第一章 はじまりの詔《みことのり》

第1話

 永隆えいりゅう五年四月。

 余州北山県壬生村そばの山中。

 キラキラとした木漏れ日を反射してきらめく泉のそばに、鹿が集まっている。

 髪を後ろ手で束ねた少女が、草むらからそっと身を乗り出す。そして弓に矢をつがえ、一頭の牡鹿に狙いを定めた。

 ギリギリ……と弓を絞りきったところで呼吸を止め、放つ。

 矢が牡鹿を貫く。

 牡鹿が倒れると同時に、周りの鹿が驚いて、ピョンピョン跳ねながら山奥へ逃げていく。

「よし」

 少女――王旬果おうしゅんかは小さく呟いた。


 山を下り、街に到る。

 街は、旬果が住んでいる村よりも二回りは大きく、常に人でごった返し、夜でも煌々とついた灯りは消えることはない。

 初春とはいえ、山から吹き下ろす風に首を竦めながら目抜き通りを歩けば、商人たちの客寄せの声が朗々と響き、商品の入った籠を揺する行商人と擦れ違う。

 旬果は仕留めた牡鹿を馬の背に乗せ、轡を取ってとある店先に顔を出す。

「おじさーん!」

 店の奥から少し太めの中年男――この店の主人が、姿を見せる。旬果を見るなり、「おぉ!」と声を上げた。

「旬果か。今日は何だ?」

「牡鹿だよ」

「おぉ。いいね。んじゃ、いつもの値段で……」

「いつもより上乗せしてよ」

「雄は肉が固くって不評なんだよ。いつもと同じ値段で買うのだって特別なんだ。これだって、旬果がお得意さんだから……」

「でもどうせ肉は売るんだろうし、それに角は薬になる。牝鹿よりも高く買ってもらうのは当たり前だよ。何なら、薬屋に直接持ってっても良いんだけど?」

 主人が弱り切った顔をしていると、ハハハハと快活に笑いながら、女将さんが姿を見せる。

「あんた、変に欲張ってないで、さっさと代金を払ってやんな。旬果のお陰で、うちも儲からせてもらってるだろ?」

 旬果は笑う。

「さすがは女将さん。分かっていらっしゃる!」

 主人は分かったよと言って、店の奥に引っ込んだ。

 すると女将さんが、包みを渡してくれる。

「旬果。これ、オヤジさんたちに持ってって。色は悪いけど、まだ全然食べられるから」

「いつもありがとうございます」

「水くさいこと言わなさんな。あんたと私たちの仲じゃないか」

 旬果は代金を受け取ると、店を後にした。

 そうして馬を引いて街を出ようとしたその時、行く手を塞ぐように野次馬が出来ていた。

 旬果が様子を窺っていると、どうやら往来を塞ぐように大きな荷車が横倒しになっている。しかし野次馬が出来ているのは、それだけが原因ではない。

 商人であろう男が鞭を振り上げ、荷車を引いていた男を叩いていたのだ。

 打たれる男は大きな身体を小さくさせ、頭を庇いながら震えている。

 商人が口汚く声を上げる。

「この木偶め! 何をやらせてもまともに出来ねえ!」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 野次馬たちも囃し立てた。

「うすのろ、何やってんだよ」

「おい、邪魔だぞ。牛野郎!」

 牛野郎――その言葉に、旬果が蹲っている者をよくよく見れば、牛の姿をしていた。といっても手足は人間のそれ。

 魁夷かいい――そう呼ばれる種族だ。普段は人の姿をしているものの、極度に感情が高ぶったり、自らそうなろうとした時に獣人の姿へと顕現する。

 魁夷は、この国では奴隷として使役されていた。

 そして鞭で背を打たれている牛の魁夷は、昂奮に目を真っ赤に燃やしている。その目は魁夷の特徴で、感情の高ぶりを覚えると血よりも濃い深紅に染まるのだ。

 旬果は見かねて、

「ちょっと!」

 野次馬を押しのけながら、商人の前に出た。

 商人の男が鞭を振り下ろす手を止め、じろりと自分の背の半分ほどの旬果を睨んだ。

「何だ、小娘」

 旬果は腕組みをした。

「馬鹿みたいに鞭を振れる体力があるんだったら、あんたが車を引けばいいじゃない」

 野次馬の一部から笑い声が上がれば、商人は顔を真っ赤にする。

「何だと!? お前もぶたれたいのかっ!?」

 幾ら凄まれようとも、旬果は怖くない。むしろ睨み返した。

「やってみれば? ただ、私はその人みたいに無抵抗じゃないからね。あんたみたいな下衆、弱い奴にしか強く出られないでしょ」

「言わせておけば!」

 振り下ろされた鞭を避けた旬果は、素早い身のこなしで男の背を取ると腕を捻り上げ、跪かせた。

「いでででぇええ!」

 男は涙目になり、鞭を取り落とす。

「ね。言ったでしょ?」

 野次馬たちは、歓声を上げた。

「良いぞ! 嬢ちゃん!」

「おっさん、小娘にやられてしょうもねーなぁーっ!」

 旬果は男を突き飛ばすと、魁夷に走り寄る。

「大丈夫?」

 牛の魁夷は小さく頭を下げたかと思うと、のっそりと立ち上がる。そして大人なら五人はいなければ起こせないような車を、たった一人で軽々と起こし、引っ張り始めた。

 商人は腕を押さえながら、涙目で旬果を睨む。

「このアマ……」

「何ですって」

 一歩右足を踏み出せば、男は「ひっ!」と小さな悲鳴を上げて逃げ出した。

 騒ぎが終わり、野次馬たちは三々五々解散する。

(魁夷だからって、どうしてあんな男に従ってるわけ?)

 旬果は、そう思わずにはいられなかった。

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