第28話

 簫玄白しょうげんぱくの屋敷は、都の内郭ないかくにある。

 内郭というのは皇城にある官僚街のことだ。

 ここでの暮らしを許されるのは、帝室に仕える者、もしくは権門貴族のみ。

 玄白は後者に当たる。簫家は洪家同様、功臣の家柄だ。

 玄白は簫家の嫡男の権利を行使して、ここで一人、暮らしている。


 今日も今日とて玄白は夜が更けても、蝋燭の明かりを頼りに書物に目を通す。

 室内には、書物を捲るかすかな紙の音がひっそりと響く。

 だがこの日は違った。

 ドンドン、と扉を叩く音が不意を突く。

 玄白は一度顔を上げるも、すぐに書物に目を戻した。

 こんな夜更けの訪問者など、ろくな者ではない。無視だ。

 しかし門を叩く音はなかなか止まない。

 玄白は、綺麗な弧を描いた眉を顰める。

 昔、訪問者の対応のために使用人を雇っていたが、自分以外がこの部屋にいるということに耐えきれず、すぐに解雇してしまった。

 今は使用人が喉から手が出るほど、欲しい。

 と、門を叩く音が途切れた。

(諦めたか……)

 そう思った時である。叩く音の代わりに聞こえてきたのは、

「――玄白。いるんだろ。俺だ。泰風だ」

 親友の声だった。

 さすがにこれには無視をする訳にもいかず、玄白は床に山積みにされた本の間を縫い、喜び勇んで扉を開ける。

 本当に、親友の姿がそこにあった。

「こんな時間にどうした!」

「……少し良いか。話がしたくって……」

「あ、ああ……」

 いつもと様子が違う泰風を、玄白は室内に招き寄せる。

 泰風は部屋を見回しながら、

「相変わらずだな。足の踏み場もない……」

 床という床には本が置かれ、唯一通路と呼べるものは、玄白のいる書見台の周囲と、玄関を結ぶ動線だけである。

 泰風は仕方なく、玄関脇の壁に寄りかかった。

「何の為に棚があるんだ?」

 泰風は空っぽになった本棚を見て、溜息を吐く。

 玄白は微笑む。

「いちいち棚に戻すのが面倒なんだ。床に置いておけば、いつでも手を伸ばして取れる」

「……なるほど」

 泰風は曖昧に頷く。

 玄白は泰風を見つめる。

「で、どうしたんだ? あの女に、追い出されたのか?」

「旬果様がそんなことをする訳ないだろう」

「それはそれは」

 玄白は肩をすくめた。

 泰風が、あの女――旬果の肩を持つのは面白くない。泰風が来てくれて、本当は嬉しいくせに自然と唇が尖ってしまう。

「で? 本当に何があった?」

 顔を上げた泰風が、ゆっくり口を開く。

「……旬果様が、火事の記憶を取り戻された」

 玄白はさすがに驚いた。

「どうしてそんなことに……」

「……旬果様が、記憶を取り戻したいと後宮に行かれて……」

「引き留めなかったのか?」

「出来るはずないだろ。……協力した」

 玄白は呆れてしまう。

「馬鹿が」

「旬果様がお望みになったことだ。ご自分の過去を失われて苦しむお姿を、見てはいられなかった……」

「記憶を無理に思い出せば、混乱するだけだろう。それにあの女は訳ありだぞ。全く……」

「では、どうすれば良かったんだ」

「止めるしかないだろ」

 と、玄白は、とある可能性を思いつく。

「まさか。お前、自分のことをもっと思い出して貰いたいと、思ったんじゃないだろうな?」

「ちっ……」

 違う、とは言い切らなかった。いや、言い切れなかったのか。

 玄白は溜息をついた。

(あの女のどこが良いんだか)

 玄白は旬果が都からいなくなって間もなく、彼と知り合った。だから公主時代の旬果と、泰風の関係がどんな物であったかは、よく知らない。

 ただ今の所、旬果は努力をすることも知っているし、頭の空っぽな人種ではないようだが。

 とはいえ、玄白からすれば田舎生まれの芋女だ。

 玄白は泰風を見た。

「……臆病者め」

「な、何だとっ!?」

「好きだと言えないから、あの頃のことを思い出してもらいたかったんだろう。そんなに想っているなら、さっさと自分のものにすれば良い」

「そんなこと出来る訳がないだろ。旬果様は皇后におなりあそばされる……いや、それだけじゃない。元々はお側に近づくことすら、許されないお方……」

「もしあの女を物に出来る立場にいれば、やってるのか?」

 泰風は気まずそうに口ごもった。

 親友の、旬果を想う気持ちに妬けながら、玄白は笑う。

 泰風は拗ねる。

「笑いたきゃ笑えよっ」

「あの女と再会する前までは、お前、あの女のことを自分を救ってくれた恩人だから、早くお側に仕えたいと言っていたが、実際は全然違うんじゃないか」

 気まずげに黙り込んでしまった泰風の耳は、ほんのりと紅潮していた。

 本心から言えば泰風とあの女がどうなろうが、玄白の知ったことではないし、知りたくもない。しかし親友の沈み込んだ顔は見たくない。

「遠慮するなよ。皇后といっても形だけなんだ。あの女は帝室の血統を継いでいるが、それを知ってるのはごく少数。別にお前が自分のものにしたところで何ら問題はない。あの女だって、お前を嫌ってはいないだろうし」

「ば、馬鹿も休み休み言え……っ」

 玄白は苦笑する。

「分かったよ。だったら私から言えることは何もない。さっさと帰れ。書見の邪魔だ」

 泰風は諦めたように踵を返す。

「……突然押しかけて、悪かった。……話を聞いてくれてありがとう」

 そう言って出ていく。

 子どものようなことで悩む泰風を、旬果は微笑ましく見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る