#08 禁断の果実を齧る女たち

 今夜からのアダムス男爵警護計画会議を兼ねたビニスティ氏との昼食を終えて自室へ戻る途中、アーネストが煙草が吸いたいと言うので喫煙室に寄るついでに、せっかく自由に動き回れる機会だから、私たちは食堂や図書館などを回れるところを回って帰ることにした。


 奥の喫煙室に向かうべく、食堂を通り抜けていると甲板に向かって開かれている大きな窓辺のレース越しに人影が映る。柔らかに降り注ぐ陽光のなか、二人の男女が談笑しているようだ。男性の低い声に混じって女性の快活な笑い声が気だるい午後に長閑のどかに響く。

 明るい気持ちになった私は、楽しい雰囲気に触れたくて窓辺の方に眼をやった。潮風でカーテンが揺れ、ちらりとその二人の顔が見える。

 そこにはクレアとクレイグがいた。


 何を話しているのかはよく聞こえない。

 クレアは微笑みを浮かべクレイグの話に熱心に耳を傾けては頷き、たまに声をあげて笑っていた。彼女の表情は柔らかく幸せそのものだ。


 ――クレアが好きな男というのはクレイグのことなんだろうか?


 私は彼女の幸福を絵に描いたような穏やかな微笑みから、そう直感した。身分の差さえなければ、この二人ならお似合いだと思った。


 ――クレアがこの笑顔も見せるのもこの船旅が終わるまでなのだろうか?


 プランセールに着いたらクレイグとは別れ、自らは望みもしない結婚をするというクレアに、私は少し同情した。線香花火の如く、私は淡く儚い恋の一ページが最後のきらめきを一生懸命自ら放っているのだろうかと思うと、今見ているこの窓辺の光景が、一層美しいもののように見える。


「……クレア!……クレア!?」


 食堂の入り口からクレアを呼ぶ声が聞こえるので振り向くと、そこにはアダムス夫人が立っていた。


「……また、クレイグと話しているの?それぐらい熱心にマテューにも愛想を振り撒いてほしいものだわ!」


「私がクレイグに愛想を振り撒いているだなんて……!」


「だって、貴女、マテューにはそんなに声を出して笑うことなどないじゃないの。それどころか貴女からマテューに話し掛けているところを見たことなくってよ?」


「……そんなこと!」


 泣きそうな顔をしながら抗議するクレアの近くまでアダムス夫人が歩を進めてきた。


「あら?あなた、クレイグのことが好きなんでしょう?」


 かわいそうに図星を突かれたからか、クレイグの前で好きとも好きではないともいえず、クレアは耳まで真っ赤にしながら、眼を白黒させて俯いた。

 アダムス夫人はそんな娘の様子など気に留めていないようだ。自分の喋りたいことを奔放に話す。


「……まったくイヴだなんて名前の船に乗るんじゃなかったわ。不吉だと思っていたのよ」


「お母さま……」


 自分のほうに近づきながら、顔を歪ませ不平を漏らす母親に呆れたのか、クレアが溜め息を漏らす。


「だって、あなた、これじゃあ、いつプランセールに到着するか分からないじゃない。マテューとの婚約が……結婚も!延び延びになるばかりじゃないの!」


 娘の側までたどり着いた母親は、娘の美しい栗色の髪を大事な人形のように撫でた。クレアは不機嫌な顔をしながらも、母親を拒むでもなく、撫でられるがままになっていた。


「あなたは婚約が延期になっていいと思っているかもしれないけれど、マテューとの婚約は……結婚はあなたのためよ。子どもの頃のように、いつまでもクレイグの後にくっついてばかりいるようではいけないわ。あなたにはあなたにふさわしい家柄と財産のある人と一緒になるべきよ」


 アダムス夫人に愛想笑いを浮かべていたクレイグの顔から表情が消える。


「アーサーが亡くなった今、お父さまの遺産はあなたが受け継ぐかたちにはなると思うけれど、それでも変な気を起こしてはダメ。早くマテューと結婚して、私を安心させてちょうだいね」


 断固として自分の意見ばかりを振りかざす母親に、クレアは閉口したようだ。眉間に皺を寄せて眉を歪ませ、ぷいとクレアが母親からそっぽを向いた。


 勢い、私たちと眼が合った。

 クレアは母親と自分の話を聞かれたと思ったからだろう。耳まで真っ赤にしたまま、私たちのほうに向き直り、呼び掛けてきた。


「ごきげんよう!……あの……」


 私たちとは一度挨拶したきりだったので、名前を忘れてしまったのだろう。


「私はドウヨで、こっちがアーネストです」


 私はにこやかに自己紹介した。


「……あ。ごきげんよう、ドウヨさん、アーネストさん。お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」


 クレアはこちらに近づいてきてペコリと頭を下げた。


「いえいえ、とんでもないです。私たちも立ち聞きするつもりはなかったんですが……すみません」


 私も頭を下げた。


「失礼ですが、先ほどお話ししていた『イヴ』とは?」


 頭を下げる私の横からアーネストが、今している話題とは脈絡なく唐突な質問を投げ掛けた。

 アーネストの質問にクレアの顔色が変わる。困惑したのは明らかで、クレアの背後まで歩いてきた母親の方に向き直って、アダムス夫人の眼をじっと見つめている。アダムス夫人も困ったような表情を浮かべていたものの、しばらく待っていると、意を決したのか口元に作り笑いを浮かべて答えた。


「イヴは……」


 アダムス夫人は話しづらそうに言葉をちょっと切った。


「イヴはアルベルトの最初の奥さんの名前よ。アルベルトは私とは再婚なの」


「イヴさんとは離婚を?」


「いえ、死別だと聞いてます」


「たいへん失礼ですが、アーサーさんとクレアさんの母親は?」


 アダムス夫人はここまで話したのだから、仕方ないという風にため息をひとつついた。


「アーサーの母親はイヴです。クレアは私の娘です。……つまりアーサーとクレアは異母兄弟ですの」


 だからアダムス夫人は跡取りの一人息子が殺害されたというのに然程さほど取り乱す風でもなく、落ち着いていられたのかと、私は思った。アダムス男爵の財産分与で揉めることがなくなる分、せいせいしたところもあるぐらいかもしれない。


「そうだったんですね」


 答えるアーネストにアダムス夫人はひとつ頷いて、話を被せてきた。


「あなたは確か、アンジェリカの……その……でしたわね。どうぞ彼女と仲良くしてあげてくださいな。アルベルトの方は年甲斐もなく彼女に入れあげているようですから、いつか私がアダムス家から追い出されてしまわないか気が気ではないの」


 私は思わずアーネストの方を振り返った。その靄がかかったようなくすんだ碧い虚ろな瞳はアダムス夫人をじっと見つめたままだ。直接目の前で間男扱いされて失敬だと思っているのか、バカなことを言う女だと嘲るのか、気にも留めていないのか……その瞳の奥でアーネストは何を思っているのか、私には判別ができない。


美人局つつもたせではないのでしょう?貞淑を守れないだなんて、汚らわしいわ!あんな女狐に財産を奪われてたまるものですか!!!」


「お母さま!!!」


 ――これはひどい!


 さすがに私も「美人局」という聞き捨てならない言葉には驚いて目を丸くした。しかも彼女は財産と言い放ったが、まだアダムス男爵は死んでいないのだし、自分が相続するとは限らないだろう。

 アーネストは、毎晩毎晩女性をとっかえひっかえ……しかも『仕事』というからには金に変えているのかもしれない……ヤリチンの酷い男だ。正直何を考えているのか分からないし、美人局だってやりかねないと私も思った。ただそれを思っていたとしても、証拠もないのに本人の面前で名誉毀損するのは駄目だろう。


「いや、それは失……」


 侮辱された本人に代わって抗議しかけた私を隣からアーネストが制止した。


「……お母さま!それはいくらなんでも酷い言いがかりだわ!!!」


 私の代わりにクレアが大声で母親を叱責した。そして私たちの方に向き直り、再び頭を下げる。


「失礼なことを申し上げて申し訳ございません……!母は今、兄の突然の死で不安定なんです」


「いえいえ。大丈夫ですよ」


 アーネストは温厚と言えばいいのか、不感症と言えばいいのか、図太いと言えばいいのか分からないが、特に気に止めていない様子でクレアをなだめた。


「美人局をするならば、アンジェリカに遺産を残すという遺言を書いていただいた上でなら、アダムス男爵を殺害するかもしれませんが、アーサーの殺害はしないでしょう。アンジェリカはとても狡猾な女性なので、遺産目的ならば、無駄な殺人に労力は割かないと思います。私もメリットのないことはしません」


 ――美人局、否定のしかた!!!


 私は心のなかでツッコんだ。

 美人局すること前提に全面的に乗っかって否定することはないだろう。それに、アーサー殺害事件を「無駄な殺人」と表現してしまっているあたり、アーネストも酷い。


 さすがのクレアも、アーネストの回りくどく、ある種横柄な釈明に戸惑ったのか、なんとも言いがたい微妙な顔をして黙っている。

 アダムス夫人もアーネストに対する侮辱を、自分の夫に対する侮辱で返されたことに少し腹を立て、しばらく何も話せなかったが、ようやく「……主人には遺言を書かせないようにしないと」と言い放ち、ぷいと横を向いてしまった。


 三度目に謝るクレアに、大したことではないから頭を上げてもらうよう頼んで、私たちが喫煙室へと通り抜けようとした時、メイド服に身を包んだ腰の曲がった老婦人が現れた。アダムス家の女中サラである。


「奧さま、お嬢さま、お茶のお時間でございます。お部屋へ戻られますか?」


「……え、ええ。そうね。お部屋に戻るわ。サラ、ありがとう。」


 不機嫌な母親に代わってクレアが返事をする。

 と、そこでクレアはまだ私たちに申し訳ないと思っていたのかもしれない。急に思い出したように先に話していたイヴの話を蒸し返した。


「……サラ!サラなら、イヴさんのことをよくご存じよね?」


「……イ、イヴさまですか?……ええ、まあ。……イヴさまのことをこの方々にお話になられたのですか?」


 唐突にイヴの話を振られて驚いたのだろう。ゆっくりとした丁寧な口調ではあるが、サラが鸚鵡返しに聞き返した。


「ええ。イヴさんのことを少し教えて差し上げてほしいの。私たちイヴさんのことは、何も知らなくて……」


 イヴのことにはあまり触れたくないように見える。サラが一瞬、躊躇ためらうかのように俯いていたが、クレアの懇願するような顔を見て承諾してくれた。


「……承知しました。私はイヴさまがお子さまの頃からお仕えし、アダムス家へのお嫁入りにもついて参りました。お答えできることでしたらなんなりとお聞きください」


「ありがとうございます」


 アーネストが軽くこうべを垂れる。


「アーサーさんのお母さまはイヴさんだと伺いました。イヴさんはおいくつでアーサーさんをご出産されたのですか?」


「確かご結婚の三年後のことでしたので23歳だったと思います」


「ご結婚から三年間はアダムス氏とお二人での暮らしだったのでしょうか」


「はい。そうです」


「その間アダムス氏はイヴさんに一途だったのでしょうか?」


 この他人の夫婦関係に立ち入った失礼な質問にサラは一瞬沈黙した。


「……一途だったというのは?」


 サラが聞き返す。


「現在アダムス氏はたいへんな多情家に見えるので浮気でもしていたのではないかと。結婚当初三年間子どもができなかった理由でもあるのかと思ったのです」


「旦那さまが浮気をされていたのかは存じ上げませんが、子どもは授かり物ですから……。あなたはまだお若いからお分かりにならないかもしれませんが」


「なるほど。失礼しました。ちなみに……」


 アーネストは謝罪の言葉を述べながらも、さらに一歩答えにくい質問を投げ掛けた。


「イヴさんが亡くなった原因はなんでしょう?」


「ご病気です」


「それはどういった?」


 サラは表情を曇らせ、このプライバシーに深く突っ込んだ質問にも答えにくそうにしばらく口をもごもごさせていた。


「……神経……神経衰弱です」


 サラが喉から絞り出すような乾いた声でようやく答える。


「神経衰弱ですか。……それはなにか神経を磨り減らすような出来事があったんですか?」


 回答しにくそうなサラには気が付かないように顔色ひとつ変えず、アーネストは淡々と次から次へと無遠慮に質問を投げ掛けた。

 ほぼ初対面の他人に対してすら、気遣いというものができないのだろうか?知人の死の理由だの、病名だの、あまり触れられて気持ちよくはないであろう人の心の奥にまでずかずかと無遠慮に土足で足を踏み入れる態度が、私は気に触った。しかも相手は年老いた老婦人である。場の雰囲気がふこぶるる重苦しい。


「……正直なところ、ご結婚されてからのイヴさまは決して幸せではなかったように私には見受けられました」


これ以上は答えるに耐えないと思ったのかもしれない。サラが言葉を慎重に選び、曖昧ながら自分の意見を述べてはぐらかした。


「それはまたどういった理由で、そう思われるのです?」


わざとなのかもしれない。曖昧なサラの回答を突き詰めるように、アーネストが詳細に踏み込んで尋ねる。


「……それは……私の口からは申し上げられません」


「それはなぜ?」


「それは……」


 ――もうこの辺でいいんじゃないか?


 アーネストの非情とも言える質問攻めに口ごもる老婆が可哀想になって私が止めに入ろうとしたら、アダムス夫人が話に割って入ってきた。


「それは私のせいだと言いたいの?サラ」


「いえ!滅相もございません!!!」


 静かな口調ではあるが、刺すように問い詰める夫人の冷たい蛇のような目つきが恐ろしい。所々震える声に、心の奥底に沸々と煮えたぎる本気の怒りが垣間見える。


「確かに私はイヴからあの人を奪ったけれど、それはイヴが悪いんだとアルベルトが言っていたわ……それはイヴが過ちを犯したからだと」


 サラが今にも泣き出しそうに顔を歪ませて俯く。クレアも神妙な面持ちで、気の毒そうにサラを見詰めている。サラに話を振った自分が悪かったのだと自責の念に駆られているのかもしれない。


「……そのイヴさんの過ちについて心当たりは?」

「いや、もういいだろ!!!」


 空気が読めないのか?いや、むしろ、空気が悪くなっていることを知ってて問い詰めているのか?相も変わらず淡々とした口調で質問を投げ掛けるアーネストの冷酷さに無性に腹が立って、私は強めの口調で制止した。

 サラは俯いたまま、黙って首を横に振っていた。


「……よろしければ、もう私たち、おいとま致しましょう。よろしいですよね?行きますよ、お母さま、サラ」


 サラに無理をさせたのが余程後ろめたいのだろう。クレアは早口にそう言うと母親の手を引っ張り、老いた下女の方へと歩き出した。

 私たちの前を通りすぎる時、クレアは少し会釈した。夫人はアーネストに唾でも吐きかけそうな嫌な顔をしたが、娘に手を引かれて何もできず、後ろにサラを伴い、この場を後にした。

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