3-4

 黒江はタオルで首筋を拭きながら軽く笑む。

「修は私がシーシュポスの搭乗者と見込んだだけのことはあって、呑み込みが早い」

「そう?」

「とても。……そろそろ休憩しましょう。せっかくだし、楽にしてて」

 その言葉に甘えて、遠慮なく彼女の隣で脚を崩す。畳のにおいに混じって、彼女の汗の香りがする。

 何気なく見ると、彼女の白いシャツが濡れて透けていた。素肌が見えていて、背中に原色の下着が見えていた。修は、黒江が振り返ると思わず目をそらした。でも、黒江は淡々と述べた。

「気にしないで。この下に着ているのは、そういう形をしたウエアだから。本当はこれだけでもよかったんだけど、上がブラ姿っていうのも、あまり武道っぽくないからシャツを着ただけ。正直、シャツを脱いでも別に恥ずかしがることじゃない」

 その言葉は、修がどこを見ていたのか黒江から隠せなかったことを意味している。修は目を泳がせる。それから、いかにも運動用の部屋にふさわしい大きな鏡に気づく。鏡越しにどうしても彼女の体を見てしまう。でも、黒江は冷静だった。

「別に変なことじゃない。その年頃の男の子なら普通のことだから、気にしてない。怒ってもいない」

 でも、修は強い羞恥を覚える。いっそのこと軽蔑されるか、平手打ちでもされたほうがましだった。そんな修の様子を見ていたせいか、なんだか黒江のほうも居心地が悪くなってきたみたいだった。もっとも、修が妙な気を起こしたとしても、黒江なら難なくそれを防ぐことができただろう。

 修は、気まずさを感じるあまり自分の中に閉じこもり、あたかも隣に黒江などいないかのように、どうして自分がこんな状況に巻き込まれているのか、巨大な兵器を操縦することになったのか、それがどれほど奇妙なことか、改めて考えこんだ。それとも、これは二人きりになった女の子との間に話題を見つける試みだったのだろうか。切れ切れに黒江に尋ねた。

「機人のことだけれど、……どうしてタカマガハラ族は衛星で攻撃してこないんだ」

 聖蓮のときのように、と続けたいけれどそれは言えない。でも、黒江は修の言わんとすることをわかってくれる。

「機人の装甲があれば大部分が防がれてしまう。装甲を破壊されれば危ないけれど、それよりも街の被害のほうが大きい。機人にちょっとダメージを与えようとすると、百メートル四方が全焼する。それに、どちらかを撃てば自分の側が負けていることを明らかにしてしまう。政治的判断によるところも大きい」

「じゃあ核兵器や生化学兵器が使われないのは」

 黒江は汗に濡れた前髪をかきあげる。

「……いろいろ理由はあるのだけれど、少なくとも、タカマガハラ族の生理は私たちの身体のそれとさほど変わらないからが一番の理由。つまり、生化学兵器は私たちにもダメージがあるけれど、タカマガハラ族にも有害ってこと。それに、タカマガハラ族にしたって、せっかくここまで復興させた文明をむざむざ消し去ることは望んでいないはず」

「そうか。……でも、僕らはいつまで戦い続ければいいんだ」

「それほど長くはない。タカマガハラ族にだって機神のストックには限りがある。せいぜい七体前後ってところ。パワーバランスを考えると、そろそろ相手を交渉のテーブルには引きずり込めると考えてる」

 タカマガハラ族との対話。それは、途方もないことに思えた。でも、ただの少年である修が現実的にタカマガハラ族に報復するためには、ただ暴れまわるだけではなく、対話という形を取るのだろう。ただの破壊活動ではなく、姿の見えない相手と同じ交渉のテーブルにつく。そこにはカタルシスはないかもしれない。

「犯行声明を出して交渉するというのは」

「相手はそもそも機人と戦っていることを認めようとしない。あくまでも旧世界の兵器の事故として処理するつもり。報道はされないでしょうし、ネットにも投稿できないはず」

 それから口を閉ざす。少し、沈黙がある。修は、タカマガハラ族の姿を知らないのだ、と改めて思う。そんな相手を憎むのは、ひどく苦しい。

 少年と少女が汗だくのまま、二人きりで部屋の中にいるときには、ほんとうは、もう少し人間らしい話をしたほうがいいのかもしれない。少なくとも、高校生くらいの少年と少女の間にあるような、甘酸っぱい会話でもするべきなのではないか。しかし彼らをつないでいるのは硝煙であり、破壊の跡であり、シーシュポスであった。

「ところで、『ファウスト』読み終わった」

「どうだった」

「万能の力を手に入れても、最後には他者のために生きることを望んだファウストはかっこよかった。だから最後には救済されたんだろうな。けれど、序盤で主人公の過ちのせいで女の子が死に追いやられている」

「うん」

「そこが割り切れない。暴虐の限りを尽くして地獄に落ちるタカマガハラ族の版の方が、悔しいけれど理解しやすかった」

「それでいい。タカマガハラ族の唱えるような硬直した善と悪以外の価値観があることを感じられれば」

 難しいことを言うのだな、と感じる。彼女の中にも、その善と悪があるのだろうか。

「今度、『失楽園』も貸してあげる。悪があれほどかっこよくなれることは、知っておいたほうがいい。それから『神曲』も。神族が手を加えた生ぬるい版じゃなくて、残虐な地獄の描写があるやつね」

 彼女はその言葉とは裏腹に、とても真っ直ぐに笑っている。少しは同学年の女の子らしい話ができただろうか。

 それでも結局のところ、修は黒江がどんな女の子なのかよくわかってない。その肢体に目を奪われるときのほかは、女の子というよりは指導者として見ている。他のことはまだ知らない。恐ろしいくらいの読書家だということくらいしかわからない。

 どんな音楽が好きで、将来の夢がなんなのか。語り合おうにも相手が高いところにいるみたいだ。成長の過程を何年も先取りして歩いてしまっているか、ずっと年上にも思える。混乱したまま修は、考えもなしにふと思ったことを口にする。

「黒江?」

「何?」

「……好きな食べ物ってある?」

 黒江は噴き出した。いきなりどうしたの、とおかしそうにおなかを抱えて笑い出した。修はひどく赤面した。何をしているのだろう。話題が途切れたからと言って、いきなり好きな食べ物は何なのか尋ねるなんて、間抜けにも程がある。何の脈絡もない。まったく、どうして僕は聖蓮のときのように自然に話ができないのか。聖蓮と他の女の子との間に、どんな違いがあるというのか。

 修が逃げようとすると、黒江は続ける。

「黒砂糖系のお菓子なら、大抵好き」

 修はうなずいて、立ちあがる。

「再開しよう」

 黒江は修の照れ隠しには気づかなかったのか、真剣な顔でうなずいた。

 どうやら彼女は蹴りが得意らしく、それを特に念入りにやらされた。相手の勢いを利用して投げ飛ばす方法も説明してくれたし、他にも人体の急所についてもざっと教えてもらった。第一位格のときのように、すべての機神が人間の形をしているかどうかはわからない、ということは念を押された。それでも、相手の力がどこに集中しているかを考えることは助けになる、と言う。野山の獣と戦った武道家も昔はいたそうだ。

 トレーニングの最後に彼女は結ぶ。

「これから毎日ここに来て。夏休みだし」

 修は改めて彼女のほうを向き、一礼する。そんな修に、黒江は笑んで見せる。修は会釈して部屋を出る。

 部屋の大きな鏡のせいで、後ろを振り向かなくても黒江がシャツを脱いだのが見えた。汗をかいているのが不快だったのか。別段恥ずかしくはないと言っていたけれど、やはり修が立ち去るのを待っていたのだろうか。

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