Arkhē

剣イウ

第1話 カイキ邂逅

 ふと目が覚めた。

 まだ見慣れぬ天井。

 故郷を発ってから数ヶ月が過ぎていた。

 郊外のどこにでもあるような風景の片田舎。少年--有馬蒼介はゆっくりと身体を覚醒させた。

 時刻は午前五時。季節柄、まだ日も昇っていない時分だ。早起きにはなれている。

 寝坊がちな同居人の為に朝ご飯の仕度をしなければならない。

 かちゃかちゃと慣れた手付きで調理器具を取り出し、冷蔵庫の中身を確認する。

 ウインナーがない。昨夜は確かに残っていた筈なのに。

 もしやと思い、居間に行くと、そこには豪快に空けられた缶ビールと空になったウインナーの袋が卓に投げ捨てられるように散乱していた。その空き缶の海に一人仰向けになって豪快なイビキをかく女性。蒼介の同居人である。まだ学生の身分である自分の面倒を見てくれているのだが、これではどちらが面倒を見ているのか分からない。

「……また万斎さん晩酌していたのか」

 抑揚のない低い声で蒼介はやれやれとため息をつく。

 冷蔵庫の中身の酒のアテになりそうな物は全て彼女に食い荒らされていた。田舎の狸でもここまでしない。

 散乱した空き缶を片付け、蒼介は朝食の準備に取り掛かる。

 取り敢えず、味噌汁と卵焼き。干物も肉類も全て食い荒らされているので、手軽な物を作り置きしておく。

 朝食の準備を終え、万斎女史を起こさなくては、と居間に戻る。

「万斎さん、朝です。起きてください」

「……ごぅぉ、がー、っざけんな、このやろぉ……ぐぅ」

 起きる気配はない。

 揺すっても起きないので、試しに張り手をしてみた。

 バッチィィィィン、と近所にまで響き渡る程の凄まじく気持ち良い音がなる。

「っっったぁー!」

「あ、起きた」

 真っ赤に腫れ上がった頬を押さえて悶絶しながら柳田万斎は飛び上がった。

「万斎さん、おはようございます」

「てめぇ、この野郎! ばか力にも程があんだろぉ! このバカ蒼介!」

「起きなかったので、少しビンタというものを試してみました。お加減は?」

「ああ? 最悪の寝覚めだよ! 少しは手加減しろや。こっちはか弱い乙女なんだぞ」

 乙女という年齢でもない筈だが。

「朝食の準備が出来てますから、食べましょう」

 手入れされていないボサボサの髪と眉目秀麗な顔立ち、歳の頃は二十代半ば程。服装はTシャツ一枚に黒のジャージという格好だった。柳田万斎を一言で表すなら、美人なおっさんであると蒼介は思った。

 数ヶ月程万斎の下でお世話になっているが、彼女の身の周りの世話をする事は、住まわせてもらっている以上当然の事と蒼介は認識していた。

「にしても、お前は朝が早過ぎる。まだ六時になってないじゃん。何? お前お爺ちゃんか何か? おかげでここ最近私まで起きるの早くなっちゃったんだけど」

 良い事ではないか、と内心首を傾げ、何を怒っているのか分からない蒼介は、すみませんと短く答えて、朝食を差し出す。

「……お前は私のオカンか?」

「オカン?」

 何を言われているのか分からない様子で蒼介は自らが準備した朝食にありつく。

 万斎も文句を言いながら、朝食についた。

「ところで、蒼介。学校は最近どうなんだ?」

 蒼介は通っている学校での事を思い出す。特に報告する事はない。

「別に、何もないですが……」

「……そうじゃなくてな、その、なんだ。感想とか、そういうの」

「はぁ。と言われても、便利だなぁとしか」

 蒼介の素直な感想だった。

 片田舎の学校とはいえ、蒼介の故郷に比べれば、幾らか文明的で何だか良く分からないが、凄い便利という感想しか思いつかないのだ。今まで蒼介の中で人力で行っていた事が機械とかで楽チンに出来る様になる。それだけであった。

「何それ、つまんねぇなぁ、お前」

「つまらないですか……」

「感性を磨けよ。大事だぞ、感性は。センスとも言うがな。そんなんじゃ高校卒業した後も社会じゃ生き抜いていけねぇよ。感性磨けば、人生はそれなりに色付いてくれるもんだ。取り敢えず、友達とか恋人とか、そういうのは学生の内にやっときな」

「はぁ」

 蒼介は、いまいちピンと来ない。

 友人も恋人も今はそれどころではなく、生活に慣れる事に精一杯でそこまで考えが及ばない。想像が出来ないのだ。

 それではいけないのは分かるのだが、どうしたら解決出来るかも分からない。

 万斎とのやり取りは大体が抽象的過ぎて、蒼介は余り理解出来ないでいた。



 ※



 街の喧騒にはまだ慣れない。

 山林の多いここ支倉市では、勾配の急な道が多く、殆どの学生が通学に辟易しながら登下校をするのだ。

 少し塗装の剥げた校門、グラウンドには赤錆びたサッカーゴールや野球のバックネットが鎮座し、その周りでは朝練に勤しむ高校生が活発に青春を謳歌している。

 普通の高校生。

 今の自分が置かれている立場を蒼介は何となく気に入っていた。

 ずっと山奥に祖父と住んでいたが、義務教育とは殆ど無縁であり、学校に通った事は一度もない。それを見かねた万斎が一年前に祖父に提案した。

 --コイツを学校に通わせる。

 一言、半ば宣戦布告の様にそう言うと、どこからともなく教本を持ち込み、勉強を教えてくれた。そして、世の中の事を聞かせてくれた。決して楽ではなかったが、初めて見聞きする彼女の話は面白く、勉強という物もやってみれば、楽しいものであった。編入試験に合格した時は、結構嬉しかったりしたものだ。万斎のおかげで蒼介は無事に高校生活を送る事が出来る。

「ちょっと君」

 まだ朝練のない生徒はこの時間に校門に居ないはずなのだが、そこに待ち構える様にしている制服姿の女子高生に声をかけられる。

「はい」

 見覚えがあるようなないような。

 男女の美醜に鈍感だと自負している蒼介だが、その女生徒を一目見て、綺麗な人だ、と息を漏らした。

 すらりと伸びた白磁のような美脚、引き締まった体躯と出る所は出ている健康的なラインだ。少し赤みがかった黒髪と強い意志の通った鋭い目が小さな顔に端正にまとめられている。

「こんな早い時間に登校? 珍しいわね」

 いつもこの時間なのは、特に理由があるわけではないので、蒼介は返答に窮した。

「あなた何年生?」

「あ、二年生だけど」

「ふーん。私、生徒会長の赤川涼子。よろしく」

「へぇ生徒会長」

 生徒会長とは、その学校の学生のトップに位置する事は知っていた。目の前の女生徒--赤川涼子がその人だというのは知らなかったが。見覚えがハッキリしなかったのは、多分いつかの朝礼や集会で見かけたからだろう。

 最も彼女の場合、蒼介以外の全校生徒が知らぬ筈はなく、涼子自身もそれを自負しているが故に、蒼介の間抜けた反応に違和感を感じていた。

「僕は、有馬蒼介。生徒会長はここで何を?」

「その理由をあなたに教える必要がありまして?」

 ニッコリと笑顔を見せる生徒会長。

 蒼介は、野性の感とも呼べる直感が働き、ぶるると背筋が凍る気がした。曰く、人の笑顔とは元来威嚇の意味が込められるモノが変化したらしい。目の前の赤川涼子という少女の笑顔は、他者の返答の有無を強制する程の威圧感があった。

 蒼介は額に冷や汗を感じながら、涼子が何を言わんとするか察した。

 つまり--余計な事を聞くな、分かってんだろ? という事だ。

 短いやり取りだったが、蒼介はこれ以上関わると面倒な事になると思い、すごすごと校門を通過する。

 一瞬、背後に涼子の鋭い視線を察し、ぴりっと張り詰めたモノを肌に感じたが、気がつかない振りをする事にした。

 有馬蒼介は、普通の高校生という肩書きが気に入っているのだ。



 ※



 支倉高校という歴史だけは無駄に長い寂れた学校。生徒会長は赤川涼子。高校一年の時に半ば下克上みたいな形でいつのまにか生徒会長という立場になってしまった。

 元来、彼女の生まれた家は普通ではなかったが、それでも普通の義務教育を受け、地元の中学に通い、普通に高校に進学した。

 別に家を意識した事はない。

 祖父と祖母は世相から少し浮いている存在だが、両親は普通の中流一般家庭だ。父はサラリーマンだし、母はパートしながらの専業主婦。姉が一人いたが、今はどこかに飛んでいる。そのおかげで涼子にお鉢が回ってきたのだが、それを嘆くという選択肢を彼女は最初から持ち合わせていない。

 昔から地元の住民に噂されている洋館がある。

 それは少し街から離れた場所にあり、周囲の家は人の住まない廃墟となっていた。その一番の高台にポツリと独りぼっちの年季の入った洋館は、幽霊屋敷とかどこかの金持ちの別荘とかヤクザの隠れ家とか様々な噂を呼び、人々から忌避されている。

 赤川涼子はそこに居候しているのだ。支倉高校を選んだのはここから一番近いから。そして、ここに住んでいる理由は、実家を出るにはここしか住まわせてもらう場所がなかったからだ。

 屋敷のリビングには、座ったまま眠っている小さな黒い少女が一人。

 赤川涼子の家主である。年齢は涼子の一つ下。今年から三駅離れたカトリック系の女学園に入学したばかりである。通常は寮に入る筈なのだが、彼女はここから通っている。

 それも送迎車で。

 月城夜歌という目の前の黒い少女は謎の多い人物だった。

「進捗はどう?」

 涼子がリビングに足を踏み入れた時に目覚めたらしい。

 抑揚のない声音で静かに訊ねられた。

「別に、特には」

「そう」

「一応、大量発生している低級悪霊や邪霊は見つけ次第しらみ潰しに駆除してるけど、原因が特定出来てないのが問題よね」

「この短期間で貴女の学校の周辺に集中的に発生が確認されているわ。これは異常な事でしょ。低級を呼び寄せる元凶は間違いなく貴女の学校にいるわ」

「でも、結界魔術張ってるのに全然反応ないのよ。低級共はそれで入れない様には出来るけど」

「それは、貴女の結界魔術が貧弱すぎて素通りされているか、そういう呪物を扱える協力者がいるか……まぁ前者でしょうね」

 ぐぬぬ、と涼子に反論の言葉が見つからない。悔しいが、魔術師としての実力は夜歌の方が数段上だ。

 彼女達は、世の中で生き残る魔術師の末裔である。

 赤川家は、今より六代前に日本で興り、涼子の祖父の代で栄えた。赤川家は何故か代々隔世遺伝により魔術師の才能を持ち生まれてくるのである。後継者であった姉が二年前に突如出奔。中学卒業と同時に祖父から呼び出され、後継者としてのお鉢が回ってきたのである。普通の女の子として育ってきた涼子からすれば、良い迷惑なのだが、その境遇を嘆くという選択肢は彼女に最初からなかった。

 とにかく実家から離れたかった涼子は祖父の勧めで、こうして月城邸で居候すると同時に、夜歌に魔術師見習いとして師事しているのである。

 一方の夜歌は、古い魔術師の家系の末裔でウェールズではかなり有名な家柄らしい。何故日本に居るのか分からないが、イギリス人と日本人のハーフであり、凄腕の魔術師である事以外は涼子も良く知らない。

 夜歌が食卓に座ると同時に、白を基調として、金色の紋柄模様が入ったポットが一人でにぴょんぴょんと跳ねて、夜歌の前に暖かい紅茶を注いでいく。

 彼女の周りは生きた無機物達がまるで茶会を楽しむ様に飛び跳ねたり、自分の役割に従事したりしている。実際に見ると気持ち悪いのだが、御伽噺の不思議の国の様な世界であった。

 ちなみに涼子の分は用意してくれない。数ヶ月前の師弟喧嘩から従者達とは険悪なのだ。

「あーあー分かりました。未熟なのは私も分かってますよ。ったく、やってやるわよ」

「そうね。貴女が無謀に挑んで死ぬのは勝手だけど、貴女の仕事はあくまでその元凶を突き止めるだけ。その後の事は私がやるわ」

 釘を刺された。

 涼子は渋々了解し、いつもより早く家を出る。

 全校生徒と顔と名前は頭に叩き込んである。朝練の生徒から見張り、校門通過時に結界魔術で特定する。

 今日の作戦は持久戦だ、と涼子は気合を入れて、出立したのだった。



 部活動朝練組の見張りが終わってから、早朝の中途半端な時間に登校する男子生徒がいた。

 その生徒を見た途端、ふと違和感を覚える。

 見た目に特徴はない。言うなれば、特徴が全くない事が特徴なのかもしれない。

 制服の着こなし、髪の長さ、整髪料の類も香料のような匂いもしない極々一般の男子生徒。正しく校則に従っている真面目そうな男。唯一男が他人と違うとすれば、それは佇まい。ピンと伸びた背筋と男らしい身体のライン。身長は175センチ程度だろうが、数字よりも大きく見えた。

「……ちょっと君」

 生徒会長としての仮面を被り、声をかける。

 声をかけてから、この男に対する違和感に気がついた。

 私の記憶にない、と涼子は思い至る。

 顔も、名前も、学年も分からない。

 こんな生徒いたっけ? と自分の記憶力が不安になる。

 二年生。名前を有馬蒼介と名乗った。

 でも、もう良い。それだけ聞けば充分だ。しかし、こんな普通の男が件の元凶なのだろうか、と思案する。

 この男をサッサと結界魔術を施した校門に通して確かめてしまおう。

 果たして彼が白なのか黒なのか。

 努めて、ニッコリと会長スマイルを作り、気持ち良く送り出す。

 すると、何故か有馬蒼介はビクッと強張る素振りを見せた。

 心外ね、と涼子は内心ごちる。

 彼が通る瞬間を見逃さない。

 彼が校門を通り過ぎる。

 反応はない。

 涼子自身にも何も感じるものはない。

「シロ、かぁ……」

 安堵半分、悔しさ半分と言ったところだ。

 しかし、何故あの有馬という生徒が自分のデータベースから抜け落ちていたのだろうか、涼子は思った。

 それが、有馬蒼介と赤川涼子の最初の邂逅だった。



 ※


 --全ては過去ここから始まった。さぁ舞台装置は整った今世の群像劇グランギニョルを始めましょう--






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