第37話

 扉が叩かれる音に玄白は、顔を上げた。

「玄白。いるんだろう。開けてくれっ!」

 泰風だ。

 玄白は急いで玄関に向かうと、扉を開けた。

「どうした? またあの女のことで悶々としたのか?」

「ふざけてる場合じゃない。助けて欲しい」

 親友のこんな願いは、初めてだ。

「何があったんだ?」

「旬果様たちが、行方知れずになってしまったんだ」

 玄白は眉を顰めた。

「たち?」

「実は――」

 泰風は宴の席であったことを話す。

 玄白は眉を顰めた。

「――それでここに来たのか。だが捜索の兵は出されたんだろう。だったらその内、見つかるんじゃないか?」

「こんな時間になってまでも戻って来ないんだぞ! 何かあったんだっ!」

「皇帝の命に逆らうのか?」

 泰風は意外そうな顔をする。

「お前が陛下の命にこだわるとは知らなかった」

「私は気にしないさ。宮仕えもせずに、本に埋もれているだけの日々だからな。――私は違うが、お前は忠臣だろう」

「俺が大恩あるのは、旬果様であって陛下ではない」

 泰風の目は一部の揺らぎもない。本心から言っているのだろう。

 玄白は笑う。

「泰風、良かったな。私が宮仕えしていたら、今の言葉を皇帝に注進していたところだ」

「それで助けてくれるのか? どうなんだ」

「だが、どうして私に助けを求める? 私に体力がないのは知っているだろう。足手まといになるだけだ」

「お前に体力は期待してはいない。だがお前には知識がある。俺が気づけないことを、お前は分かるかもしれない」

「……二重遭難という言葉を知ってるか?」

 泰風は深々と頭を下げた。

「玄白。頼む。頼りはお前だけなんだっ!」

 泰風の二つの眼差しが、真っ赤に燃えていた。

 それは魁夷の特徴で、感情が高ぶると眼差しが色を変えるのだ。

 それは背筋がぞくりとしてしまうくらい、蠱惑的だった。

 玄白は、その二つの眼差しに見とれてしまう。

 こんな目を見せられて、断れる奴はいない。

「分かったよ。夜が明けるまでまだ時間がある。探すのは日が上がってから……」

「時間がない。今から行くっ」

 さすがに玄白は戸惑う。

「今からって……。こんな夜中にか。無茶だ」

 泰風は、逞しい腕を差し出してくる。

「掴まれ」

 玄白は呆気にとられる。

「は? 何を言って……」

 泰風は説明するのが面倒そうに、

「良いからっ」

 片腕で玄白を抱きしめる。

「っ!?」

 玄白は声を上擦らせてしまう。泰風は玄白を荷物のように肩に担げば、外に出る。

 そして城壁をひとっ飛びで越えられるほどの、跳躍を見せた。

「――――っ!?」

 闇の静寂を引き裂くような玄白の悲鳴が、響き渡った。


「――おい。玄白、平気か?」

 玄白ははっとして、辺りを見回した。

 そこは剥き出しの岩肌だらけの山道だった。

 どうやら少しの間、気を失っていたようだ。

「……こ、ここは?」

 玄白が最後に覚えている光景は、点のように小さくなった都の景色だった。

 泰風は言う。

「芳春山だ」

「く、くそ。無茶しやがって……」

 玄白の弱り切った様子に、泰風は苦笑する。

「お前も意外と柔だな。気絶するとは思わなかった」

 玄白は乱れた髪を手櫛てぐしで直す。

「……あんな人間離れしたことをされたんだぞ。普通の人間は気でも失わなきゃ、やっていられない」

「旬果様は喜ばれていたぞ?」

「あの女にも、こんなことをしたのか?」

「まあ、もっとちゃんと運ばせて頂いたがな……」

「私にも、そうするべきだったな」

「男がああだこうだ言うな。それより昇るぞ」

「こんな暗闇をか?」

「俺の後を付いてきてくれれば良い」

 そうして緩やかな坂道を、泰風たちは進んで行く。

 と、泰風はあるものに目を留めた。

 玄白が、突然立ち止まった泰風に問いかける。

「どうした?」

 泰風はゆっくりとそれに近づく。それは、崖の少し下辺りから突きだした木の根に絡まっていた布きれだ。

 泰風は、玄白に問いかける。

「これは何だと思う?」

 玄白はそれを色々な角度から検分すると、自分が身に纏っている深衣の袖にあてがう。

「……恐らく衣服の袖の一部だ。この袖口は小さいから、作業をするための衣装……。男ものではないな。女か、子どもか」

「旬果様は女官の服をお召しだった。その方が山登りに適していると……」

「……さすがは山猿。賢いな」

「おいっ」

 玄白は肩をすくめる。

「五嶽は役所によって厳重に管理されている。足を踏み入れるのは、役人くらいなもんだ。最近、ここで事故が起きたって話は聞いてない。となると、あの女の物だと思った方が良いかもしれないな」

「では、旬果様は落ちたのかっ!?」

「いや。その可能性は低い。崖の縁を見ろ。どこにも崩れた痕跡がない。人一人が落ちれば、それなりの痕跡はあるはずだ。しかし、ここで何かがあったことは確実だ……。無論、野生動物に襲われた訳でもない。もし襲われていれば、腕の一本でも落ちてても良いだろう」

「なら、賊か」

 しかし、それに対しても玄白の反応は薄い。

「言っただろ。ここは厳重に管理されてる。旅人がふらりと立ち寄れる場所でもないのに、賊が潜む理由もない」

 玄白の言葉には説得力がある。尚更、泰風の胸に芽生えた不安は色を濃くし、泰風をますます苛んでいく。

(それなら旬果様方はどこへ……?)

 泰風は激しい焦燥感を覚えながら、あたりを見回す。何でも構わない。旬果が無事だという証が欲しかった。

 と、見回していた泰風は、北の方に目を留めた。

「……灯りが見える」

 玄白は眉を顰め、泰風がじっと見ている方角に目を凝らす。しかしすぐに諦めたようだった。

「何も見えないぞ。見間違いじゃないのか?」

「俺を人間と一緒にするな。こっちの方角に何か建物はあるか?」

 玄白は神妙な顔つきになり、考える。

「……暗黒時代に築かれた砦の廃墟があるはずだが。まさか……」

「誰かがそこにいる、ということだ」

「捜索隊じゃないのか?」

「旬果様はこの山で行方が分からなくなったんだぞ。――確かめに行く」

 玄白はすでに前のめりになって、ここから跳躍しようとしている親友を押しとどめようとする。

「待て! 本当にあそこに何かがあるとは、限らないんだぞっ!」

「ここにいて可能性ばかりを考えていても、始まらない。こうしている間にも旬果様のお命が危険に晒されているのかもしれない。俺はっ……」

「よく聞け。もし仮にあそこに何者かがいて、そこに女どもがいたとしよう……。たった一人で何が出来る? ここは捜索をしている将軍たちに伝えるべきだ」

 玄白の要請を、泰風は拒絶した。

「時が惜しい。それはお前に任せるっ」

「お、おいっ――」

 泰風は親友の制止を振り切り、闇に向かって跳んだ。

 瞬く間に、その姿は闇に紛れて見えなくなってしまう。

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