第20話

 村ではあんな心のねじくれた会話など、一度もしたことがない。

 表面的には友好ながら、旬果をつるし上げにして楽しもうという下衆さが、ありありだ。

 しかしそんなことより気持ちを暗くさせるのは、洪周が二人の会話を寄りにも寄って劉麗のような女に、話していたことだ。

(……これも後宮での、保身術の一つなの……?)

 確かに洪周は、家のこともあって切羽詰まっているのかも知れない。

 旬果と仲良くしてて良いことなど何もない。

(頭では理解出来るけど、結構辛いかも)

 伏魔殿で出会えた友人と信じただけに、衝撃は尚更だ。

 涙をこぼすまいと、天を仰ぐ。

(駄目よ。こんなことくらいで挫けてられない……!)

 旬果は袖で目元を乱暴に拭うと、忘れろと自分に言い聞かせ、軽く両頬を叩いた。

 それに劉麗たちの元を辞去出来たのは良いとしても、現在、大問題が発生中であった。

(ここ、どこなの!?)

 旬果は辺りを見回すが、来た時にはこんなところ一度も通らなかった。

 一刻も早くあそこから逃れたい余り、がむしゃらに歩き続け、我に返ったのがここだったのだ。

(ここは迷路っ?)

 しかし女官に道を聞く訳にはいかない。騙されて、またあの陰険女どものところに連れ戻されるなんて真っ平だ。

(本当に無駄に複雑な造りなんだから。迷わせる為に作ってるとしか思えない!)

 しかしよくよく考えれば、自分はかつてここで暮らしていたはずである。

 皇女なのだから、きっとたくさんの女官がついていたに違い無い。

(もし私がずっとここで暮らしていたら、ああいう性悪になっていたのかな……。なっちゃってる可能性はあったかも)

 旬果は庭に面した廊下の欄干を、人差し指でなぞりながら歩く。

(ここに記憶を取り戻す手がかりがあるかもしれない。泰風のことも……)

 キョロキョロして周囲へ目を配り、失われた八年間の断片を求める。

 そしていくつか廊下を折れた。

 しかし、頭には何も浮かんではくれない。

 心細さに拍車がかかってしまう。

 早く菜鈴や泰風の待つ白鹿殿に帰りたい。

 手すりに寄りかかって、頬杖をつき、見事な庭園をぼけっと眺める。

 その時、旬果の目の端に、少年の姿が映った。

 はっとして顔を上げた。

「え?」

 ここは後宮であり、入れる男子といえば皇帝か、その子息……。

 しかし瑛景に弟も子もない。

 旬果は、恐る恐る呼びかけた。

「君、誰?」

 少年はおどおどしながら涙ぐんで、旬果の声に何ら反応を見せない。

 旬果は庭に下り、「ね。君、誰?」ともう一度声をかけるが、反応は同じだ。

 もう一度呼びかけようとしたその時、少年が顔を上げた。

 しかし少年は旬果を見てはいなかった。その視線をなぞる。

 ついさっき自分がいた廊下に、少女が佇んでいた。少年と同い年くらいだが、化粧もしているし、髪飾りがやたらと豪華である。

 そしてその子の顔には、今の旬果の面影が……。

(え。私……?)

 刹那。

「――……っ」

 激しい耳鳴りと共に、旬果は激しい頭痛に襲われ、その場に蹲ってしまう。

 頭が割れそうになり、呻く。幾ら頭を押さえても、その痛みは収まるどころか、激しさを増す。

(誰か……っ!)

 悲鳴を上げ、旬果は前のめりに倒れた。


 目の前に少年がいた。

 いつものように少女――旬果は女官たちの目を盗んで部屋を飛び出し、庭を眺めていた。

 と、茂みがざわざわと鳴った。

 びくっとして身構えた旬果の前に、よろよろと足取りの覚束ない少年が現れた。

 少年は怯えたように旬果を見、涙ぐんでいた。

 ――あなた、誰?

 旬果が声を掛けても、少年はおどおどして答えない。

 ――私は旬果。

 旬果が返答を根気よく待っていると、少年がぽつりと呟く。

 ――……た、泰風……。

 ――泰風。よろしくね。でもここは男の人は入ってはいけないと、父上が仰ってたわ。あっちに出口があるから、連れていってあげる。

 旬果は庭に下りると、少年にそっと手を差し出す。

 泰風は、手を取るべきかどうか迷う。

 旬果が泰風の手を取れば、彼ははっとして恥ずかしそうに目を伏せてしまう。

 一緒に歩き出そうとしたその時、女官や宦官達が駆けつけてくる。

 ――姫様、いけません!

 ――その者から離れて下さい。その者は、魁夷ですよ!

 旬果が泰風を見る。

 ――そうなの?

 泰風は俯いたまま、答えなかった。

 旬果は、女官たちを見る。

 ――魁夷だから何なの? そんなこと関係無いわ。

 そこに黄色の龍袍をまとう髭を蓄えた男と、その後から緑の襦裙を身につけた若い女性が現れた。

 女官や宦官たちは、その場に平伏した。

 旬果は顔を上げた。

 ――父上、母上。

 父、皇帝の瑛恭才えいきょうさいが言う。

 ――旬果。その者は?

 ――魁夷だそうです。多分道に迷ったんです。外まで案内しようと思いまして……。

 恭才は傍で、平伏している宦官に尋ねる。

 ――この者は?

 宦官は恐懼する。

 ――は、はい。昨夜、魁夷の子どもが宿所から逃げたという報告があり、その者かと……。

 恭才は旬果に言う。

 ――その者は奴隷だ。働き場がある。

 旬果は反論する。

 ――まだ子どもです。瑛景とそう変わりません。

 ――その者にはその者の、居場所がある。我々とは違うのだ。

 ――では、私の元で働かせて下さい。

 ――その者は男だ。後宮には……。

 ――後宮でとは言いません。私が外に出た時に護衛をさせたいのです。その為にはこの者には力が要ります。錦衣衛に入隊させて下さりませんか?

 娘の要望に恭才は眉を顰めた。

 ――何を言っているのだ。魁夷を傍に置くなど……。

 ――父上。いずれ私は誰かに嫁ぎます。その時に一緒に嫁ぎ先に行き、私を守ってくれる者が必要です。魁夷であれば、とても頼もしいと思うのですが……。

 ――お前の気持ちは分からないではないが……。魁夷に同情するたび、お前はそのような無茶を言うつもりか?

 ――父上、母上。私が偶然出会った魁夷の少年を見ても、何とも思わぬ子であることをお望みでしょうか。それをお望みであれば、私は今申し上げたことを全て忘れます。

 しばらくの間を置き、恭才は妃と顔を見合わせる。

 母の法那が言う。

 ――旬果。皇族の言葉は重い。後で気分が変わったは、許されませんよ。

 ――分かっています。

 法那は皇帝に頷く。

 ――………良いだろう。公主の言う通りに。

 ――父上、母上。ありがとうございますっ!

 泰風は深々と頭を下げ、去って行く皇帝夫妻を見送った。

 そして泰風を軍営に案内するよう申しつかった宦官が、少年に言う。

 ――ついて来い。

 旬果は呼び止める。

 ――待って!

 旬果は泰風へ足早に近づけば、自分が首にかけていた帝室の証たる玉鈴を、泰風の手に握らせる。

 宦官が慌てて止めようとするが、旬果は一瞥して制する。

 泰風が旬果を見る。

 ――これ、何……?

 ――お父様から頂戴した物よ。あなたは私に仕えるのだから、他の人に従っては駄目よ。これを首にかけて、それを忘れないで。

 ――はい!

 ――耳を澄まして。これはね……。

 チリンッ。

 この清流のように穏やかで、心に響く音色が旬果は大好きだった。

 そしてそれは泰風もそうだった。音色に少年は、やわらかな笑みを見せてくれた。 

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