パッチとモア

灯宮義流

『日課』

 空気の抜けたような男が、朝のオフィス街をのそのそと歩いている。

 無意識にボサボサ頭を掻いていると、突き刺さるような寒風が吹き抜け、男はトレンチコート越しに自分の身体を抱くようにして叩いた。

 今日はそういえば今季一番の冷え込みだとテレビで言っていたことを男は思い出す。魔法炭の懐炉を持参すべきだと言っていたが、寝惚けていて忘れてしまったのだ。

 さりとて職業柄、遅刻は許されなかったので、渋々男はコートだけで寒空からの暴力同然の寒気を凌ぐ道を選んだ。しかしそれはやや無謀な挑戦だったようだ。

 仕方なく朝の売店で紙コップのコーヒーを一杯購入し、彼はそのまま自らの職場へと向かう。

 道中、男はやたらと視線を集めた。顔の右半分を覆う眼帯と、そこから少し見える火傷の痕が興味を引くのだろう。男がそんな好奇心に欠伸で返答すると、目を向けていた連中は最初から見ていなかったように振る舞った。

 男は薄っすらと笑みを浮かべる。彼にとってこうして自分を興味本位で眺める相手を驚かすのは、ささやかな趣味だった。




 魔術関連犯罪捜査局の建物に併設されたウィンレッジ魔術精神科医院と記された看板をくぐると、警備員が荷物検査のために立っていた。

「おはよう、寒いね」

「ドクターパッチ、おはようございます」

 警備員は直立不動で生真面目な挨拶を返した。顔を合わせるのは出入りをする時だけなので、他人行儀な挨拶でも気にも留めない。

 しかし、パッチと呼ばれた男はそんな彼の小さな変化を見過ごさなかった。訝しげに左目を細めた彼は、腕を組みながら首を傾げた。

「誰かに口止めでもされているのかい?」

「とんでもありませんよ、ドクター」

 警備員は表情をピクリとも動かさず、パッチの目を真っ直ぐ見ながら答えた。流石は相応に訓練された人間だけあって表面的に感情を出すことはない。

 それを見てパッチは苦笑いすると「冗談だよ、忘れてくれ」と言葉を残して検問を抜けた。一瞬ちらっと警備員がこちらを見たことに気付いて、不意に振り返ってみたが、もう相手は外の方を警戒していた。

 奴は大変優秀な男だとパッチは内心安心しつつ、懐から鉛筆くらいの大きさの棒を取り出した。それはよく見ると先端に小さな宝石が取り付けられていた。

 患者や来客の受付兼ねる待合室を開けると、壁にかけた「パッチ・ウィンレッジ」と記された名札を翻し、自身が在室であることを示す。隣にぶら下がっているもう一人の名札は不在を示したままで、パッチは少し深く息を吐きながらそれを戻した。

 部屋の隅には適当に放った白衣を乗せた衣紋掛けがあり、それを引っ張って羽織ると、代わりにトレンチコートを適当に放って掛けた。

 魔術医として見た目も切り替えたパッチは、大きく伸びをした後、診察室へ入ろうとドアノブに手を伸ばした。しかし何かに気付いてすぐさっきの小さな杖でドアノブを軽く叩くと、ドアノブが閃光とともに火花を放った。

 それを見ても特に驚くことなく扉を開けたパッチは、足を踏み入れる前に小さな杖を軽く振り払い、周囲の何かが反応して光ったのを確認しつつ入室する。

 それから奥にある院長室に行くまでも何度か杖を振るいながら進んだが、今度は院長室の前でピタリと立ち止まってしまった。

「これをなんとかしたら、今日も僕の勝ちってことでいいかね?」

 扉に向かって声をかけると、パッチは杖を高く掲げ勢い良く振り下ろした。

 すると、扉から剥がれ落ちるかのように光が甲高い音を立てて飛び散っていった。

 朝の風景に似つかわしくない派手な光景は、まさに一瞬のものだった。




 一通り厄介なものを取り払ったのを確認したパッチは、ため息をつきながら院長室の扉を開けた。

 室内では、白衣を着た少女が足を組んで院長の……つまりパッチの椅子に座っていた。

「ふっふっふっ。おはようございます、先生」

「おはよう。朝の体操なら間に合ってるよ、モア」

 モアと呼ばれた少女は澄ました顔で、何故かふんぞり返っていた。赤い縁の大きい眼鏡が印象的な少女は、パッチのうら若き助手である。

「受付の名札、ひっくり返すのを忘れているぞ」

「ああ、そういえば、うっかりうっかりですな!」

 反省の色を見せないまま、モアはニコニコと人懐っこそうな笑みを浮かべた。わざと彼女が名札を返さなかったことはわかっているが、素直に注意しても言うことを聞かないのはわかっている。これはほんの小さな皮肉である。

「ところで先生、今日の私のトラップはいかがでしたか?」

 背中まで伸びたまとまりのない後ろ髪を掻き上げながら、モアは堂々と訪ねてきた。しかしパッチは欠伸をしながらそれに答えた。

「残念ながら損傷はないよ。朝から少しばかり疲れてしまったがね」

「むむぅ、扉に仕掛けた奴は自信作だったのですが、ため息一つで流されてしまうなんて……まだまだ私も修行が足りないようです。精進精進!」

 新たな決意とともに立ち上がったモアを適当に相手しつつ、パッチは「名札を返してきなさい」と軽く指示した。

 敬礼しながら待合室に向かう彼女を見送りつつ、パッチはどっぷりと自身の席に腰掛けた。まだモアの残した温もりが残っていて、パッチはいろんな意味で居心地の悪さを覚える。

「ふ、ふぎゃー!」

 モアの悲鳴を聞きながら、パッチは今日の予定を確認するため机から書類を取り出す。そして指を当てて文字を静かに読んでいたら、モアが院長室に駆け込んできた。片手には「ティモアーナ・ピューレ」と記された、煙を纏った名札を掴みながら。

「おのれ先生! やってくれましたね!」

 と怒鳴り込んできたモアの頭は、まるでアフロヘアーのようになっていた。顔には少しだけ黒い煤も付いている。それを見たパッチは鼻で笑って応じた。

「モア、君は確かにトラップ魔術の天才だ。製作、仕込み、分析に関しては一流だが、それを見つける能力だけはまだまだのようだね」

「ぐぬぬー、またまたしてやられたー!」

「捜査局のチーフに頼んで、シャワーを借りておいで」

「はーい、そうしまーす……」

 頭を掻き毟って黒い煤を撒き散らすモア、その姿を見かねたパッチがそう告げると、トボトボと彼女は医院を出ていった。

「弟子として置いてあるわけじゃないのだがな、助手くん」

 もう相手には聞こえない言葉を投げかけながら、パッチは再び書類のチェックへと戻った。

 予定表には、本業の……精神的魔術異常の改善を求める患者が訪ねてくることが記されていた。

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