第2話 兄の友人


 ブルーノがフェリクスを知ったのは、アルフレッドの病状が悪化する頃より以前のことだ。相変わらず不調な体を引きずって病室を訪れたブルーノは、ベッド脇に車椅子に座った見知らぬ子供を目にした。その子供は一冊の本を手に、アルフレッドと共に本を読んでいるようであった。

 明るく溌剌とした声の後を追うようにアルフレッドのたどたどしい声が響く。読み上げている内容から読み取るに、ファンタジックな冒険譚らしい。

 意外な友人がいるものだ。そんなんてことを思いながら声をかけると、ブルーノの存在に全く気づいた子供は目を丸くして声を上げた。


「わぁ、びっくりした。えっと、どちら様ですか?」


 溌剌とした声がブルーノに投げかけられる。慌ててブルーノは名乗ろうと口を開いたが、声を発する前に柘榴色のぼんやりとした瞳が瞬き、アルフレッドがほろりと口元を綻ばせた。


「ブルーノ……ひさし、ぶり、です」

「あぁ、ほうじゃな。すまんのぉ中々見舞いに来れのぉて」

「大丈夫、です。こうして来てくれるの嬉しいですから」

「ブルーノ? あっ、じゃあ、この人がアルフレッドさんの弟さん?」


 アルフレッドが微笑んだ隣で、驚いたフェリクスは慌てて車椅子を滑らかに動かし、ブルーノの元へと移動して、髪を揺らし小さな手を差し出した。


「初めまして、アルフレッドさんのお友達のフェリクスといいます」

「あぁ初めまして。わしゃ、アルの弟のブルーノじゃ。よろしゅう」


 こちらを見上げる東洋人風の彼はまだ十代前半の学生のように見える。アルフレッドがそんな若い相手と友人になっていることはかなりの驚きであった。

 曰く、出会いのきっかけは病室に戻れず妙なところを彷徨っていたところを看護婦と共に病院内を移動していたフェリクスが、心配して声をかけたことから始まったそうだ。

 見知らぬ子供に大層驚いたアルフレッドだが、それはまさに困り果てていたところに差し伸べられた救いのようなもの。相手が子供に見えるものだろうと構うものかというように縋り、助けを求めた。

 それからアルフレッドを気にかけるようになったフェリクスは、定期的に病室を訪れ、話し相手になっていた。病状が悪化する毎にどんどん忘れられていることも増えたが、その場合ははじめましてから新たに交流を続けていた。

 ブルーノはそれがとても有難かった。錯乱したり放浪したりすることもある彼に、冷たい目を向けることなく友として逢いに来てくれる彼に驚きを抱きつつも心より感謝した。

 ただ何より驚いたことは、フェリクスは実は十代前半の学生ではなく、21歳の成人であったことだが。



 そのフェリクスが今日も弟のパーシヴァルと共に病室を訪れた。

 扉を開けて車椅子を押しているパーシヴァルは、固く結んだ口の端を緩めてブルーノに一言挨拶をし、車椅子をベッドの近くへ停めた。


 礼を述べたフェリクスは男性にしては長めの髪を揺らし、再びの挨拶と共にブルーノへ頭を下げる。

 極東の島国である大和出身者にとっては、無意識的にしてしまうというその仕草は未だ慣れないが、苦言を呈することもなく軽く挨拶を返しておいた。

 にこりと微笑んだフェリクスは、赤みを帯びた茶の丸い瞳を緩ませてアルフレッドに声をかける。


「こんにちはアルフレッドさん」

「…………あー…………?」

「フェリクスです。僕のこと、覚えてくれていますか?」

「……んー……フェ、リ……」

「そうです! ありがとうございます!」


 落ち着いた声に、アルフレッドは暗く濁った瞳を動かして、フェリクスを見つめ微かに名を呼んだ。表情が明るくなることもないが、それでもフェリクスは花が咲いたように楽しげに話しかけて、車椅子に掛けていた手提げ袋から一冊の本を取り出した。

 大剣を手にする少年のシルエットが描かれたその本は、どうやら以前アルフレッドと共に読んでいたものらしかった。


「これ、続きこの前出たんですよ。アルフレッドさん、この子好きでしたよね」

「…………うん」

「それ、あなたにお渡しします。僕自分の持ってますから」

「……あ、りが……」

「どういたしまして」


 パラパラとページを捲りとあるページに描かれた金色の長い髪の少女を見せると、少しだけ表情が色付く。それは目の錯覚ではない。彼は、実際にフェリクスが示す絵を目で追っていた。更にはとても微かにだが相槌を打ち礼を述べ、口元を緩ませていたのだ。

 そんなやり取りを傍らで見ていたブルーノは、無視できない程の胸の痛みを認識するが、なんとか堪えて徐に呟く。


「……なんじゃ、アル、随分元気になっとるのう」

「そうでありますね。フェリクス、アルフレッドさんもその本が好きなのか?」

 

 痛みを無視して零したブルーノの微かな独り言をパーシヴァルが拾い上げると、問いを投げかけられたフェリクスが頷く。


「うん。アルフレッドさん、この作者の本、とても好きなんですよ」

「へぇ、ほうなんか」

「あっ、はい。この話だと金髪の女の子とか好きみたいで」

「……ひよっとして、前アルと声出して読みよぉった読んでいた話も?」

「あ、はい、それです」


 フェリクスの話に耳を傾けながら、以前のアルフレッドは、自分が見舞い訪れると大抵本を読んでいたことを思い出す。内容は冒険譚のようなものや、奇妙なホラーのようなものなど様々であったが、どれも同じ著者のものであったらしい。

 特に意識していなかったため覚えていなかった。それはそれで仕方ないと割り切れるが、問題はそこではなかった。

 問題は、アルフレッドが例え微かでもハッキリとした口調で会話をした様やフェリクスの名を呼んだこと、彼の笑顔などを久し振りに目撃し、そしてそれに好意的な感情を抱けなかったことだ。

 一時的なものであれ、アルフレッドの回復は嬉しいものだ。共通の趣味を楽しめる友人と話に花を咲かせる。それが悪いものであるはずがない。

 だが、同時に形容しがたい黒い靄のようなものが心に覆い被さっていく。

 アルフレッドがブルーノの名を口にしたのはいつが最後だったか。それほどに自分は呼んでもらっていないのに、あっさりとフェリクスは呼んでもらっていた。それが羨ましくて、同時に妬ましくもある。

――フェリクスは同じ病院におる友人じゃ。わしより会う回数は多いじゃろう。ほいなら、アルが覚えとるんもしゃあない……。

 それは理解しているのにショックを受けてしまうことも、アルフレッドの喜びを素直に受け入れれないことも、自分自身嫌で仕方なかった。

 親族の中で一番アルフレッドの面倒を見ているだろうと自負していても、友人であるフェリクスと一緒にしていいものではないのに。

 なんと心の狭い――心のうちで自分を責めてしまい負の階段を下りかけたが、突如、ある声がブルーノを無理矢理引き止める。


「……ブルーノさん。顔色があまり良くありませんが大丈夫でありますか?」


 声の主であるパーシヴァルが不安げに眼を向けて見上げていた。そこまでわかりやすく顔に表れていたことは動揺したが、なんでもないと装う。下手に心配をかけたくなかったし、この感情をよりによって部下たるパーシヴァルに吐き出したくはなかった。

 下手くそな笑みを作るブルーノを見ても納得していなかった様子だが、追求する気持ちにはならなかったのかそうでありますか、と呟いて会話を切り上げる。

 その後も暫くアルフレッドとフェリクスのやり取りは続き、また来ますとフェリクス達は退室して行った。


 ブルーノは他の患者の寝息やページを捲るような音の中でまた負の階段を降りる。

 何故自分は先程の光景を好意的に受け取ることが出来なかったのだろうか。そればかり考えて気が重くなる。

 フェリクスのことが嫌いなのか? と問われるとそれは違うと断定できる。異人種の血が混ざっていようと悪意をもって見た覚えもなく、アルフレッドと友人でいてくれるフェリクスには感謝こそすれ悪意はない。

 それなのに未だ靄が晴れぬということは、ブルーノ自身が狭隘きょうあいな心であるという証左になるだろう。

 少なくとも彼自身はそう考えて、深く溜息をついた。

 ベッドの上では、フェリクスが置いていった本をぼんやりと眺めるアルフレッドがいて、その表情はここ最近の彼の様子ではかなり活気づいているようにも見えた。



 病院を後にしてひとりバスに揺られ帰路に着いたあと、ブルーノはとある喫茶店を訪れていた。

 ブルーノが若い頃よりあるこの喫茶店は、値段が良心的なことや立地条件が悪くないこともあってか親しまれている。

 清掃が行き届き落ち着いた雰囲気を漂わす店舗の片隅で、熱めのホットコーヒーを飲み軽食を摂って少し休憩をする。その予定であったのだが、些細なことがきっかけで同席者が増えた。

 ブルーノの向かいにはパーシヴァルの姿があり、彼とはつい先程店を訪れていたために鉢合わせしたのだ。

 アルフレッドとフェリクス絡みで色々と考え込んでいただけに気まずくなり退出しようとしたが、慌ててパーシヴァルは「話したいことがある」と引き止めた。外で話しましょうと提案されたが折角喫茶店で出会ったのだからと食事をしようとこちらからも提案した。

 パーシヴァルは流石に申し訳ないと遠慮したが、お互い食事もまだの身だということで、席に着いた。

 自分から食事に声をかけたくせに抵抗感と気まずさがあるが、できるだけ気にしないようにしつつ、クマで縁取られた瞳でメニュー表を見つめた。

 お互いにコーヒーと軽食を決めて注文し、店員が去ったあと、パーシヴァルは机の上で手を組みながら目を伏せて口を開く。


「急に引き止めて、更にはこんな……申し訳ありません」

「いや、構わん。たちまちとりあえず話があるならはよぉ話してくれ」

「はい。……ではまず病室で気になったことがあるのですが……フェリクスが行った行為は、迷惑でありましたか?」

「え、なんでそう思った?」


 核心をつく質問にドキリと心臓を跳ねさせながらぎこちなく問えば、パーシヴァルは徐に口を開く。


「フェリクスが本を渡し、アルフレッドさんがそれを喜んでいたあの時、貴方はとても衝撃を受けているように見えましたので。正確には、どこか悲しげに見えました。顔色も全く芳しくありませんでしたから」

「……っ、すまんのぅ」

「謝らなくても構いません。ただ、本当に迷惑なら、止めさせようと思っただけであります」

そがぁなこたないそんなことはない! フェリクスくんはアルと仲良くしてくれとるんは、げに本当に有難い。迷惑なんて、全く思うとらん」


 慌てて弁明した言葉に安堵したように息を吐いたがパーシヴァルだった、ここで当然の疑問が彼の中に浮かんだようだ。


「なら、何故あれほどまでに狼狽していたのでありますか?」

「…………ちょっと、調子が悪くなってな」

「……本当、ですか」

「ほんまじゃ」


 本当のことなど言えるわけがなく誤魔化そうとしたが、こんな下手くそな誤魔化しが通じる筈もないだろう。パーシヴァルは疑わしげに眉を下げ何かを言いかけたが、店員が運んできたコーヒーに視線をそちらへ向ける。

 運ばれてきたのはコーヒー2つ。軽食はまだらしい。それぞれの前にカップを置いた店員が去ったのを尻目に、ブルーノは早まった鼓動を落ち着かせようと、カップを手にする。

 湯気と豊かな香りと立たせる深みのあるコーヒーを口に含む。濃いコーヒーを飲むと目が冴える気がして、喫茶店でも自宅でも特に濃いものを頼んでいる。時々、そんな濃いものでいいのかと気にかけられるが、それくらいの方が彼には丁度いい。

 一方的でパーシヴァルは砂糖を2つほどにミルクを入れていた。

 マドラーをくるくると回しながら彼は切り出した。


「実は、もう一つお聞きしたいことがあったのです。宜しいでしょうか」

「あぁ、なんじゃ」

「貴方は……あの病院でも若者の不審死が発生したことは、ご存知でしょうか?」


 パーシヴァルが口にしたこと、それは、最近世間を騒がせている妙な事件についてだった。

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