第39話

 月の見えない闇の中。

 時代から取り残されて朽ちようとした砦は、巨人が蹲るような不気味な存在感を放っていた。

 泰風はそこに忍び込んでいた。

 すでに外で見張りをしていた二人の黒ずくめを、打ち倒した。

 一人は闇から忍び寄って気道を締めて気絶させ、さらにもう一人は腹に拳を叩きつけ、伸したのだ。

 泰風は壁を這い上がり、身を低くして、暗闇から敵の動向を窺う。

 耳が痛くなるほどの静けさが満ちていたが、かすかに騒がしくなった。

(侵入に気付いたか)

 わざと目立つところに、気絶させた二人を置いていた。

 相手側に動きがあれば、旬果たちの居場所を特定できる手がかりになると考えたからだ。

 三人はまだ恐らく生きているはずだ。

 なぜなら、まだ兵士たちは厳重にここを守っていたからだ。とうに処分したのならば、ただちにここを去るはず。

(だから、旬果様はまだ生きておられる)

 泰風は自分に言い聞かせるよう、胸の内で思う。

 気配が近づく。泰風は飛び出す。虚を突かれたのは、二人の黒ずくめ。一人の顎に掌底を叩き込み、もう一人のこめかみに上段蹴りを浴びせ、昏倒させた。

 そして素早く駆ける。闇の中に篝火の火の粉が舞い上がった。

 足音に耳を澄ませる。

 もし地下に旬果たちが囚われていれば、そこにある程度の人数を割くはず。

 しかし気になる足音はなかった。

(……旬果様は最上階か)

 そう思い定めた時。

「賊よ、出てこいっ!」

 大音声が響き渡った。

 その声には嫌というほど聞き覚えがあった。

 泰風が廊下を抜ければ、闇に包まれた空が見えた。どうやら砦の最上階に出たらしかった。道は真っ直ぐに伸び、その先に砦の隊長の住まいとして造られたと思しき、平屋の居館があった。

 が、泰風と居館の間には、鋼の鎧に身を包んだ男が立っていた。

「……仁傑将軍」

 仁傑はにやりと笑う。

「賊はお前だったか……。魁夷ごときが忠臣面で、単身乗り込んで来たのか?」

「旬果様を返して頂きたいっ」

「断る! 皇后の座は妹のものだっ! 再び洪家は興隆するっ!」

 仁傑が剣を抜く――刹那、泰風は背後に気配を感じ取る。

 振り向きざまに剣を抜き、忍び寄っていた二人の黒ずくめを斬り伏せた。

 次の瞬間。仁傑が地を蹴って肉迫、剣を振るう。

 間一髪の所で受け止めれば、目の前で火花が散った。


 旬果は洪周を見る。

 彼女に声をかけているが一瞥もされず、すでに声は嗄れかけていた。

 劉麗と慧星は精も根も尽き果て、何もかも諦めてしまったかのように身動ぎ一つしない。

 と、初めて洪周が旬果を見た。その腕には、褐色の壺を抱えていた。

 旬果の目の前で、壺の中身をぶちまけ始める。

 むっとする嫌な匂いが鼻をつく。油だ。

 旬果は身動ぐ。

「洪周! やめてっ!」

「……もし、あなたが皇后候補でなかったら……。何度もそう思ったわ。そうだったら、私達は本当の友達になれたのにって……」

 無表情のまま、壺をさらに二つ中身を開けた。

 油の異臭に、ぐったりしていた劉麗と慧星もさすがに顔を起こす。

 洪周はゆっくりとした足取りで出入り口の扉に向かうと、その傍にあった手燭を取る。

「さようなら」

 旬果は身を乗り出す。

「洪周――――!!」

 手燭が手から離れる。火種が油の撒かれた床に落ちれば、紅蓮の炎がまるで生き物のように床をあっという間に呑み込んでいく。

 洪周は、足早に部屋を出て行く。

 身が竦むような炎はたちまち、旬果達の逃げ場を塞ぐ。

 その光景が過去の情景と重なる。

 激しい恐怖に縛られ、旬果は炎に魅入られたように呼吸すら忘れてしまう。

 その間にも大人の背よりも高くなった火柱が屋根を食らい、湧きあがった黒煙が視界を塞ぐ。

 激しく噎せ返り、涙で視界が滲んだ。

(泰風……!)

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