耳神様とオオカミ少年

冴草優希

序 三月十七日

 妹を、愛している。

 隠すようなことではない、胸を張って宣言しよう。

 たった一人の妹、長峰美咲を俺は溺愛している。

 周囲の人々は俺をシスコンだの、いつか手を出しそうだのとからかって笑うが、俺に言わせれば余計なお世話だ。シスコンで何が悪い。兄貴なんて生き物は大なり小なりシスコンであるもので、シスコンではない……妹が嫌いな兄など兄とは呼べないから、この世にシスコンではない兄なんて存在しないのだ。

 その中で言えば、三百六十五日一日中ずっと妹のことだけを考えている域まで辿りつけていない俺は、兄としてはまだまだ未熟だ。兄貴たるもの妹が生まれた瞬間の感動はしっかりと記憶しているべきなのに、ぼんやりとしてはっきり思い出せないのも情けない。

 そんな風だから、その日誰もいない家で美咲を想いながら掃除をしていた俺は、おそらく第三者が見るとかなり挙動不審で、そわそわしていたと思う。

 もしも先輩がいたら、玄関のドアが開いて美咲が姿を見せた時の俺を「飼い主が帰ってきた時のしっぽを振る犬」とでも形容するのだろう。

 鍵が開けられる音。ドア越しに、美咲の匂い。


「ただいまー」

「ただいま帰りました」


 ローファーを脱いだ、中学の制服の上にコートを着た美咲の肩を抱く。


「おかえり美咲! 中学で何かトラブルは無かったか!? 教師にセクハラとかされてないか? 後輩から面倒事になりそうな手紙とか渡されてないか!」

「……兄さん」

「うん?」

「少し、鬱陶しいです」


 肩に置いた俺の手を持ち上げて下ろすと、美咲はコートを脱ぎながらリビングへと進む。後ろで聞こえたため息に知らないふりをしながら、俺は美咲を追いかけた。


「そうは言うがな……俺が高校に入ってから一年、中学でお前に何かあっても、すぐに駆けつけられないのがずっと心配で……」

「兄さんが同じ校舎にいないおかげで、三年生の間は乱入者のいない穏やかな学生生活を過ごすことができました。兄さんのことでからかわれることも、少なくなりましたし」


 今度は前方からため息の音。コトリ、とテーブルに黒い筒が置かれた。


「だいたい、兄さんはいちいち大げさすぎるんですよ。卒業証書もらって歌って帰るだけの式に、そうそう何か起こるわけないじゃないですか」

「だけどなあ……何かが起こってからじゃあ遅いだろ」


 美咲の言う理屈は分かる。が、こればかりは理屈じゃないのでどうしようもないのだ。


「その辺にしときなさいよ。あんたもそうだろうけど、黙って座って偉い人の話を聞くのって結構疲れるんだから」


 めかしこんだ姿の母さんが、遅れてリビングに入ってくる。そのままキッチンに向かった母さんは、冷蔵庫の中身を確認しているらしかった。


「母さん。美咲の写真撮ってくれた?」

「撮ったけど……いる? あんたの場合、実物の方がかわいいでしょ?」


 それはそれ、これはこれである。


「それ携帯に送っといて。待ち受けにするから」

「どうせちょっとすれば、入学式の写真に変えるくせに……ま、減るもんじゃないからいいけど」

「……恥ずかしいので、私はやめてほしいんですが」


 待ち受けなんて俺以外の誰にも見せるつもりはないので安心してほしいのだが、美咲にとっての問題はそういうことではないらしい。イベントがある度に美咲の写真を撮って待ち受けにするのは、俺の数少ない趣味なので少し大目に見てほしいのだが。


「……鷹岡中央に進学するの、失敗だったかもしれません。推薦蹴って鷹高に入れば、昼の間は兄さんの襲撃に悩むこともなかったはずですし……」

「それは、ダメだ」

「なぜですか?」

「鷹高は、お堅い雰囲気で勉強勉強ってうるさいらしいし……女子の制服が、その、なんだ。あまりかわいくないし、美咲は中央の制服の方が似合うと思う」

「……最低ですね。発想が変態です」


 分かっていたが、美咲の視線が冷たい。実際、その手のマニアの間でも中央の制服はこの辺りでは珍しくかわいいと評判らしく、美咲自身も制服は気に入っていた様子だったのだが……正直に言い過ぎたか。


「変態なわけじゃないんだ、美咲。俺はお前が好きなだけなんだよ」

「そうですか。高校では、緊急の用事でもないのに私の教室に乗り込んできたら、家でも口利いてあげませんから覚悟しておいてください」


 それは困る。非常に困る。


「文也の場合、美咲の顔見てないのは緊急の用事なんじゃない?」

「……その可能性はありますね」


 麦茶を持ってきた母さんが会話に混ざってくる。あまり茶化さないでくれ、こっちは今大変なんだ。精神の平穏の危機なんだ。


「……今後も待ち受けを美咲の写真にしてよくて、何かあったらちゃんと俺に相談してくれるなら、なるべく美咲の教室には近寄らないようにする」

「本当ですか?」

「約束する。俺は家族には嘘はつかない」


 麦茶を一口飲むと、美咲は諦めたように大きなため息をもらした。


「仕方ありませんね。兄さんを信用します」

「ふふ。できのいい妹でよかったね、文也」


 俺と美咲の家族会議が終わったのを確認して、母さんはキッチンに戻っていった。


「美咲も、本当に嫌ならちゃんと嫌って言いなさいよ? 文也はこんなんだし、ちゃんと言わなきゃ分かんないんだから」

「こんなんとは失礼な」

「あんた、美咲のことになると周り見えなくなるでしょ?」

「ぐぅ……」


 事実なので何も言い返せない。


「大丈夫です。私が拒絶したら、兄さんは精神を病んで死んでしまいそうですから。このぐらいは、我慢してあげないと」


 本当に、よくできた妹だと思う。俺みたいなのには、もったいないぐらいの。


「美咲……お前が無理をして俺につき合ってるなら、俺はその……」

「心配しないでください。たまに鬱陶しく感じますけど、兄さんのこと、嫌いってわけじゃありませんから」


 そう言って、美咲は笑った。


「好きですよ、兄さん」


 いかん、嬉しすぎてちょっと泣きそうだ。お兄ちゃんでよかった。


「……ありがとう。俺も愛してるよ、美咲」


 俺は妹を溺愛している。

 妹も、俺を愛してくれている。

 そんな幸せな日々が、ずっと続くのだと、俺は信じていた。

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