶をふわりと含み、湯気が彼女と溶ける。僕は無心でそれを見ていた。もはや目を瞑れば、その動きひとつひとつはリピートできる。


 怖くてずっと聞けなかったことがある。しかしそれだけが僕の桎梏で、こびりついた檸檬の香りをかき消す唯一の手段だ。


「どうして突然、離婚を持ちかけたんだ。僕の甲斐性がないからか」


 彼女はもうひとつ、紅茶を含んだ。檸檬の香りがすっと香る。


「どうしてもこうしても、檸檬なんて飾りはいらないんでしょう。葛城さん」


「意味がわからないよ。僕にわかるように教えてくれ」


「私、再婚するの」


 爪が口のなかに残っている。不愉快だ。柔い粘膜を傷つけていく。ぎざぎざの爪、憎い。憎くて仕方がない。


「だから、もう養育費はいらないわ。こうやって会うのも今日で最後。それだけ。じゃあね」


 僕は檸檬とカップに、拳を叩きつけた。割れたカップが食いこむ。赤と茶色が混じりあって檸檬ににじんでいく。


「ふざけるな。あんな、あんな理由で満足できるわけないだろ。僕の人生をぶち壊しておいて。座れよ」


 未希は整った眉をゆがませた。


「わかってない。あんたはいつまで経ってもわかってないのよ。いい、最初っから私とあんたは終わってた。残業すれば、そりゃお金はいくらでも増えるけどさ。それと家族との時間を天秤にかけて、仕事を取るってありえない。私は家族と一緒に、檸檬を添えた紅茶を飲みたかった、そういう生活を送りたかっただけ。でもそれができたのは、いつ。最初だけよ。あんたの壊したが、理由そのもの」


 そう残し、彼女は消えた。僕の手にはぎざぎざの爪と、破片の刺さった手と、檸檬の苦さだけが残っていた。


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