ここにいたい

鬼木ニル

ここにいたい

肩を殴られる。鈍い痛み。

鋭い目が、鬼気迫る顔が、確かな殺意を抱えた枸一郎こういちろうが私に詰め寄って来る。

スローモーションのように見えた。

枸一郎の手が伸びる。目を閉じる。


「死にてぇのか、なぁ、おい」


頭皮が剥がれるんじゃないかと思うくらい髪を強く掴まれ、熱い刺すような痛みが走る。

咄嗟に枸一郎の腕を掴み抵抗した。


「離して、離して……」


硬い腕。男の力には敵わない。

唇が震える。


「おい、聞いてんのか?なぁ、玻奈はな


揺さぶられてブチブチと髪の抜ける感覚、ぼやける視界。

涙が勝手に流れた。


「痛いってば、やめて、やめて、ねぇ……」


「ぶっ殺してやる」


ゴン、と左の頬に強い衝撃が走り視界に星が飛んだ。

顎がひしゃげたみたいに顔の骨が上手く噛み合わない。

ヒィヒィと声にならない声を上げた。

枸一郎は掴んでいた髪を放した。

床に転がり込む。冷たい床。うずくまることしか出来ない私の背にまたゴンと鈍い重み。

枸一郎は背中を立て続けに殴った。何度も。何度も何度も。

意識が揺れる。

浅い呼吸を繰り返し、ブルブルと震える。


「なぁ、わかったか、玻奈、玻奈、おい、玻奈」


私はうずくまったまま、首を縦に振った。

部屋には私の嗚咽と枸一郎の荒い呼吸だけが響く。

しばらくの静寂の後、硬い腕は私の肩を抱き起こした。


「わかったならいいよ、玻奈、ごめん、俺……」


枸一郎はため息なのか、泣き声なのかわからない声を出して私を抱きしめた。

痛い。体が痛い。枸一郎の掌は私の肩をがっしりと捕まえている。

体温。熱い。香水のにおい。トミーヒルフィガー。

クラクラする。


「痛い?」


背中を撫でる手は、さっき私を殴りつけたそれと同じなのに。


「玻奈、ごめん、ごめん……」


私の名を呼ぶ掠れた声は、さっき私を殺してやると言ったそれと同じなのに。

私は黙って枸一郎の背に手を回した。



「――玻奈ちゃん、本当に大丈夫?」


ホテルのベッドの上、うつ伏せに寝転がる私の背中を見下ろして夾平きょうへいは言った。

何も纏わぬ肌に浮かび上がる無惨な痣。夾平はいつも私の体に浮かび上がるに湿布を貼った。

そんなことしなくたっていいのに。

慰めという行為はよほど便利な言い訳になるのだろう。

薬指に控えめに光る指輪をつけた手で私の髪を撫でた。


「……大丈夫、慣れてるから」


ついさっき、痣だらけの女を抱いたのは紛れもないこの男だ。

そしてその前に泣きじゃくる私を抱いたのは枸一郎。

二時間前の出来事。


「俺そろそろ行くけど、平気?」


「うん」


「ちゃんと病院行けよ?」


「うん」


病院。

彼が指す病院は外科じゃない。


「じゃあここ、置いとくから」


いつものように夾平はサイドテーブルに万札を数枚置いて立ち上がった。

ベッドが揺れる。左の頬がズキズキする。

シャワーも浴びないで帰るのは、仕事を装っているから。

ボディーソープやシャンプーの香りがすれば勘付かれてしまうだろう。

部屋を出て行く夾平に手を振って、またベッドに沈んだ。

バタンとドアの閉まる音。

一回り年上の人。家庭がある人。

中に欲を吐き出された未成年の女に、これ幸いと自分の欲も吐き出してホテル代とアフターピルのお金を置いていく人。

どうせ精子を殺すのであれば、まとめて殺せばいいのだから。

他人の精液が注ぎ込まれた体に突っ込んでおきながら、シャワーも浴びずに帰るだなんて信じられない人だと思う。

帰ってからすぐシャワーを浴びるからと言っていたけど、気持ち悪くはないんだろうか。


顔を上げ見下ろした真っ白な枕カバーに、私の切れた口角から滲んだ血が付着していた。

ほんの小さな一点のシミ、霞んだ赤茶色が「使用済み」の証になった。

溢れた笑みで頬が引き攣れて痛んだ。



――駅前の薄汚れたビルの3階は、無愛想で辛気臭い顔をした受付のいるレディースクリニックだ。

駅前、繁華街のすぐ近くという立地の良さに対し、出入りする患者の層は偏っている。

奇抜な髪色、けばけばしい化粧をした年齢不詳の女。

一昔前のファッションに身を包み、ミニスカートから出た弛んだ膝小僧を放り投げて座る年増の女。

ぐちゃぐちゃの化粧にもつれた髪でにやつく女。

それから、すっかり腫れあがった頬に大きな痣、切れた口角に赤を滲ませながら出歩く未成年の私。

決して深入りせず淡々と治療をする医師の態度からここには水商売などの訳アリの患者ばかりがやっている。

糸が飛び出してボロボロのビニール製の長椅子に座って私は名前を呼ばれるのを待った。


ここにいる女たちは殆どが私と同じものを求めている。

アフターピル、低用量ピル。性病の治療。それから人工妊娠中絶。

おめでたいことなんて一つもありはしない。


冷たく突き放すような声で名前を呼ばれ、診察室に入ると痩せていていかにも神経質といった面構えの医師がカルテに目を通していた。

この医師は一度だってこっちに視線を向けたりしない。

分厚い眼鏡の奥の目は死にきっている。


「避妊に失敗しました。アフターピルをください」


いつもと同じセリフを言う。

もうこんなこと口に出さなくたって伝わるだろうに、言わないと始まらない。


「失敗した時の状況は」


「ゴムが破れました」


「……、出します」


抑揚のない、ボソボソと話す説明を聞いてから診察室を後にした。

そろそろあの説明も暗唱出来そうだ。

未成年の場合保護者の同意書がいるらしいが、いつも私がサインをした。

そういうところを黙認しているから、ここには後ろめたいことを抱えた女が来る。


オレンジ色のフィルムに包まれた錠剤。

モーニングピルだとか、アフターピルと呼ばれている緊急避妊ピル。

これを性交から12時間以内に服用すれば90%以上の確率で妊娠を阻止出来る。

今、私の胎内にいる無数の精子たちは役割を果たせぬまま死んでゆく。

自宅に帰って封を開け、二錠を水で流しこんだ。

さよなら、精子たち。

外はまだ明るい。明日の学校は休もう。

足の踏み場もない自室でベッドにダイブすると、背中が痛んで息ができなくなった。


枸一郎は私がピルを飲んでいることは知っている。

でもその金の出所を知らない。

粗方、母からせびっているとでも思っているのだろう。

昔はそうしていたが今は夾平がいる。

夾平は友達のバイト先の店長だった。

店に通ううちに連絡先を交換して、そして成り行きでこうなった。

成り行きで?

――いや違う。


「玻奈ちゃん。ダメだよ、このままじゃ」


強く掴まれたために指の腹の跡が5つ、赤黒く残った私の手首を見て夾平は言った。

夾平の車が先に友達を降ろして私の家まで向かう途中であった。

夾平は面倒見がいい。30歳。くまの出来た不健康そうな顔は年齢よりも上に見えた。

チェーン店のファミレスの店長。3年前に結婚して、奥さんと2歳の娘がいる。

見た目こそ近寄りがたいが、気さくで、落ち着いた口調から従業員に慕われていた。

店とは無関係の私のことも当たり前のように受け入れて、心配までしてくれる。

もう遅いからとバイトの女の子を車で送っていっても何ら疑われない優しさと誠実さ。


「慣れてるんで」


枸一郎の暴力的な振る舞いは世間から見れば異常だろう。

ましてや、こんなに優しい大人から見れば放ってはおけないのだろう。


「慣れって問題じゃないでしょ。むしろ慣れたらよくないことだよ」


「平気です」


夾平はため息をついた。信号が黄色から赤に変わる。

車はゆるやかに減速して止まった。


なずなも心配してる。ほら、あのさ、DV以外にもあるんでしょ。そういうのを」


「中出しですか?」


「それ。女の子なんだからあんまり言いなさんな」


「別に、アフターピル飲めば何とかなるし」


「高いんじゃない?」


「高いけど、飲むしかないから」


「飲まないようにさ、もう別れたらいいんだよ。別れたら殴られることもなくなるよ」


「いつでも別れられますよ」


信号は青になる。

車がまた進み始める。


「夾平さんみたいに結婚してるわけじゃないんで、いつでも別れられます」


いい加減やり取りにうんざりしていた私は試すように、厭味ったらしい言い方をしてみせた。

怒ってもいい。呆れてもいい。

この人はどうするのだろう。


「玻奈ちゃんは結婚願望ない?」


「あんまり」


「そっか。悪くないけどな、結婚って。しんどいこともあるけど、楽しいこともたくさんあるっていうか」


優しいのか、大人なのか、そのどちらもか。

夾平はいつもと変わらない様子で話し続けた。

温かい家庭が彼にはある。

安らげる場所。そして守らなきゃいけないもの。

私は新品の、ふわふわなぬいぐるみのようだと思った。

これから月日を重ねて少しずつ草臥れて、においが染み付いて、思い入れも増えて、やがてボロボロの存在までもが愛おしくなる。

まだまだその日にはほど遠い、新品のぬいぐるみ。

柔らかで温かく、まだ手垢のついていない新品の家族をこれからずっと大切にしていくんだという希望。


「夾平さんは、幸せですか?」


車は路地を進み、私の家の近くに差し掛かる。

今日はやけに霧が濃い。

ハイビームで照らせば目の前が真っ白になってしまうほど。


「俺?まあ幸せだと思ってるよ」


顔色はいつも悪いが、彼はよく笑う。

優しい目で。


「じゃあ私って、今ある幸せを壊せる価値がありますか」


「……それ、どういう意味?」


「幸せがなくなっちゃうかもしれなくても、私といられますか」


新品のぬいぐるみが汚れていく。

クレヨンで落書きをする。泥を塗りたくる。踏みつける。

躊躇い嘆くのは最初だけ。うっかり汚れてしまえば後はどれだけやろうが同じ。

坂道を転げ落ちるように私たちの関係はもつれて、体ばかりが近づいた。



自室のベッドの上で毛布にくるまり私は目を瞑っていた。

便利なものには副作用がついてくる。

私がよく服用しているノルレボは副作用が少ないらしい。

それでもだるさと不快なムカつきを感じる私は、アフターピルを飲むのに向いていない体なのかもしれない。

向いてるも向いてないもないだろうけれど。


これからしばらくの間、こうして静かに出血を待つ。

鮮やかな血が出たら――生理が来たら、避妊成功。

どうせ三日ほどで血が出始めるのはわかっていた。私は気だるさの中、毛布にくるまってひたすらその時を待った。

顔が痛い。左側を下にして寝るのはやめておこう。

枸一郎は最近、堂々と顔を殴るようになった。

昔は服で隠れる箇所しか殴らなかったのに。


「はーちゃん?帰ってるの?」


玄関の方から聞こえた声に私は舌打ちをした。

鬱陶しい。


「はーちゃん」


声が近付いてくる。不愉快極まりない。


「はーちゃん?」


コンコンとドアをノックする音さえ私をイラつかせる。


「……寝てんだから静かにしとけよババア」


私は枕元にあったパーカーを引っ掴んで投げた。

服だから大した派手な音もたてず、ボンと虚しくドアに当たって落ちた。


「ごめんごめん!帰ってたのね、ごめんね」


この女はいつ学習するんだろう。

用があればこっちから言う。それ以外は黙っていろと。

背中も顔も痛い。最悪だ。

またベッドに身を預けた。


「はーちゃんご飯いるのかなって、それだけ聞きたくて――」


「いらねぇよ」


「そう、ごめんね、ごめん……」


母の声はようやく遠ざかる。ため息をついて目を瞑った。

私はこの家で腫れ物だった。

父は仕事にしか興味がない。母はいつもビクビク怯えている。兄は大学に入ってから家を出た。

私は学校に行ったり行かなかったりしながら、高校を中退してフリーターをやってる友達の薺と、それから同級生の枸一郎と無意味に人生を消費している。

枸一郎、大好きな人。



「ハナー」


後ろから抱き締められる。

背中はまだ少しだけ痛いけれど、そんなことはお構いなしで枸一郎は私に体重をかける。

日曜日は枸一郎の家で過ごすのが当たり前になっていた。

冷たいフローリングの上、投げ出された太腿。

私の脚には古い傷跡ばかり。切り傷、内出血、火傷……古いそれらが茶色いシミをいくつも残した。


「コウ、重い」


背中に感じる体温。私とは違う体。私よりも見慣れた体。トミーヒルフィガーのシトラスのような香り。


「だって全然学校来ないじゃん」


「生理きつくて」


「まだ痛い?」


「んーん、痛くない」


子供みたいに無邪気に抱きついて、にこにこと笑う枸一郎は愛おしい。

彼は一見大人しく、真面目そうに見える。

二人きりでいるときにこうやってはしゃぐ姿は誰より楽しげで、脆く危うい。

強い目力のある鋭い瞳。小さな声で話す様。孤独。

枸一郎は男友達とつるんで順調に高校生をやっていた。

私よりもちゃんと学校に通って、部活にも入って、揉め事の一つも起こさずに。


「明日は学校来れんの?」


「うん。行く」


「玻奈いないとつまんないから」


恥ずかしげもなくそう言って、私の左頬に唇を寄せた。

薄黄色く斑に残った痕。痛みは殆どない。

青い痣をぶら下げて学校に行けるわけがない。

ガーゼや眼帯で隠したって限界があるだろう。

私の目の前に伸びる枸一郎の腕。骨っぽい腕、手。

細い指。関節は内出血の跡が残る。

私と同じように、茶色と薄黄色で汚れている。

殴る手も痛いのだと、いつだったか枸一郎は呟いていた。


「なぁ、休んでる間ずっと家にいた?」


耳元で囁く声。ゾワゾワと背中を駆け上がるむず痒さ。


「いたよ。ずっと寝てた」


「マジで?」


「いたから」


答えのない尋問が始まった。

私がどれだけイエスと言っても、枸一郎は許さない。

きっと枸一郎の中では既に答えは決まっているのだ。


「返信遅かったじゃん。既読も」


声は少しずつ怒りを孕む。


「寝てたんだって、ごめん」


茶化すように笑って、私はトリガーを引いた。

私を抱えていた腕はすり抜けて、襟の後ろを掴んだ。

ガクンと頭が揺れる。首が絞まる。


「なんで嘘つくんだよ」


「ついて、ない」


「薺といたんだろ」


あっという間に黒く、重たい曇天が広がった。

Tシャツの襟ぐりは私の首に食い込んだ。

そのまま後ろに引きずり倒されて、後頭部を床に打ち付ける。

鈍い音が響いて星が飛ぶ。

脳が揺さぶられて、その痛みと衝撃に顔を顰めた。


「……家にいた、寝てたの、嘘じゃない」


私を見下ろす枸一郎の目は冷たい。そして今にも爆発しそうな悲憤を燃えたぎらせている。

後頭部にじわりと熱が広がった。痛い。


「いつもそうやって裏切るもんな」


反射的に目から涙が溢れ落ちてこめかみを濡らした。

枸一郎はそれが憎くてたまらないのだろう。

爆ぜた怒りが、哀しみが私のTシャツへと伸びた。

馬のりになってめいいっぱい掴まれたTシャツは引き裂かれた。

ビリビリと音をたてて呆気無く破れて、下着と肌が露わになる。

殴られるかも、首を締められるかも。

私は咄嗟に両腕で顔を庇った。

枸一郎は私の腕を掴んで、ぎりぎりと押し潰すように力を込める。

そして顔を覆うその腕はあっさり払い除けられた。

見えたのは振り上げた手のひら。

殴られる。スローモーション。枸一郎の怒気。

バチンと大きな乾いた音とともに横っ面に突き抜ける痛み。

頭を留守にする暇などない。

ぼーっとした視界に次々と降り注ぐ平手打ち。

目にも頬にも鼻にも容赦なく強く鋭い痛みが続く。

グラグラ蹌踉めく枸一郎の顔、腕、天井。

死への警戒、恐怖、興奮。


いつの間にか噴き出した鼻血で赤くなった枸一郎の掌は、確かに汚れている。

私の血液がべっとりと付着した手。惨めに穢れた手。快感。




「自分を大事にしなよ」と夾平は言った。

腫れ上がった顔をした醜い私を、未だ消退出血が終わりきらない私を、平然と抱いておきながら。

この間にも何も知らない娘と奥さんを家で待たせているのに。


「この前見たよ。奥さんと、こども」


三人で買い物してたね、と私が続けると夾平は一瞬だけ眉間にシワを寄せた。

もうぬいぐるみはぐちゃぐちゃだ。どれだけ大切にすると言っても、私が落書きしてしまったそれは傷ましい。

夾平は適当に言葉を濁していつものようにサイドテーブルに万札を数枚おいて去っていった。


手を伸ばして万札を握り締めた。手の中でぐしゃぐしゃになる。もう元には戻れない、しわくちゃなお札。

反対の手で脱いだままベッドの上にあった、枸一郎から借りた大きなTシャツを引っ掴んだ。勢い良く振り上げて何度も何度もベッドに叩きつける。

血で汚れた手。ぐちゃぐちゃになったぬいぐるみ。

破かれた服。腫れ上がった顔。アフターピル。消退出血。痣。

ぐるぐると頭の中を渦巻く興奮と狂乱。

私はケタケタ笑いながら万札、Tシャツ、枕、ボックスティッシュを次々投げた。

痛い。頬がヒリヒリする。それでも手当り次第投げ続け、私は狂ったように笑った。



「殺してやる、殺してやるよ、お前なんか」


枸一郎は目を吊り上げ、真っ赤な顔をしてベランダに私を追いやる。

薺に誘われた飲み会は知らない男の家で行われた。

ホストとキャバクラのというろくでもない男二人と、私と薺。

にやついた男たちの顔を見た瞬間、もうどうでもよくなっていた。

早々に酔い潰れた私はそこでホストの男に犯された。

抵抗したらいけない。抵抗する意味とは。


世間は狭いもので、枸一郎の友達を通してそのことがバレた。

だから私は日曜でもないのに枸一郎の家に呼び出されて、こうして珍しく真っ当な怒りをぶつけられている。

どうせアバズレみたいな身なりの枸一郎の母親は毎日パチンコ屋に行って戻らない。枸一郎はいつも独りこの家にいるのだ。


「お前さぁ、死なねぇとわかんねぇんだろ」


鉄の味が広がる口。眼窩が熱を持って、外の風に当たるだけで飛び上がりそうなほど痛む。

リモコンで殴られたこめかみ。踏みつけられた肋。息が出来ない。燃えるように痛い。

這いつくばったコンクリートはザラザラしていて、とても冷たい。

片目が開かない。見えない。霞んでいる。

夜の街を行き交う車の音と、枸一郎の怒声。

汚れた手が胸ぐらを掴んで、私を引っ張り上げた。


「死ねよ、今すぐ死ねよぉ、なぁ、死んでくれよ」


ベランダの古びた手すりに背を押し付けられる。枸一郎の顔は滲んで見えない。情けなく震える声だけが聞こえた。

ここはマンションの7階。落ちたら私は死ぬんだろう。

どこか冷静に考えながら必死に抵抗した。力んで硬いその腕に爪をたて懸命に拒む。


枸一郎は普通の――だが言い知れぬ孤独を秘めたスポーツ少年だった。

彼の手を汚して、壊したのはきっと私だと思う。


「死ね、死ね、死ね」


綺麗で温かいそれを汚すほどの価値が私にはあるんだろうか。

小学生の時、友達の持って来た新品のハンカチを目の前でドブに捨てた。工作をびりびりに引き裂いた。家の窓に石を投げ入れた。

中学生の時、嘘をついて友達を仲違いさせた。好きな男を言いふらした。嫌われていた教師に告白させた。

去年、薺を唆して学校を辞めさせた。

形あるものを壊してしまえるような存在感が私にはあるんだろうか。

そいつが居なくなって空いたその場所が私の在処になるのだろうか。

いつだって試したけれど、いつだって確証を得られない。


上手く狙いが定まらない目で枸一郎を見ることは諦めた。

どうせ何も見えないなら、このまま死んで終わりにしちゃえばいいんじゃないの。

あんたが、あんたたちが殺したんだって、みんなの人生に一点の落ちない汚れを染みつかせてさ。

乱暴に揺さぶられて、柵に背中がゴンゴンと打ち付けられる。

鈍い痛みよりも落ちたら死ぬという恐怖、興奮、恍惚が私を支配する。


「なぁ、おい、どうすんだ、どうしてくれんだよ、死ねって、死ねよ」


ぶれる景色。空を仰いだ。

星も月も見えやしない、雲に覆われてただただ黒い夜空。霞んで二重に見えるけれど、どこまで行っても真っ暗だ。

お前も壊して私のものにしてやりたい。

嗚呼もう全てが壊れてしまうんだ。壊したくてたまらなかったんだ。

私は爪をたてていた手を解き、体の力を抜いて両腕を広げた。今にも体は落ちてしまいそう。

なのにどうして。


「……いたい」


いたいよ。

放り出したうわ言は黒い空に溶けて滲む。



END


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ここにいたい 鬼木ニル @oniki_nil

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