舞姫の子

大川黒目

舞姫の子

 この手記は、私の養父、太田豊太郎の過去を明らかにすべく記すものである。父がドイツで過ごした昔日を語ったことは無いが、時折覗く心臓に棘の刺さったような表情や、父の朋友相沢謙吉との会話の端々に漏れ出る感情が、父の若き日のなにかの存在を語っている。この度、私は海外留学という栄えある役目を仰せつかり、奇しくも父と同じベルリンへ向かうこととなった。

 この私の稚拙な捜査日記は(聞き込みの覚書という方が正確か)、不思議な縁に導かれ、父を教導したという教授から、図らずも若き父の足跡を聞いたところに始まる。私が行おうとしている不埒な行為は、ニル・アドミラリイの気象をほぼ完璧に保つわが父への敬愛を深めるものでありこそすれ、決して損なうものではないことを、心から願っている。


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大学の老教授の談

「太田君かい?勿論覚えているとも。あの時分は、東洋人の学生は珍しかったからねぇ。大抵、新興国の国使というのは、私生活では享楽に溺れる者が多いが、君の父上は違った。時間を見つけては勉学に励んでいたよ。もっとも、そのうちその時間すら取れなくなってしまったようだがね」



古参のプロシア官員の談

「君のお父上の事は記憶にないが、昔極東の国からの使者が訪れたことは覚えている。どなたも語学に堪能で、礼節を弁えていた印象がある」



日本国のプロシア常駐員の談

「これはどうも。このような遠い異国で出会えたのもなんかのご縁でしょう。お茶でも淹れさせます。…ああ、そうですか。それでは後の約束に差し支えるといけない。早速私の知っていることを話しましょう。        

私がプロシアに派遣されてきたのは四年前ですので、これは前任の方から聞きかじったことです。昔は、もとい現在もですが、外国に派遣された者の中には、その地で妾を持つ者も多かったそうです。ほとんどの人は手切れを済ませて帰国しますが、稀にその女性関係でこじれる者もいました。実を言えば、私の前任者がまさにその例だったのですが…。

その前任者が去る折に、太田豊太郎という名を聞いたのです。愚痴の中でね。私が知っていることはこれで全てです。余り心地の良い話では無かったでしょうが」



父の僑居の管理人の談

「オオタ?あぁ、そんな名前の東洋人が昔いたね。え?女?確か居なかったはずだよ…。いや、待ちな。そういえば若い異人の娘が出入りしていたような……細かい事は忘れちまったよ。出入りしていた商人なら覚えているんだけどね」



僑居近くの質屋の主人の談

「ようこそいらっしゃいました。本日はお預かりでしょうかそれとも ……え?お取引では無い? あぁ、そうでございますか。それではどのようなご用件でしょう。

……オオタ、でございますか?勿論覚えておりますとも。モンビシュウ街三番地の太田様ですね。商人というのは、一度お会いした方を忘れません。太田様にはご贔屓にして下さいました。思い切りの良いお方で、偶に大口のお取引をして下さいました。一度、太田様の時計をお持ちの女性に、大層多くのお金をお渡しする様お申し付かりまして。

……その女性ですか?申し上げにくい話ですが、踊り子でございます。とうの昔に辞めてしまいましたが、当時のヴィクトリア座のナンバー2でして。エリスという娘でしてね。それはそれは美人で、何といいましょうか、そそると言いますか、実は私も落籍を狙っていましてねぇ…失礼、関係のない話でございました。ともかく、二人はそういう関係なのだったという事でしょうね。その後の噂はとんと聞きませんが」



ヴィクトリア座座長の談

「エリスぅ? あぁ、あの恩知らずの事か。あのアマ、ちょっと人気があって、親父さんに守られてると思って好き勝手しやがってよぉ。その親父が死んだもんだから、あいつを助けるつもりで俺の女にしてやるっつったのに、泣いて嫌がりやがって。親父の葬式代もろくに払えねえんだからよ、黙って俺に股ぁ開いときゃあいいもんを、黄色い猿なんかになびきやがって。コンチクショウ!

まさか、テメエあの猿の親戚かなんかじゃないだろうな!あぁ!? ……違う?そうか違うか。ならいいんだ。悪かったな。

 そのうちエリスの野郎、猿の子を孕みやがっ…っ!!おい!急に高い声出すんじゃねえ!おいおい、そんなに驚く事か?女ぁ囲うんだからよ、するこたぁするに決まってんだろうが。生息子じゃあるめえし。

 その後?悪ぃけど知らねえな。エリスの奴、身重で踊れねぇとかぬかしやがるもんだから、クビにしてやったよ。世の中にゃあそういうのに目が無ぇ好き者も多いから、舞台で立って悶えてるだけで良い値が付くってのに、勿体ねェ。

 その相手の猿だぁ?知らねぇよ。会ったことも無いね。一度ケーニヒ街の珈琲屋で、エリスと一緒にいるのを見掛けた限りだ。

 さあさあ、駄弁りの時間はここまでだ。もう帰ってくれ!踊り子どもが舞台の準備に来る頃合いだ。踊りが見たいってんなら、外出て右でチケットを買ってくれや」



ケーニヒ街の珈琲店のマスターの談

「ここに来ていた日本人ですか?あぁ、随分昔にいましたよ。ここには様々な人が来ますが、その中でも、中国人みたいに大勢でつるんでいない東洋人は、彼だけでしたからね。

 よく来ていたかですって?そりゃもう、一時期はほぼ毎日来てましたよ。朝来て、今あなたが座っている、窓際の席に陣取る。それから珈琲を一杯頼む。はこばれてきたカップに手も付けず、あの棚から新聞を一部ずつ全てに目を通し、ひどく熱心にノートに鉛筆を走らせる。丁度今のあなたのようにね。それから昼過ぎになると、身の軽やかそうな女の子……雇っていた小女は、舞の姫とか呼んでいたっけ……に連れられて、帰ってゆく。決まってそうしていました。根が真面目なんでしょうね。毎日その作法を崩すことはありませんでしたよ。

 彼の生活は、決して楽ではなかったと思いますが、それでもとても楽しそうでしたよ。舞の姫に向ける笑顔は、恋慕というより傾慕に近い印象を受けましたし、書き物のほうも、遣り甲斐を感じているようでした。そうそう、書き物といえば、一度彼に何を書いているのかを聞いた事があったのですが、なんでも日本の新聞の社説を担当していたそうです。毎日多くの記事を読むことで、ドイツ語の上達や、世相に対する見識が育つのが感じられてとても楽しい、と言っていました。

 ここはこんな街ですからね。この店に来る客は大抵訳有りか悪徳人かサボタージュのどれかで、あまりまともな人間は来ないんですけど、その中にあって彼はなかなか面白い人でしたよ」



某新聞社の海外特派員の談

「どうも、こんにちは。なんでも私の書いた記事に興味がおありとか。しかし、連絡を頂いた時は本当に驚きましたよ。なんてったって、私の記事を抹消したのは他ならぬ太田家なんですから。太田家の人間にこの話をする日が来ようとは思いもしませんでした。…あ、いえ、別に太田家を恨んでいるわけじゃ無いですよ。記事は大変高額で買い取って頂けましたから。

 さて、どこから話しましょうか。太田豊太郎氏が官任を罷免されたのは知っていますよね?…そうです。女性関係です。その後、豊太郎氏は相沢謙吉氏の紹介で、わが社の通信員としてベルリンに残り、その女性、エリスと共同生活を営んでいました。そんな生活が暫く続きました。ある時、天方大臣がベルリンに外遊でいらっしゃったことがありまして、その際、秘書官をしていた相沢氏がまたも紹介をし、その縁で今の役職に就いたという事らしいです。

 ここまでは、多少立ち入ったことを知っている暗黙の了解…いえ、沈黙の了解の範疇です。ですがこの話には続きがあります。

 数年前、太田豊太郎氏は既に現在の地位に就いており、我が新聞社の社員ではなくなっていた頃、私はベルリンに派遣されることと相成りまして、どうせならば豊太郎氏の空白の数年を調べようと、今までに話したことを日本で調べてからドイツに発ちました。それから、社内の郵便記録で調べたクロステル街のエリス宅に取材をしに行ったのです。残念ながら、エリスの母親にしか会うことは出来ませんでしたが。その媼は最初は渋りはしたものの、謝礼金を約束すると、予想よりも容易く口を開いてくれました。

 媼の話では、なんでも、エリスは豊太郎氏の子供を孕んでいたそうです!…おや?あまり驚きませんね?そのご様子だと既にご存じだったようですね。しかし、話はまだ終わらないのです。

エリスが懐妊したのは豊太郎氏が天方伯と面識を持つ少し前で、つまり豊太郎氏の帰国のめどが立ち始める頃が、身重で精神が暗くふさぎ込む時期と重なってしまったのです。その結果、エリスは発狂し、マッドハウスに収容され、今でも生ける屍として、死せる生者として、ただ日々を過ごしているそうです。

このことを知っているのは、豊太郎氏と相沢氏、それから私と直属の上司、そしてこの過去を抹消せんとする太田家の人間のみです。私もここまでのスキャンダルを掘り当てるとは、思いもしませんでした。薮には棒を突っ込んでみるものですね。鬼が出るか蛇が出るか、分かったもんじゃありませんから」



クロステル街のエリス宅の表に住む靴屋の主人の談

「上に住んでるワイゲルト家の娘さんかい?それならここにはいないよ。あんまり大きな声じゃ言えねえが、なんでも心から愛した男に捨てられて、気が狂っちまったんだと。今はダルドルフの精神病院にいるって話だ。病院行の馬車に乗せられるところを見ちまったんだが、酷い有り様だったよ。もともとは男受けのする、綺麗で可愛げのある娘だったんだがね。髪はボサボサ、目は虚ろ。服も手作りの襁褓しか着やしない。せわしなく動き回ったかと思えば、まるで魂が抜けたように反応が無くなる。かと思えば急に泣き喚き、柱を齧り、トヨタロウ トヨタロウ クスリヲ クスリヲと繰り返す。

相手の男もひどい奴さ。あの狂いようを知らないならまだしも、狂ったことを知りながら娘の元を去ったんだから」



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 私の聞き込みは此処で終了する。いや、終わらせざるをえない。わたしはあの不埒な新聞記者の様に、そばにあった梯子を上ることは出来なかった。いや、してはならないのだ。太田の名を持つ者として、その手摺に触れることが許されるはずがない。


 私は父ならぬ父を知った。あの物静かな養父の腹の中を、垣間見てしまった。私が父の過去を知った事は、私の彼へ対する認識や態度に影響を及ぼさないことは出来ないだろう。


 ここで筆をおく前に、一つ書き残さなければならないことがある。

私があの父の狂巣クルスを後にしようとしたとき、あの触れられざる梯子から、齢十あまりの利発そうな童子が降りてきた。


 彼は黒い瞳をしていた。

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舞姫の子 大川黒目 @daimegurogawa

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