3-7

「俺はカツレツにしよう。修君は」

「ビーフカレーがいいです」

 そこはどうということのない、百貨店の洋食屋だった。けれど、修と諸隈にとっては、何度も聖蓮と一緒に食事をした場所だった。二人はこの場所で再会することにしたのだ。そこで何かを口にできるほどには傷跡が癒えている。だが、それ以外の選択ができないくらいには彼女のことを忘れられていない。

 修はここのビーフカレーが好きで、いつもビーフカレーを頼んでは聖蓮に笑われていた。一方、諸隈はいつも違うものを注文していた。メニューを全種類制覇するつもりだったのかどうかはわからない。でも、そんなことは、ここに来るまではけっして思い出さなかった。

 記憶とは曖昧ではかないものだ。こうして顔を突き合わせないと思い出せないことがたくさんある。その場所に行かないと想起できないことだってある。仮に、機神との戦いでここが失われることがあれば、思い出すためのきっかけを失った記憶はどこにいってしまうのか。

「……デザートはどうする」

「いらないです」

 この後で槻と会うことになっているのだし、そこで何か口にすることもあるだろう。

「わかった。俺はアフォガートを頼む」

 諸隈は店員にメニューを返した。

諸隈が俺という代名詞を使うときに粗野な印象はない。むしろその篤実な人柄が現れる。男ばかりの環境で侮られないために強そうな一人称を無理して使っているような、素朴さを感じられるのだ。 

 食事の間は、言葉数は多くない。言いたいことがあるのに言い出せないみたいだ。諸隈も、修が腹の中に常に機人のことを抱え込んでいるみたいに、口にできない物事があるのかもしれない。

 諸隈はカツレツの最後のひときれを食べて口を拭うと、ほっと一息をついた。

「修君、俺たちがここで最後に食事をした日のこと、覚えているか?」

 それは修が諸隈のことを苗字ではなく名前で呼ぼうとして、結局できなかった日だ。姉からもっと親しくなってほしいと言われて試みたがうまくいかなかった。照れ笑いをしていた姉を思い出す。そして聖蓮がいなくなった以上、二人の距離はこれ以上縮まることは考えにくい。

「確か、買い物が終わってからここで食事をしようと並んだときに、隣の子供が聖蓮にちょっかいをかけてきた。まだ乳離れもしていないような子だ」

「そうでしたね」

「聖蓮はとても優しかった。その子と遊んでやり、歌も歌ってやりもした。いいお母さんになる、と赤ん坊の両親から言われたよな。はっきり覚えている。……だが、おかしなもので、俺はどうしてもその曲を思い出すことができない。珍しくない子守唄だったと思うんだが、そのメロディの切ない印象しか残っていない」

 言われてみればそうだ。でも、そのときに修は、ただその子供がうらやましいと思ったばかりだった。幼い頃が急に懐かしくなってしまった。諸隈がいるのに、本当は聖蓮にもっと甘えたいという本音が漏れそうだった。

「その上、あの日に聖蓮が俺のために選んでくれた服がどれだったのかさえ、あいまいになってしまっている。クローゼットの中の服からそれだと言い当てることができない。俺は怖いんだ。聖蓮との記憶を、思い出の品を、いつか気づかないで捨ててしまうんじゃないかって。それとも、既に捨ててしまっているのだろうか。……忘れてしまっている時点で、もうなくしてしまったようなものかもしれない。俺は聖蓮に対して、正しい態度を取れているだろうか」

 でも、と修は口を開く。僕はそれさえもなくしてしまったんですよ。桜木町、関内周辺の火災によって、聖蓮の思い出はすべて灰になったんです。たったひとつのキーホルダーを除いて。その訴えは怒りこそ込められていないが、痛切なものだった。すまない、と諸隈は続ける。俺のほうが愚痴を言っても仕方がないのに、と。

 これは本題ではないのは互いにわかっていた。けれども結局、その日は核心が口にされないまま、もう一度会う約束をしただけで終わってしまった。本題に触れることができないのは、自分の傷がどこまで癒えたかがわからない以上に、相手がどこまで回復したのかに気づけないせいだ。本当のことを話しても平気かどうかわからない。だが、少なくとももう一度会おうという約束をすることはできた。

 その約束がいつまで更新されるかはわからない。だが、食事の約束を繰り返し、定期的に顔を合わせることで、聖蓮の記憶が失われるのを防ぐことができるのではないか、そんな希望をわずかに持った。

 別れてから、ほたるとの待ち合わせの場所に向かう。

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