#09 アダムは、いない

「……質問遮ってごめん」


 アダムス家の女性陣が食堂から立ち去っていく背中を見送って、私は隣に立っているアーネストに一言謝った。


「……いや」


 彼は特に気にした風もなく口のなかで呟いた。私の方に向けることもなく、そのぼんやりとした焦点の定まらない瞳を静かに閉じて俯く。

 ストレートのくすんだ金色の髪がさらさらと揺れた。窓から射し込む柔らかな春の光がその髪に反射してキラキラ輝いているのを私はぼんやりと眺めていた。


「アーサーが殺害される前に呟いていた『イヴの秘密』というのは、アーサーの母親の秘密ということなんだろうか?」


 周囲から厳しく詰問される老婦人が可哀想になって、無理矢理話を中断したことに何となく気が退けて、私はアーネストがあの時したかった質問を蒸し返した。今ここで彼に尋ねたところで遅いのは分かっている。私の行動で気分を害したかもしれない相手を前に、沈黙が続くのが怖かったのかもしれない。


「……うん……どうだろうね」


 アーネストが何気なく、目の前に掛かっている絵画に眼をやった。

 エデンの園に佇み、裸体に巻き付いた蛇にそそのかされ、知恵の実をまさにかじらんとしているイヴは、これから犯す過ちを知らぬ、純粋無垢ないきいきとした幸せそうな微笑みを浮かべていた。


「……アダムがいないな」


 絵画を見ながらアーネストが呟いた。

 そう言われて私も気になり、この4メートル四方はあるであろう巨大な絵をもう一度、左から右に、上から下に眺め回した。


「……ああ、言われてみれば、確かに」


 旧約聖書『創世記』第三章にある、蛇に唆されたアダムとイヴが、神の禁を破って「知恵の実」を食べ、エデンの園を追放される挿話、「失楽園」をテーマに描く絵画を思い浮かべる時、アダムとイブがセットで描かれるのが通例である。

 蛇の甘言により、まずはイヴがその「禁断の果実」を食べた後、アダムにもそれを勧める。果実を食べた二人は目が開けて自分たちが裸であることに気付き、それを恥じて無花果の葉で腰を覆ったという話から、エデンの園の風景、知恵の樹、蛇、無花果の葉で腰を覆ったアダムとイヴを思い浮かべるのだが、どうやらこの絵は違う。イヴを唆す蛇と「禁断の果実」をまさに今食べようとするイヴにだけ焦点が当てられているようだ。この場にはアダムがいない。


「どうしたんです?こんなところで絵画鑑賞ですか?」


 甲板にひとり取り残されていたクレイグが食堂の側へと入り、開け放たれていた大きな窓を閉めて、私たちのほうに近づいてきた。


「この『失楽園』の絵には珍しくアダムがいないねと話してたんです」


「……ああ、確かに、言われてみるとアダムがいませんね」


 私の話を受けてクレイグも壁に掛かった大きな絵画を見上げた。

 健康的に日焼けした肌に、キリリとした一文字の眉、高い鼻、口角の上がった形のよい引き締まった唇、美しい喉仏のラインが、男らしい精悍さを醸し出している。男も惚れ惚れするような、この男っ振りのよいクレイグの事が、私はもっと知りたくなって話し掛けた。


「さっきはとんだ邪魔が入りましたね」


「……?」


 私の唐突な質問は、言葉足らずだったのだろう。絵画のほうに眼をやっていたクレイグが私のほうに向き直り、何のことを言ってるのだか分からないといった表情を一瞬した。


「いや、アダムス夫人のことです」


「……ああ。いや……そちらからも見えていたなんて恥ずかしい限りです」


クレイグは私の質問を理解し、答えながら、顔を少し赤らめ、照れ隠しなのか、微笑んだ。


「クレアさんとは、恥ずかしいことは何もしていなかったでしょ」


「まぁ、そうなんですが……」


はたから見ていてとても楽しそうでしたよ。幸せそうな恋人同士に見えました」


 「幸せそうな恋人同士」という表現にクレイグはさらに照れてしまったのか、耳まで顔を真っ赤にして俯き、頭をポリポリと掻いた。クレイグもクレアのことは憎からず思っているようだ。私は悪戯心を起こしたのも半分あり、クレイグのクレアに対する気持ちをより深く聞いてみることにした。


「クレイグさんはクレアさんが好きなんですか?」


「……え!?」


 私の踏み込んだ質問に不意を突かれ、クレイグはこれ以上ないぐらいに顔を真っ赤にてし、慌てて顔を私の方に向け、明らかに恥ずかしがりながら途切れ途切れにクレアについて話し始めた。


「……いやぁ……まぁ……好きというか。幼い頃からずっと一緒だったので、お嬢様は妹みたいなものです」


「プランセールに着いて、彼女がモラン氏と正式に婚約してしまったら寂しいでしょう?」


「そりゃあ……それは、寂しいですね……でもそれは……家族みたいなものだからです。結婚したら僕らはイェゴスに戻りますから離れ離れで暮らすことになります。これから離れて暮らすとなるとそれは寂しいですよ」


「彼女が別の男のものになってしまうのはいいんですか?」


「……それは」


 クレイグは口ごもって、しばらく黙ってから寂しそうに力なく微笑みながら答えた。


「僕とお嬢様では身分が違いすぎるから……僕ではお嬢様を幸せにできないことは分かりきっていますし。……だから、いいんです。仕方のないことなんです」


 愛するクレアを諦めようと無理に作ったぎこちない微笑みが、叶わぬ身分違いの恋の切なさを増す。私は何となく、この不器用なクレイグという男の恋路の応援をしたいという気持ちになった。恋のキューピッド役を買って出られるものなら買いたいものだ。


「クレアさんもあなたが好きで、お互いに愛し合っているのなら……例えば、二人で駆け落ちしてしまってもいいんじゃないですか?」


「……か、駆け落ちですか?」


「考えたこともありませんでしたか?」


「……え、ええ。夢にも思いませんでした」


 クレイグは私の過激な提案に驚いたようだった。


「多分きっとこのままじゃ、クレアさんも実際のところは幸せではないような気がします。ビニスティさん言ってましたが、愛は金では買えないですし。私は、クレイグさんとクレアさんには幸せになってほしいと思います」


 クレイグはちょっと黙って私の顔を正面から見つめ、ハハハとから笑いして続けた。


「……あ、ありがとうございます。……駆け落ち……お嬢様さえよければ、それもいいかもしれませんね。

 でも叔母に迷惑がかかると思うからよく考えないと。両親に代わって女手ひとつで育ててくれた叔母に恩を仇で返すようなことになってはいけませんから」


「……ご両親がいないんですね」


 いよいよ私はクレイグの身の上に同情した。男爵家ご令嬢との身分違いの叶わぬ恋に身を焦がす、寄る辺のない私生児の立場に、私は自分を置き換えて感情移入したのだ。

 私だって上流階級の人物に恋い焦がれたことがないわけではない。私の片想いだったけれど、あんなに切なかったのだから、お互いに愛し合っているのなら、なおのこと別れが辛いだろうと思う。


「……その叔母さんへのやさしい気持ち、ほんの少しですが、分かるような気がします。

 私も父ひとり子ひとりで育ったから、育ててくれた親父には正直頭が上がらない。迷惑だけは掛けないようにしないととは思ってたものです。まぁ、うちは親父の自業自得で母さんに逃げられただけなんだけどね」


 私はここで苦笑してクレイグの顔を正面からまともに見た。聞かれてもいないのに熱心に語る私の身の上話にクレイグは、深く頷いてくれていた。


「クレイグさんはなぜ叔母さんに育てられたんですか?ご両親はサラさんの兄弟なんですか?」


「……僕は、実はあまり両親のことを知らないんです。叔母も話したがりません。叔母は、叔母の妹の子どもである僕を引き取ってくれたと言うのですが……

 叔母と毎年墓参りに行くのですが、墓標には叔母の父母――つまり僕の祖父母にあたる人の名前しか刻まれていませんし、それ以外の墓に参ることもありません。だから僕の母は生きていると思うのですが、いったいどこで何をしているのか……父についてもそうです。

 叔母に聞いても、僕の両親について詳細なことを聞くと、かたくなに黙ってしまうので、全く分からないんですよ」


「それは気になりますね。

 サラさんご自身はご結婚されていないのですか?」


「していないと思います。

 叔母は自分の身よりも主人への忠誠を優先してきた人生だったのかもしれません。お嫁入りの際に着いてきたイヴさんのお墓には今でも、一年に一度は僕を連れて手を合わせに行きます。

 イヴさまが亡くなった後もアダムス家で働き続けていますし、一度決めた忠義は通す女性なんだと思います」


 私はサラの芯の強そうな顔を思い出した。四角い輪郭に、細く長い眉、これまた細く吊り上がった眼、シュッと高く細長い鼻、ムッツリと真一文字に唇を結んだ、少しの柔和さも感じられない厳格な顔だ。

 いかにも我道を行きそうな彼女なら、男爵始め、感情の起伏が激しいアダムス家の人々と衝突しそうなものなのに、逆にうまくいくのは、逆にその芯の強さ故なのだろうかと不思議に思えた。


「……しかし、アダムス男爵や夫人にお仕えするのは大変でしょうね。あの気性の荒さだと毎日怒鳴り散らされるような気がするのですが」


「いえいえ。地雷さえ踏まないようにわきまえておけば問題ないですよ」


「……今はここにいても大丈夫なんですか?男爵はどこに?」


 アダムス男爵の名を口に出して、私はふと、先程ビニスティ氏に依頼された男爵警護の依頼を思い出した。私たちも地雷を踏まないように弁えて行動せねば。


「今は大丈夫ですよ」


 クレイグがニコリとして答えた。


「男爵は隣の喫煙室でモランさまとお話しされています。お入りになりますか?」


 ビニスティ氏の紹介なしにアダムス男爵とまた接触をしても問題ないか不安になり、私はアーネストのほうを見た。彼は内ポケットからパイプを取り出そうとしていた。


「……そろそろ煙草が吸いたいんだが」


 彼はどこまでもマイペースで、私の不安などお構いなしだ。この愛人を寝取った間男をビニスティ氏を介さず、アダムス男爵に近づけて大丈夫だろうか?何かあったときに私が止めなくてはいけない。気を付けなくては。


「どうぞ」


 クレイグが喫煙室の扉を開けてくれた。

 喉の奥をイガイガと刺激するようなくすぶった煙草の臭いが鼻をつく。

 私たちはクレイグに案内してもらって、白い煙草の煙で靄がかった喫煙室に入った。

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