第4話

 翌朝。

 旬果は四頭立ての馬車に乗り込み、村を出立した。

 婚礼用の深紅の襦裙に身を包んでいる。その襦裙はこれまで触れたどんなものよりもなめらかな手触りで、自分がいかに場違いな状況にいるかを、いやでも感じさせる。

 それに豪華な着物には女として惹かれるが、いかんせん歩きにくい。裾を踏んで、車に乗りこむまでに何度転びそうになったことか。

 瑛国の都、華京陽天府まではおよそ十日の道のりである。

(お尻が痛い……)

 そんなことは馬で何度も経験してることだが、馬でのんびり原っぱや起伏のある土地を駆け回るのと、こうして狭い車中でじっとしているのとでは、雲泥の差である。

 車に乗り込んでから、一体何度座る位置や体勢を変えただろう。

 車の中には一応、小説の類いも置かれてはいる。文字は両親から教えられているから読めるには読めるのだが、こんな狭い所で細かい字など見たら、お尻の痛みに加えて車酔いしそうだから手は出していない。

 しばらくすると、ようやく休憩時間である。

(待ってました!)

 これだけが唯一の救いである。休憩時は堂々と外に出て、身体を伸ばすことが出来るのだ。

 車の扉が開かれると、柔らかな笑顔をたたえた、勅使の青年が待っている。

 差し出された手をそっと取り、馬車から降りた。

 さすがは武官なだけあって、青年の手は分厚く固い。

 普段、親以外の異性と触れあう機会などないから、無駄にドキッとしてしまう己のうぶさが不甲斐ない。

(この人は私のことを、知ってるのかな?)

 しかし青年の表情からは、何も分からない。

 この道中で分かったことは、青年が他の兵士から遠巻きにされている、と言うことだ。孤立していると言うのか。だが本人は平然として、意に介してはいないようだが。

 旬果は小さく伸びをして、近くの小川に行く。

 喉が渇いて、川の水を手で掬おうとすると、青年から瓢箪を差し出される。

「川の水は、お腹を痛めるといけませんので」

「あ、ありがとう」

 瓢箪の栓を抜き、ぐっと仰ぐ。

「はあああっ! 生き返るーっ!」

 旬果は思いっきり言えば、小さく拍手が聞こえた。振り返ると、青年が手を叩いていた。

「良い飲みっぷりですね」

「っ!」

 思わずいつも家で飲むように腰に手を当て、ぐびぐびと喉を鳴らしていることに気付き、耳まで熱くして赤面してしまう。

「……ご、ごちそうさま」

 おずおずと瓢箪を返す。

「見ていて気持ち良かったです」

 赤面しつつも、さらに口元を腕で思いっきり拭ってしまうのを見られて、もう青年の顔は見られないと心の中で絶叫し、空気を変えようと口を開く。

「陛下は、どういう方なの?」

「素晴らしい方です」

「もっと具体的には? 性格がどうとか……」

 すると、青年は微妙な顔をする。

「独創的な方、かもしれません」

「……変人ってこと?」

 青年は苦笑する。

「私の口からは何とも……」

「そ、そう」

(はぐらかされた! 絶対変人なんだ!)

 自分の弟が変人。それ以上の想像はしたくない。

 自分は果たして都でどんな目に遭うのか。

 都での生活への不安が、唐突に鎌首をもたげ始める。

 もっと青年から何か聞けないかと考えていると、兵士が近づいてくる。

 兵士は青年ではなく旬果に直接、告げる。

「そろそろ出立の時刻です。車へお戻り下さい」

「……分かったわ」

「さあ、戻りましょう」

 青年が手を貸してくれる。

「ええ……」

 どぎまぎしながら、手を握った。


 そして何事もなく大陸の中央――関中にある都、華京陽天府に辿り着く。

 県都や州都にすら行ったことがない旬果からすれば、まずその城壁の広大さに目を丸くした。

 城壁の西端が霞んで見えるのは言うまでもなく、その城門はまるで巨人がくぐるように設計されたかと見紛うばかりに、幅や高さが桁違い。

 さらに傍を流れる龍江を街中に引き込むことで、一大商業都市としても名高いらしい。

 これまで出向いていた街など、目の前の都と比べれば小型模型である。

 城壁を潜ってさらに驚かされた。

 都大路の広さと、行き交う人々の数に眩暈すら覚えてしまう。

 それに軒を連ねる商店の数々。

 一体何をどれだけ売ろうと思っているのかと思うくらい、店の一つ一つが大きい。

 振り売りの行商人も多い。

 そして都のあちらこちらで聳え立つ幾つもの塔を、口をぽかんと開けて見上げた。

 完全に田舎者丸出しではあるが、気になるものは気になるのだ。

 やがて行く手に巨大な建物が現れる。

 門は門らしいが、街を囲っている城壁のように、ただ石を組んでいるだけではない。

 絢爛豪華な朱塗りの楼閣が、何段にも渡って飾られている。

 旬果は否応なく緊張し、全身を強張らせた。

 さらに正門よりもやや小ぶりな門を四つ抜けた先で、車は停まった。

 青年の手を借り、車から下り立つ。

「ここは?」

「陛下がおいであそばされている皇城でございます」

 旬果は辺りを見回した。

 かつて自分は、ここを見たことがあるのだろうか。

 しかしどう見回してみても、ぴんとは来なかった。

 数人の兵士と青年に導かれ、寝殿の奥へ足を踏み入れる。

 奥へ行くごとに、護衛の兵士たちが一人、また一人と欠けて、結局、青年一人っきりになった。

 そしてとある部屋に至った。

 そこでは女官が待ち受け、ゆっくりと旬果に頭を下げる。

 旬果は心細さを覚えて、青年を振りあおぐ。

「ここに?」

 青年が小さく頷く。

「陛下の私室です」

 女官が傍にあった鈴を鳴らせば、扉が内側よりゆっくりと開かれる。

 青年にそっと促された。

「さあ」

「……ええ」

 小さく頷いた旬果は、衣装の歩きにくさに悪戦苦闘しながら、ゆっくりと室内に進んだ。

 旬果が住んでいた家が十は入りそうな、広々とした室内。

 そこに昇竜を描いた黄金色の袍に身を包んだ少年と言って良い年代の子が、長椅子に寝そべっていた。

 周囲には、世話をする女官たちが侍る。

(この子が私の弟……?)

 先帝の急死を受け、若干十四歳で即位した瑛国十一代皇帝、瑛景。

(たった十四歳でこの国を背負うなんて)

 村の十四歳の子どもなどと、女の子に嫌がらせをして楽しんでいるのが関の山だ。

 まず何と言えば良いのだろう。

(こんにちは? 元気? ……分からない!)

 旬果がモジモジしていると、少年が口を開く。

「皆、下がれ」

 女官たちを一言で全員下がらせた少年は、しずしずと歩み寄ると、

「姉上ですね」

 と言う。

 旬果は、照れくささを覚える。

「……そう、かな?」

「私のことを覚えておられますか?」

「……ごめん」

 ばつが悪くて目を伏せてしまうが、瑛景は気にした風でもない。

「仕方ありません。姉上は八歳で都を離れた御身。私のことを覚えていないのも道理です」

(なんだ。案外普通だったんだ。良かった)

「わ、私に助けて欲しいことがあるから、呼んだのよね……?」

「さすがは姉上! 私の言いたいことをずばり言って下さる。父上も姉上の利発さを褒める訳です!」

「……父上が、私のことを」

「そうです。姉上が男であれば世継ぎにしたいとよく仰られていて……」

 胸の奥が温かくなる。

 父である先帝は、自分を愛していた――義史が言っていたことは本当だったのだ。

 褒められて、こそばゆい。

「それで、私は何をすれば良いの?」

「悪女になって下さい」

「え?」

「悪女になって下さい」

 瑛景は毒気のない、無邪気とも思えるような笑顔でそう言ったのだ。

 一方の旬果の顔は引き攣る。

「ご、ごめん。今、悪女になってくれって聞こえたんだけど……」

「ええ。そう言いましたから」

「そう言いましたからって……」

「――で、私を幽閉して頂き、最後には登極して頂くのです。皇帝になり、この国を再生して……」

 茫然とする旬果などおかまいなしに、瑛景はどんどん話を進める。

「ちょっと待って!」

 慌てて旬果は言葉を遮る。相手が皇帝だとかそんなことは関係ない。

 第一、姉なら皇帝に失礼にはならないはずだ。

「今、何て言ったの!? 幽閉!? どうして私が弟を幽閉しなきゃいけない訳!?」

「姉上が悪女だからです」

「あんたが私の何を知ってる訳!?」

 瑛景はきょとんとした顔をし、青年を見る。

「何も言ってないのか」

「はい……。私めが何か言って誤解させてはいけないと思い……」

 青年はこの部屋に入って以来、さっきから片膝を付いて畏まっていた。

 旬果が声を上げる。

「ちゃんと説明して」

 瑛景は面倒そうに溜息をつくと、長椅子に寝そべった。

 旬果は腕を組んだ。

「人にものを話すんだったらせめて、身体を起こしなさいよ」

「姉上。そんな固いこと――」

「姉弟の間にも、最低限の礼儀があると思うけどっ」

 瑛景は少し不満そうだったが、大人しく身体を起こしてくれる。

「姉上。我が王朝は衰退の一途を辿っております」

 そんな不穏なことを緊張感の欠片もない顔でのたまうのだ。

「そうなの? 平和だと思うけど……」

「一見すると平和です。しかしその実、瑛国という果実は内側から腐り始めているのですよ。正直、皇帝は今やお飾りにすぎません。権門と呼ばれる貴族たちが、政治を壟断しているのです。今は目に見えては分からないのでしょうが、貴族たちの私利私欲で民たちの暮らしもいずれ、立ちゆかなくなるでしょう」

「なるでしょうって、どうしてそんな他人事なのよ」

「ですから皇帝はお飾りなんです。父上も改革を進めようとしましたが、権門の猛反発を受けて挫折してしまわれた。その心労で亡くなられたのです。私が何かをすれば呆気なく潰され、ともすれば暗殺されてしまうでしょう」

「そこまで……?」

「彼らからすれば、皇帝の首をすげ替えることなど容易いことですから」

「でもあんたはまだ、子どもとかいないんじゃないの?」

「いなくとも、我が瑛国が封じた珠国、蔡国、理国、羅国、興国には高祖の血統を受け継ぐ皇族がいるのです。無論、その血は限りなく薄い傍系ですが、己の権力を守ろうとする貴族たちにはどうでも良いことでしょう。所詮、お飾りなのですから」

 どう言えば良いのか分からなかった。田舎者の自分からすればそもそも都のことなど、別世界のことも同然だったから。

「そこで姉上なのです」

「そこで?」

 旬果は眉を顰めた。

「姉上には私の妻になって――」

 旬果は思わず自分の身体を抱きしめ、弟との距離を取る。

「何言ってるの! い、いくら皇帝だからって、実の姉と結婚することを望むなんて間違ってるわよ!?」

 瑛景は苦笑する。

「あくまでも、振りですよ。姉上には皇后になって頂き、悪女に――」

「そこよ!」

「は?」

「それが分からない。百歩譲って皇后になった振り、は分かるわ。でもなんで悪女にならなきゃいけないの!?」

「ですからこの国を守る為です。姉上に歴史に残るような悪女になってもらい、私がそういう悪女にぞっこんになったという体で、権門勢力を退け、改革を断行。姉弟で力を合わせて貴族共を退けるのです!」

(頭痛くなってきた……。こんな奴、独創的なんて言葉じゃ済まされない。いかれてるわ!)

 一方、瑛景は目を爛々と輝かせ、得意げに言う。

「名案でしょ?」

「どこがよ!」

 瑛景は、不思議そうな顔をする。

「え。そうですか?」

「第一どうして悪女にならなきゃいけないの? 別に良妻で良いじゃない!」

「いけません」

 正直、この先の説明は聞きたくないが、問わないわけにもいかない。

「……どうして」

「膿を落としきるには、根本から変えなければいけないからです。それに必要なのは、あらゆる人間の度肝を抜くような奇抜な悪女! 宮廷の秩序を破壊し、再生しなければならないのですから……」

「……さっき、変な事言ってたわよね? あんたを幽閉するって……。あれはなんで?」

「姉上には権力を掌握した後は、私を幽閉して皇帝になって頂きたいのです。あ、もちろん幽閉というのも、あくまで振りですよ? 傍から見たら幽閉っていう感じで良いので、実際は好き放題させて……」

「絶対嫌! 他力本願にも程があるでしょ!? そんなことまで考えるんだったら、あんたがどうにかしなさいよ!」

「私では刺客に襲われたら一巻のおしまいですが、姉上は田舎の猟師根性でどうにか乗り切って下さると信じてます!」

「……人を馬鹿にしてる?」

 瑛景はきょとんとする。

「いいえ。褒めてるつもりですが」

(本気みたいね)

 しかし、こういう人間ほど始末に負えないのもまた、真実。

「悪いけど、そんなことに付き合えないから」

 踵を返そうとしたその時、

「――ではこの国も終わりですね……」

 そう瑛景は呟いたのだ。

 足も自然と止まる。

「父上は遺言状で、姉上の力を借りて二人でこの国を立て直し、民衆を救って欲しいと書かれていたのに……あぁ。父上。無力な私をお許し下さい。この国は私の代で終わ――」

「待ちなさいよ。まだ何もしないとは言ってないでしょ!」

 瑛景は落ち込んだと思ったのも束の間、満面の笑みを浮かべた。

「では、やって頂けるんですか!?」

「……あ、悪女になるかどうかはともかく、私があんたの妃になる振りは、するわよ。それで姉弟力を合わせて、国を改革しましょう」

「うーん……。悪女なら、成功間違いなし……」

「あんたも何か負担しなさいよね!? とにかく悪女の件は保留。いいわねっ?」

「……分かりました。ひとまず、それで良しとしましょう。泰風」

 青年がちらっと旬果を一瞥し、それから瑛景を仰ぐ。

「はっ」

(泰風って言うんだ)

 思えば、ずっと己の境遇のことばかり考えて、今の今まで傍にいてくれた青年の名前を聞くことすら忘れていた。

「姉上を白鹿殿までお連れするように」

「かしこまりました」

「では姉上。しっかりと休んで、旅の疲れを癒やして下さい」

「ええ……。ありがとう」

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