【現代ドラマ/ペット・コメディ】記憶を踏みつけて愛に近づく

 僕はあまり記憶力がよくない。


 すぐになんでも忘れてしまう。


 今日の朝ごはんだって憶えていない。


 そういうとアイちゃんは「だっていつも同じだから、憶えるまでもない」と鼻で笑うけれど、僕は「そうか、いつも同じなのか!」って気分だ。


 僕はアイちゃんが大好きで、いつもアイちゃんのあとをついて回る。


 アイちゃんはそんな僕に「あっちいけ」と怒るけれど、僕は「ごめんね」っていって、またついて回る。しまいには、アイちゃんに般若みたいな顔で殴られるんだ。


 でも、僕はすぐ忘れるから、またアイちゃんを追いかける。アイちゃんは逃げる。僕は追う。逃げる、追う、逃げる、追う。そのうち、くるくる回って楽しくなって僕はひとりでクルクル回って遊ぶ。


 アイちゃんはそんな僕を見て、「あほ」という。僕は「そうか、あほだったのか!」ってまた楽しくなる。だから僕は歩くより走ることが多い。楽しいと走るから。ううん、走ると楽しいのかな。わからない、なんせ「あほ」だもの。


 そんな僕は、アイちゃん以外にも実は好きな子がいる。


 その子はカオリちゃん。カオリちゃんはアイちゃんとは違って僕に優しい。だから、カオリちゃんとは両思いだと思っていた。


 それが、ある日。


 カオリちゃんは「この人が彼氏だよ」と、どえらいことをいいだした。僕はちょうどアイちゃんを追っかけて、それから楽しくなってクルクル回って遊んでいるときだった。


「こんにちは。よろしくね」


 カオリちゃんの彼氏だとほざいているバカ野郎がそういった。僕は無視した。ずっとクルクル回っていた。それで気持ち悪くなってごはんが食べられなくなったけど、べつにかまわなかった。アイちゃんはそんな僕に「あほ」といった。


 カオリちゃんは僕のことも好きらしい。愛は変わらないそうだ。


 カオリちゃんは僕にもバカ野郎を好きになってもらいたいなんて、愚かなことをいう。僕が「あんな奴、いなくなればいいのに」ってぼやいたら、アイちゃんは「あほ」といった。


 そこで、僕はふと気づいてしまった。アイちゃんもバカ野郎のことは嫌いなんだ。あいつはスケベで、あたしの尻ばかり触ると怒っていたから。だから、アイちゃんも「あほ」仲間だねっていったら、「あっちいけ、あほ」と殴られた。数えた限りでも、十八発は殴られた。数秒間の出来事だ。


 それを見ていたカオリちゃんは、「こらこら、仲良くしてよ」と僕らを引き離した。バカ野郎もそばにいて、僕のことを「こいつ、優しいなあ。反撃しないんだから」と笑った。非常に上から目線だった。


 僕はいつの日か、バカ野郎の頭をガブリといってやろうと誓った。


 そして、その日は案外早くやって来た。


 バカ野郎は昼寝をしていた。僕とアイちゃんとカオリちゃん、二匹と一人の愛の巣で、ぐうぐうと寝ていやがったのだ。


 僕は躊躇なく噛んだ。バカ野郎は「いたい!」と飛び上がって、僕の横っ面を叩いた。カオリちゃんがタイミングよくやって来て、それを目撃した。バカ野郎は「こ、こいつが」といった。でも、カオリちゃんは首をふった。「この犬は優しいの、人を噛んだことなんてない!」


 僕は得意になった。ざまあみろ、これで前と同じ生活に戻れる。


 けど、アイちゃんは「あほ」と吐き捨てて、ふさふさした尻尾を揺らして部屋から出ていった。たぶん、お気に入りのふかふかベッドに行ったんだ。僕も行こう、そう思った時、カオリちゃんが「ううう」と泣き始めた。


「ひどいよ、ひどいよ」


 カオリちゃんは、バカ野郎が僕を叩いたことにショックを受けたらしい。


 バカ野郎は「ごめんね、ごめんね」といっていた。僕もそばにいって「泣かないで」と腕や手をなめた。アイちゃんは、戸口の向こうから顔だけのぞかせて、「うるさい。泣くな」といった。アイちゃんはクールだ。


 それからアイちゃんは、ふさふさ尻尾を揺らしながらカオリちゃんに近づくと、僕に「見とけ」といった。アイちゃんはゴロンとお腹を出して寝そべった。それから「にやー」と甘ったるい声で鳴いた。くねくね動く、「にゃ」と短く鳴く。見上げる眼差しは子猫のようにあどけない。さすがだ。


「アイ!」


 カオリちゃんはアイちゃんを抱きしめると、もふもふのお腹に顔をうずめた。アイちゃんは、すぐさま無の境地で虚空を見つめる。数分後。カオリちゃんは元気になった。


「犬を叩かないで!」

「うん」


 僕もついでに「ワン」と答えたけど、誰も聞いちゃいなかった。

 いや、アイちゃんは聞いていた。「あほ」といって、また部屋を出て行ったから。きっと、こんどこそ、ふかふかベッドで寝るのだろう。


 僕もついて行こう。そう思ってから、なんとなく振り返った。

 カオリちゃんがバカ野郎に抱きついていた。僕は記憶が飛んだ。真っ白。


 それから、記憶が戻ると、カオリちゃんとバカ野郎は結婚していた。

 さらに、小さな人間も増えていた。二人もいる。歩いているのと、寝ているのだ。


 僕ら二匹と一人の愛の巣は、いつのまにか大所帯になっていた。小さな人間は、僕の尻尾をおしゃぶりした。ベトベトになった。でも、怒られたのは僕だった。僕は「ばっちい」そうだ。カオリちゃんが僕にいった。「あっちいって、ジョー」


 ショックだ。また記憶が飛ぶかもしれない。

 僕はアイちゃんにきいた。


「僕、なにも憶えてないんだ。大丈夫だろうか?」


 アイちゃんは鼻で笑った。


「あほ」

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