1-6

 どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。でも、聖蓮の手のひらの感触がする。それだけはわかっている。ふわりとウエーブのかかった髪、優しそうな眼、修と遺伝子を分け合っているのが信じられないほど愛らしい顔立ち。あらゆる心の傷を癒してくれた声もする。

「大丈夫だよ、修」

 でも、その言葉を聞くだけで修は涙が出そうになる。これは、明け方に何度も見る夢だ。次に何が起きるのかわかっている。あの時と同じだ。頼むから繰り返さないでくれ。二度とあんな目には合いたくない。修は幻から目を背けようとする。だが、人ごみも、道端で売られているクレープも、あたたかくなってきた空気も、すべてが過去のままで変えようがなかった。

 久しぶりに姉弟で街を歩いていた。映画を観て、お茶を飲んで、服屋を冷やかした帰りだった。聖蓮は修の腕を引っ張るように先を歩き、何気ない様子で問う。

「修は進路、もう決めた?」

 首を横に振る。自分が何に興味があるのかまだ見つけられていない。与えられた課題をこなしているだけだ。だから話題をそらす。

「聖蓮はどうするのさ。博物学を勉強したいって言ってたけど、その先の話はまだ聞いてない」

 姉は振り返る。髪の毛が風になびいていた。

「そうだね。動物学や植物学、鉱物学に人類学。知りたいことは山ほどあって、一生かかっても足りないよ。この間は素敵な随筆で数学についてもっと知りたいと思ったし、わかりやすい講演で天文学も学びたくもなった」

 修はうなずく。聖蓮は向上心があるから、なんだって知りたがっている。

「でも、そろそろひとつに決めないと」

そうやって急かしても、彼女はにこにこしている。

「きっとなんでもいいんだと思う。どれを選んでも間違いじゃないんだ」

「え?」

 姉に似合わない、いい加減な答えに思わず問い返す。

「でもそれは、生半な気持ちだからというわけじゃないの。真理に近づきたいという気持ちがあって、本気になって学問をやるのなら、結局はどれを選んでもいいんだってこと。何かを知り、それを分かち合うことは、人を幸せにすると思うから」

「……聖蓮は幸せになりたいの?」

「もちろん。勉強って楽しいからするものでしょ? 研究に向いてないってわかって学問の道を究められなくても、きっとそこで学んだことは大きな財産になるんだと思う。それに、私は修や、周りのみんなが幸せならそれでいいかな」

「なんだよそれ」

 少し唐突だし、意図もつかめない。思わず口調が照れ隠しで少し荒っぽくなる。でも、姉はいつになく真剣な顔をしていた。

「私はね、私たちがほんとうの意味で幸せになれる世界がやってきたらいいな、っていつも思ってる。修にとっては、どんなことが幸せ?」

「どういう意味?」

「文字通り」

 そこに曖昧さはない。真意がわからず、彼女の視線をまっすぐに受け止められない。

 あまりにも長い間見つめられていた気がするのは、この後に何が起きるかを知っているからだろうか。現実感の薄いふわふわした微笑みが、いつまでも続けばよかったのに。それなら、聖蓮と一緒にいられれば僕は幸せだ、と答えることができただろう。修は思わず目を閉じる。そうすれば、これから起きることが避けられるかのように。しかし、天からの一撃はすべてを奪った。

 何が起きたのか、修にも群衆にもわからなかった。ただ、雑踏の中の飲食店のにおいに混じって、何かが焼けたにおいがした。あまりにも獣のような臭気だったので、それが人間のものだとはどうしてもわからなかった。

 でも、嗅覚が理解を拒もうとも、視覚がすべてを語っていた。焼け焦げた小さな欠片だけが姉のいたところに散らばっていた。骨の一部だったのだろうか。微笑んだ時に見せてくれたかわいらしい歯だったのだろうか。爆心地はまだ熱く、近づくことを拒んでいた。タカマガハラ族の雷霆が彼女を打ったのだ。

 修の手のひらの中に残されていたのは、焼け焦げた姉の片腕だった。どれほど強く握りしめていたのか、修の手としっかり結びついて外せなかった。その桃色の爪、透明感のある素肌、そして真っ黒になった断面が、目に焼き付いて離れない。振りほどけない呪いのように、命のない片腕が修をつかんでいる。

感情を失ったまま修は立ち尽くしている。人々に抱きかかえられている。遠くから悲鳴が聞こえる。いや、それは自分の泣き叫ぶ声だともう一人の自分は知っている。

 僕は二度と誰かの手を握ることはないだろう、と修は知る。手と手が触れたら、きっと相手を失ってしまうだろうから。手をつないだら、相手は死んでしまう。冷静な自分が、分析を続けている。何もかもが溺れているみたいに苦しい。その暗い水の中へ押さえつけている力すべてを憎む。無理やり過去を思い出させようとする力を打ち砕こうとする。それは過去の幻を破壊する衝動となる。辺りの光景を修は引き裂いた。


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